6. 青と青
抑えられた照明の中で、小さな魚たちの大きな水槽は、美術館の絵のように、もしくは暗い部屋の中から覗く窓のように、ただそれだけが浮かび上がっている。閉じ込められているのは魚たち側のはずなのに、水草の庭園みたいな水槽を覗いていると、まるで太陽の下にいるのは魚たちの方で、こちらが暗がりから魚たちを羨んでいるような、そんな不思議な気持ちになる。
ミヨが連れてきてくれたのは、地下道から繋がっているビルの水族館だった。
「——綺麗」
きらきら光る小魚を見てなつめが呟くと、ミヨは静かな館内に合わせてか、ただ静かに微笑む。尻尾の首輪は付けられたままだったけれど、どちらかが引っ張ることもなく、お互いの歩みに合わせて進んでいく。
「でも、どうして水族館なの?」
ミヨが水族館を選んだのは少し意外だった。ミヨだったら地下道の好きな場所を勧めてきたりとか、もしくは地上がよく見える場所に行きたがったりしそうだったし、何より水族館のテーマカラーの青色は、ミヨの嫌いな色だったはずだ。
「ここなら魚がいっぱいいるだろう? 食べ物が大好きななつめにぴったりだ」
想像していなかったミヨの答えに、一瞬考え込む。
「わたし、食べるのは好きだけど、水族館の魚まで食べたくなるわけじゃないよ」
「えっ、そうなのか……」
そんな食欲お化けだと思われているのはさすがに心外だ。世間知らずなミヨが勘違いしただけかもしれないけれど、食事中の「ずいぶん美味しそうに食べる」という自分の顔がどんなものなのか、ちょっと不安になってくる。
ミヨが、しゅんと肩を落とす。だけど、あれだけ警戒心の強いミヨがなつめを喜ばせようとしてくれたのは、素直に嬉しい。
「でも、ここ好きだよ。連れてきてくれてありがとう」
「……本当か? それなら、よかった」
ミヨが顔を上げて、巻き付けたままの尻尾を揺らした。
次の水槽に向かいながら、きらきらと光る小魚たちを見て、ふと、小魚だったらかき揚げにするのがいいのかな、なんて考えた。
上のフロアに進むと、さらに照明が落ちて、わずかに点いているライトも青色になる。暗い青の世界の中で、ミヨの瞳も青く光って見えた。
「青色、大丈夫?」
念のため聞いたけれど、ミヨは穏やかな顔をしていた。
「青は嫌いだ。でも、なつめと一緒に見るのはそんなに悪くない」
青く光る丸い水槽の中では、白いクラゲたちが、まるで上下なんてないみたいに、浮かんで、流れて、漂っている。水槽の向こうに反射する景色には、なつめとミヨの顔が映っていた。
ミヨが、水槽を見つめたまま、言う。
「さっきの奴とは揉めてしまったが、それでも今日は地上に出られるかもしれないと思えた。なつめのおかげだ」
「別に、ミヨががんばってるだけでしょ」
「そうだろうか——今はまだちょっと怖いが、もっと地上に出て、人間と一緒に生きられるようになってみせる」
ミヨの言葉には力強さがあった。ミヨはもう、このまま地上に慣れていけば大丈夫かもしれないと、なつめは思う。
「なあ、なつめ。今日で解放しろと取引したが、なつめはわたしのことが嫌いか?」
「うーん、うんざりしてるところはあるかも。乱暴に脅してきたり、わがままだったり」
「……そうだよな」
「でも、嫌いっていうのとはちょっと違うかな。だってやっぱり、わたしたち似てるもの」
「じゃあ、だったら——」
ミヨが、なつめの顔を見る。その瞳には緊張の色が浮かんでいて、けれど、真剣な眼差しだった。
「——わたしが脅したこととも、今日の取引とも関係ない、別の話があるんだ」
水族館の静かな空間に、ミヨの言葉だけが聞こえる。
青い光に照らされるなかで、ミヨの狐耳や、まつげの、ちょっとした動きまでわかる。
「わたしとなつめが似ていると言ってくれて、嬉しかった。わたしのことをわかってくれる人がいるんだと思うと、なんだか世界が違って見えるんだ。だから、だから——」
なつめに付けられた尻尾の首輪が、ほどかれる。
