3. 狐の宿
スープカレーの上には、素揚げされた色とりどりの野菜たちが輝いていた。
少しオレンジがかったスープを口に含むと、辛さに身構えたなつめの想像とは裏腹に、旨味とスパイスの香りが広がっていく。固めに炊かれた北海道産のお米も、素揚げされた野菜たちも、スープのスパイスで引き立てられ、驚くほどに甘くて、美味しい。
なつめは、札幌駅の地下にあるスープカレー屋に連れてこられていた。夕食と言うにはまだ早い時間だったし、理不尽な扱いをしてくるミヨにご飯を決められるのは癪だったけれど、疲れた身体にスパイスの効いたスープは魅力的すぎて、スプーンを持つ手が止まらない。自分だけ観光しているような気もしてきて、すず、ごめん、と心の中で謝る。
「美味そうに食うなあ、おまえ」
ミヨはぽかんとした表情でなつめがスープカレーを食べるのを見つめていた。ミヨのスープカレーはなつめのものよりまだだいぶ残っていたけれど、ミヨが食べるのが遅いというより、なつめが食べるのが早いのだろうか。
「……何、あんまりじろじろ見ないでよ」
でも、確かにこのスープカレーは美味しい。なつめの地元にはスープカレー屋さんはあっただろうか。お米や野菜といった食材も含めて、こんなに美味しいご飯をすぐに食べられる札幌市民が羨ましい。
「いつもこんな美味しいもの食べてるの?」
となつめが聞くと、ミヨは、
「わたしはものを食べなくても生きていける。だから、食事をするのは美味いものを食べたくなったときか、こうやって誰かと食べるときくらいだ」
と答えた。
なつめは改めて、目の前のミヨが人間ではないということを実感する。狐耳と尻尾が無ければ、ビッグパーカーを着た、街中を歩いていそうなただの小柄な子なのに。
「そもそもだけど、ミヨはなんで誰かと一緒に住みたいの? ずっとひとりで住んでたんでしょ」
「別に——何だっていいだろ。地上のおまえらだって誰かと住んでるじゃないか。理由が必要か?」
「それはそうだけどさ、無理矢理連れてくるなんて、同居人の関係じゃなくて拉致とか監禁でしょ。ミヨが誰かと住みたいなら、どこか一緒に住んでくれる家を探しに行くしかないじゃん」
ミヨは目線をスープカレーに落として、「地上は嫌だ」と呟いた。
「お前だって、今日目の前で見ただろう。バッグを盗られた。いつもそうだ。地上は野蛮で、恐ろしいところだ」
地上も地下道もそんなに変わらないんじゃ、となつめは思う。でも化け狐には化け狐なりに、何か事情があるのだろうか。
「だから、地下に住んで地下で寝る方がよっぽど良い」
姿を消せるのなら地上でも好き放題できそうなのに、と考えたなつめは、ふと、一つのことに気がついた。
「……ねえ、地下道で寝るときって、もしかして透明になってる?」
人間を毛嫌いしているミヨが、いくら地下道とはいえ、人が目の前を通るような場所で無防備に寝ているとは思えなかった。
「当たり前だろ。夜は警備員が見回ってるから、見つかったらつまみ出されるぞ」
「じゃあ、地下道で寝るなんてやっぱり無理じゃん……! わたしのこと、透明になれるとか思ってるの?」
「うるさいな。警備員くらいなんかこう、上手いことどうにかしろよ」
どうでもよさそうにスープのチキンを食べはじめたミヨの様子に、なつめは頭を抱えた。化け狐に脅されて地下道で寝泊まりさせられた挙句に、警備員に捕まったり警察に補導されたりなんてしたら、あまりにもあんまりすぎる。
「やっぱり無理だって。逃がしてくれないなら、せめてネットカフェとかホテルにしてよ」
「ホテルが何だか知らないが、どうせ地上だろ。嫌だからな」
地下にホテルなんて無いよね、と藁にもすがる気持ちで地図アプリを開くと、ある場所が目に飛び込んでくる。
「ねえ、地下道直結のホテルなら、地上に出たってことにはならないんじゃない?」
ミヨが地下が好きで地上が嫌いという基準は、正直よくわからない。だったらこちらも、よくわからない基準でとんちを仕掛けるしかない。
