7. 白い夢
頭上の黒が、次第に暗い青に変わっていって、そこに空があったことを思い出す。なつめは札幌の中心部を流れる小川沿いのベンチに座り、縮こまって夜をやり過ごしていた。
夜は、遅々として過ぎ去ってくれなかった。昼間には多くの人や車が通っていたはずの目の前の大きな道路は、夜明けを待つ今の時間にはときおり一台の車が走っていくばかりで、人気のない道のまっすぐさが、なつめの孤独を際立たせた。
静寂の中、ふいに、ざっ、という何かを引きずるような音がして、びくりと川の先を見ると、ひどい身なりをした男の人が、片足を引きずりながらこちらへ歩いてきていた。まだらに抜け落ちている白髪交じりの髪は奇妙な長さまで伸びて、暗い色のシャツは、摩耗して白っぽくなり、ところどころに開いた穴から肌が覗いている。明らかに浮浪者だとわかる男の、その虚ろな目が何を見ているのかわからなくて、なつめは、必死に気づいていないふりをした。
片足を引きずるその男の人の、あまりにもゆっくりとした歩みが過ぎるのを息を殺して待ちながら、ふと、ミヨのひったくり事件のことを思い出し、財布の入ったリュックを抱く腕に、ぎゅっと力が入った。
あの子は今、地下道でひとり眠っているのだろうか。あの広い地下道の暗闇の中で、地上に出ることを諦め、誰にも見つからない透明な身体を縮こめて眠る気持ちは、いったい、どんなものだろう。そのことを考えると、一睡もしていない頭が、締めつけられるように痛みはじめる。
なつめは、すずとのホテルに戻るべきだったのかもしれない。けれど今さらどんな顔をしてすずに会えばいいのか、なつめにはもうわからなかった。『嘘、ついてるでしょ』というなつめの言葉が頭の中にこだまして、痛む頭を揺さぶられている気がした。
浮浪者の男性が通り過ぎた後も、なつめはリュックを強く抱きしめていた。札幌の涼しい夏のはずなのに、じっとりと、額に汗をかいていた。
気づけば、白んできた空に朱色が差している。夜が終わる。
早く過ぎてほしいと思っていた夜なのに、明けていくともう一つの痛みがやってくる。
最後の日が、来てしまう。
§
青空と太陽が、なつめの丸まった背中を焼いている。
レンガのような外観の建物たちと大きな木々が立ち並ぶ北大のキャンパスを、なつめは歩いていた。いかにも旧帝大らしいスケールの大きなキャンパスの中を、縮こまって、のろのろと足を進める。
寝不足の頭はずっと痛み続けている。なつめの周りでは、なつめと同い年か、それか一、二個下の高校生たちが、期待に満ちた目であたりをきょろきょろと見回していて、その様子に、どうしようもなく苦しくなる。
行きたくないし、行けっこない医学部を見に行かされるなつめとは、まるで別の世界に生きているような気さえする。なのに、彼らが目の前にいることで、目にしてしまうことで、彼らのようにはなれないということを思い知らされる。
ミヨも、こういう気持ちだったのだろうか。地上に生きる人間とは違う、ということをミヨ自身が知っていたのなら、なつめは彼女に外の世界なんて見せるべきではなかったのではないか。そうすれば、いつかは外に出られるかもという、根拠のないうっすらとした希望に支えられながら生きていくことができたはずで、あんなふうに、地上に出ることを諦めた涙なんて、流さずに済んだのではないか。
すずとの約束だってそうだ。なつめが本当に、どんなことがあっても、たとえお父さんに部活を辞めろと言われても、絶対に陸上部を続けるという意志があったのなら、勝手に約束をして勝手に破るなんてことにならなかったはずだ。
だから全部、夢みてはいけない希望だったのだ。
何も変えられない自分が、すずと一緒に走ることも、ミヨを地上に連れて行くことも、望んではいけなかった。
変えられないことを約束するのは、ただの嘘つきだ。
そのことに気づくと、力がふっと抜けて、ぐらりと視界が揺れた。焼くような夏の日差しにやられたのか、それとも気づいていなかっただけなのか、がんがんとする頭痛は頭が割れそうなくらいにまで強くなっていた。もうのろのろとした一歩すらも踏み出せなくなって、なつめはキャンパスの路上でしゃがみ込んだ。
頭の上で、声がした。
「何やってんすか」
顔を上げて声の主を見て、頭の痛みがさらに締め付けられるように強くなる。目の前にいたのは、一昨日なつめを嘘つき女と呼んだ、真央だった。
「やっとオープンキャンパスに来たと思ったら、これって」
呆れた表情の、日に焼けた真央の顔が、青空の中に逆光を受けて浮かび上がっている。立ち上がろうとするけれど、めまいがして脚に力が入らない。真央を見上げる情けない姿のまま、「ごめんなさい」と力ない言葉を言うことしか、できない。
「わたしのせいで、すずも、小野寺さんのことも振り回して」
「ほんとっすよ」
真央の手がなつめに伸び、思わず、目をつぶる。けれど次の瞬間、真央はなつめの片腕の下に肩を入れるようにしてなつめを立たせた。