ミヨは、瞼を閉じる。
そしてもう一度、決意のこもった瞳でなつめを見た。
「——地上で、わたしと一緒に住んで……くれ、ませんか」
水族館の中で、時間が止まった気がした。
一瞬、その言葉の意味を考えてから、ああ、と、暖かい気持ちが溢れてくる。
緊張してこちらを窺うような表情を見て、わかった。ミヨは、諦めるのをやめようとしている。地上に出るために立ち上がろうとして、そしてその気持ちを、なつめと一緒にいるために使おうとしてくれている。
こんなに嬉しいことって、あるだろうか。
そのとき、静かな館内に、なつめのスマホの着信音が場違いに鳴り響いた。
はっとしてスマホを取り出すと、画面は『岩館 洋一郎』と、お父さんからの着信を告げていた。
§
電話を受けるには静かすぎる水族館から慌てて出て、ミヨから離れたところでお父さんにかけ直す。繋がるなり、『なつめ』と無愛想な声が聞こえた。
『高田さんから聞いた。オープンキャンパスに行っていないそうだが』
ひゅっ、となつめの喉が鳴る。小学校の頃から一緒にいたのだから、すずがなつめの家の電話番号を知っていても何もおかしくないということに、なつめは今になって気がついた。
「それは——」
ミヨのことを言うべきかと一瞬考えてみるけれど、言えるはずない、と思う。第一、ミヨのことを話したところで言い訳にはならない。ミヨから逃げ出さず、オープンキャンパスに行かずに地上を案内すると決めたのは、なつめだ。
『ホテルにも来ていないと聞いている。どうせ勉強もしていないんだろう? どこかで遊んでいたのか?』
ごめんなさい、とだけなつめが言うと、電話の向こうで、大きなため息が聞こえた。
『明日もオープンキャンパスはあるんだろう? 明日こそ参加しなさい。話はまずそれからだ』
「でも、明日参加すると飛行機の時間が——」
『そんなもの、タクシーでも使ってどうにかしなさい。どうしても間に合わなければ、新幹線に変えてもいい。模試の結果があんな有様なのにこれで明日も行かないようなら、外出禁止も考えるからな』
「外出禁止って……!」
そんなの、あまりにもひどい仕打ちではないか。オープンキャンパスに行かなかったとはいえ、すずとの約束や、他の高校生らしいことだって犠牲にして受験勉強をしてきたのに、どうしてこれ以上奪われなければいけないんだろう。
お父さんは、『わかったな』とだけ言って、こちらの返事も聞かずに通話を切った。
「なつめ……?」
その声にはっと振り向くと、ミヨが、すぐそばに立っていた。
「飛行機……明日……? なつめも、いなくなるのか……?」
「ミヨ、これは——」
黙っているつもりじゃなかったの、と言おうとしたけれど、ミヨには意味のないことだとすぐにわかった。ミヨの瞳は揺れて、口元は歪んでいた。
ミヨの声が震える。
「それに、外出禁止って、わたしのせいなんだよな」
「そうじゃないの——」
「やっぱり、化け狐が地上に出るなんて夢を見ちゃいけなかったんだ。わたしが全部悪かった」
そういうことじゃない、と叫ぼうとしたなつめの口を、ミヨの尻尾が塞いだ。ほどかれていた首輪が、また締められる。
「——ついてこい」
声も出せないまま水族館のビルを下ろされ、夕暮れに染まる札幌の地上に出される。首輪がほどかれて、ミヨは小さな両手でなつめの首を絞める。
「いいか、これは脅迫だ。今からわたしが言う通りにしろ」
乱暴な行為とは裏腹に、手も、声も、力なく震えている。
「目の前にいるのは、乱暴で、自分勝手で、おまえのことが大嫌いな化け狐だ。だからもう、地下道に来るな。二度とわたしの前に現れるな」
精一杯の虚勢を張りながら、ミヨは、泣いていた。
「そうしなかったら、絞め殺すからな」
ミヨはなつめの首から両手を離し、地下道出口に駆け込んでいく。
「ミヨ!」
なつめは名前を呼んで追いかけたけれど、地下へと下りていくミヨの後ろ姿は、次第に透明になって、見えなくなった。