ミヨは首をかしげて、考え込む。
「地上の建物も外に出なければ地上じゃないって……そうか……? いや、そうなのか……?」
「誰かと一緒に住みたいんでしょ? ホテルって地上の家みたいな建物だよ、一回見てみるのもありなんじゃない?」
なつめのダメ押しが効いたのか、ミヨは少し緊張したような面持ちで、こくりと頷いた。
§
客室のドアを恐る恐る開けたミヨが、おお、と感嘆の声を上げた。
ビジネスホテルのツインルームに、ミヨがパタパタと駆け込み、なつめの首輪が引っ張られる。
「これが家か! 狭くて変なところだな!」
家ではないんだけど、というなつめの呟きにも耳に入れずに、ミヨは部屋の中をきゃっきゃと物色しはじめた。
「鏡がある! こっちの白くてでっかい箱は何だ——?」
この子供っぽい化け狐に捕まっている状況自体は、何も変わっていない。けれどようやくホテルに到着できて、疲れがどっと押し寄せてきた。
なつめはベッドの足元に腰掛ける。腰掛けただけのつもりだったのに、どうしようもなく身体の重さを感じて、そのままぼすんと倒れ込んでしまう。
「シャワー、浴びなきゃ……」
長距離移動も二回の全力ダッシュもあって、汗をかいた身体のまま、ベッドで横になるのは嫌だった。でも、もう身体を起こす気力もない。
ミヨが、ベッドに飛び乗ってくる。
「おい、起きろ」
「……ベッドの上は靴を脱ぐの」
「そうなのか」
案外素直に、ミヨはサンダルを脱ぎ捨てて裸足になる。地上の生活に興味があるからかもしれない。
ミヨはそのまま、へばっているなつめの隣で跳びはねはじめた。
「おい、これぼよんぼよんだぞ!」
「うるさい……」
なつめはまぶたを閉じた。誰のせいでこんなに疲れていると思っているんだ。せめてベッドの上くらいでは、少し休ませてほしかった。
「なあ、あっちの部屋はなんだ?」
「トイレとシャワーでしょ。ホテルでは一緒になってるの」
「シャワー……シャワーって何だ?」
「えっ」
シャワーを知らないなんてことがあるはずがない。というか、知らないなんて信じたくない。
「シャワーはほら、お湯が出てくる、お風呂場で頭を洗うやつで……」
「風呂なんて入ったことないぞ」
信じられないミヨの言葉に目を見開くと、ベッドの上、目と鼻の先で、ミヨの裸足がぴょんぴょん飛び跳ねている。
なつめは疲れ切った身体を叩き起こした。火事場の馬鹿力だった。
「ベッドに乗るな、シャワーを浴びろ——!」
シャワーカーテンの向こうで、ミヨが身体を洗う音が聞こえる。
ミヨをどうにか浴室に押し込んで、もう、なつめの気力は尽きていた。カーテンの脇から出ている尻尾に繋がれたまま、浴槽の脇に座り込む。重い頭を持ち上げながら、どうにかスマホを開いていた。
すずから『ホテル来られそう?』と来ていたLINEに、別のホテルに泊まるというメッセージと、はぐらかすように猫のスタンプを続けて、会話を終わらせる。ため息をついて、地図アプリで地下道の端から端、札幌駅の北からすすきの駅までの距離を測ると、一・七キロと表示された。直結しているビルまで含めると、たぶんもっと長い。
いつからか、頭はがんがんと痛みはじめていた。膝を抱えて頭を埋めると、力の入らない手からスマホが滑り落ちて、ユニットバスの床で、ごとん、と鈍い音を立てた。
わたし、何してるんだろう、と思う。部活を辞めさせられて、すずと疎遠になって、やっとまた話せたと思ったら、すずをこんな扱いにして。すずのメッセージはいつも通り柔らかかったけれど、きっと怒っているに違いない。
明日だって、オープンキャンパスには行けないのだろう。もともと行きたくなかったけれど、お父さんに怒られるだろうし、真央にもまたきっと「さぼって遊んでる嘘つき女」とか言われてしまう。
そもそもオープンキャンパスとか以前に、無事に岩手まで帰れないんじゃないか。脅され続けて、いつか本当に殺されてしまったら——?