「ほら、一旦建物の中行くっすよ」
え、と真央の横顔を見る。真央はこちらを見ないまま、肩を貸したなつめのことを引っ張るようにして歩き出す。
「どうして……?」
「先輩、一昨日あたしが先輩のこと話してるの、聞いてたんすよね」
息を呑んだなつめの隣で、真央は「聞こえるように話してたんで」と平然と言う。
「あたし、先輩のこと嫌いっす。勝手に約束して勝手にいなくなって、すずの気持ちを知ろうともしないで、被害者ぶってるようにしか見えないんで」
「やっぱり、そうかな」
「そうっすよ。なのに、すずは先輩の話ばっかするんです。むかつきません?」
え、と足を止めたなつめを、真央が引っ張る。
「だから、こんなとこでぶっ倒れてる場合じゃないんすよ」
大きな建物の裏まで歩いて、入り口の前で真央が誰かにLINEのメッセージを送った。しばらくしてドアが開く。ドアを開けたのは、大人っぽい、大学生らしい見た目の女性だった。
「どうしたの、その子」
「三高の先輩。具合悪いんだって」
そのまま二人に連れられて、ホールのテーブルの前で、椅子を並べて作ったベッドに寝かされる。仰向けになったなつめの顔を、女性が上から覗き込んで、穏やかに微笑んだ。
「わたし、農学部で院生をやってる、小野寺理央って言います。真央の姉です」
すずとの旅行に真央が混ざることになった理由が、北大にいる姉に会うことだったと、なつめは朦朧とした頭で思い出した。ボーイッシュな真央と雰囲気はまるで違うけれど、自信ありげに見える目元が、何となく似ている気もした。
日差しの当たらない屋内で、涼しい空気を肺に吸い込むと、少しずつ、めまいも頭痛も落ち着いてくる。ドアが開く音がして目を開けると、理央さんがスポーツドリンクを持って戻ってきていた。
「はいこれ。お金はいいから」
理央さんに上半身を起こされながら、「申し訳ないです」と言うと、「病人が何言ってるの」と諭される。
「早く治して、行きたい説明会に行ってくれたらそれでいいよ」
行きたい説明会、という言葉に、また息が詰まりそうになる。
「……いいんです。進路、親に決められてるので」
理央さんは、ぱちぱちとまばたきをした。
「じゃあ、やっぱりそれのお代もらおうかな」
「えっ」
「お金じゃないよ。代わりに農学部の座談会で使うスライドの確認、手伝ってねってこと」
理央さんが、近くの部屋からノートパソコンを持ってきて隣の席に座り、スライドを開く。向かいの席に座ってスマホをいじっていた真央も声をかけられていたけれど、「ん」と生返事だけをした。
「岩館さんは、北海道のお米を食べたことはある?」
確か、初日にミヨと食べたスープカレーのライスが北海道産のお米だったはずだ。固めに炊かれたお米の甘みが、スープのスパイスによく引き立てられていたことを思い出す。
「美味しかった?」
と聞かれ、頷く。理央さんは、満足げな笑顔を見せた。
「でも明治のはじめ、一八七〇年頃には、北海道のほとんどの地域で米が作れなかった。北海道の寒さに耐えられなかったの」
理央さんがスライドを進めると、北海道の図が現れる。稲作限界、と書かれた線が、北海道の南西の函館あたりから、北東の方へと次第に進んでいく。
「耐冷性を持つ品種の育成が進められると、北海道の広い地域で稲作ができるようになった。それでも美味しさは二の次だったから、北海道米は『やっかいどう米』なんて揶揄されたりしたみたい。そこから美味しいお米を目指した品種改良が始まったのが、一九八〇年代」
なつめには、北海道のお米が美味しくないなんてイメージは全然なかった。食べたときはむしろ、さすが北海道の食材だと感心していたくらいだった。
「色んな研究者が、イネの遺伝子を研究して、品種改良を続けてきた——」
そう口にした理央さんの瞳には、静かな熱がこもっている。
「最近では、北海道米が食味ランキングで特Aを獲るようになってる。寒さで稲作ができなかった頃から、たった百五十年の間のこと。これは北海道米っていう一つの例に過ぎないけれど——研究っていうのはそうやって、自分が何かを変えられるかもしれない作業なの」
理央さんが、スライドから視線を離して、なつめの両目をまっすぐ覗き込む。優しいけれど、力強い瞳だった。こういう人になりたいと、直感的に思う。
理央さんが、微笑んだ。
「岩館さんには、変えてみたいものはある?」
その言葉が、なつめの心の中に反響する。
わたしが、変えたいもの。
できるかどうか、じゃなくて、やってみなくちゃいけないもの。
わたしが動いて、変えられることがあるのなら。
それが、目の前にあるのなら。
がたんと椅子を鳴らして立ち上がったなつめに、向かいの席の真央が、びくっと顔を上げる。
「二人とも、ありがとうございました——わたし、行かなきゃいけないところができました」
おい、という真央の声にも応えず、リュックを掴んで駆け出す。出口の扉が閉まるとき、理央さんの、がんばって、という声が聞こえた気がした。