膝に埋めていた頭が、まるで誰かに糸で操られたみたいに、ゆらりと浮かび上がった。
——どれもこれも、ミヨのせいなんじゃないか。
カーテン越しに聞こえていたはずのシャワーの音が、すうっと、聞こえなくなった気がした。
疲労で朦朧としている頭の中で、誰かが囁く。
——許せない。
その感情が、怒りや、憤り、恨みのようなものなのかすら、なつめにはもうわからなかった。ただひたすらに、その黒く濁った感情がこみ上げてきて——なつめは、何かに取り憑かれたようにゆらりと立ち上がり、シャワーカーテン越しに、そこにミヨの首があるはずの一点を、ぴたりと見つめた。
今なら、と、なつめの中で冷たい声が聞こえた。
シャワーに気を取られている、今なら。
何も身につけていない無防備な、今なら。
逃げ場のない、密室の、今なら。
この、ろくでもない化け狐のことを。
——大丈夫だよ。だって、人間じゃないもの。
なつめは、シャワーカーテンに手を伸ばす。触れそうになった瞬間——カーテンの向こうから悲鳴が上がった。
どん、と浴槽に倒れる音がして、首輪がほどける。はっと我に返ったなつめがカーテンを開けると、ひっくり返って顔を歪ませたミヨが、
「急に、焼けそうなお湯が」
と呻く。その今にも泣き出しそうな顔を見たなつめは、シャワーのハンドルを目一杯水側にひねり、廊下の製氷機をめがけて部屋から飛び出した。
赤くなってしまった足の甲に氷水入りのポリ袋を当てると、ミヨが顔をしかめた。薄い身体にバスタオルだけをまとい、髪も尻尾も乾かさないままベッドに腰掛けたミヨの姿は、あまりにも心もとなかった。その目元が、少し赤い。
ミヨが少し鼻をすすって、恨めしげに言う。
「ほら見ろ、やっぱり地上は良くないところじゃないか……!」
「ごめん、わたしのせいだ。もっと使い方、教えればよかった」
「いいや地上が全部悪い——こんな変な場所、わたしには、わからないことばっかりだ」
ミヨの言葉尻が、力なくしぼむ。
さっき自分がミヨに何をしようとしていたのかが、なつめの頭をよぎる。あんなこと、想像さえしてはいけないことだった。ミヨはわがままで、世間知らずで、乱暴だけれど、そのことで一番苦しんでいるのはたぶん、ミヨ自身だ。
「ねえミヨ、そんな嫌いな地上にさ、なんで今日は出てたの?」
駅で出会ったときの様子を思い出しながら聞くと、ミヨは呟くように、
「誰か、一緒に住んでくれる人を探そうと思ったんだ。地下じゃなくて、地上で一緒にいてくれる人を」
と、ぽつり、ぽつりと言う。それが上手くいかなかったことは、ひったくり事件を思い返せば明白だった。
「あのとき、バッグの中の金を見ただろう」
ミヨが遠い目になる。
「わたしにだって、地下で一緒にいてくれる人が、一人だけいたんだ。地下でひとりだったわたしに、人間みたいな服をくれて、ときどき会いに来て、色んなことを教えてくれた」
友達というものだったのかもしれない、とミヨは続ける。
「長い付き合いだったんだ。出会ったのは地下道の最初の部分ができた頃だったから、もう、五十年くらい前になる」
ミヨの年齢と外見が一致していないのは、何となく予感していた。化け狐なうえに、見た目以上に子供っぽくて、だけど口調は妙に堅い。ミヨという名前も、昔からある名前のような気がする。
「地上のことが何もわからなくても、あの人との関係が年の近い友達からおばあちゃんみたいな関係に変わっても、あの人がいてくれたら、それでよかった。なのに——」
ミヨは、膝とバスタオルに顔を埋めた。
「——数年前に、しばらく来られないって言って、バッグとお金だけ渡して、それからはもう——」
ミヨにとって唯一の、友人のような、祖母のような相手。おそらく七、八十歳付近だったその相手が、最後に渡した札束の意味なんて、なつめにだって想像ができた。想像できてしまった。
それは、遺産、というものではないのか。
「わたし、あの人が地上でどこに住んでいたのかも、どんな人と何をして過ごしていたのかも、知らないことばっかりだ。わたしが地上に住んでいたら、もっとあの人のことを知って、もっと一緒にいられたんじゃないか」
バスタオルでくぐもるミヨの声が、歪んで、揺れる。
「もう、ひとりになるのは嫌なんだ。だから地上に出て、誰かと一緒に住みたかったのだけれど——」
ミヨは少しだけ顔を上げて、赤くやけどした足を見た。
「——わたしはもう、ずっと地下から出られないのかもしれない」
「……そんなことない」
言葉が、なつめの口をついて出る。自分を脅してきた相手に何を言っているんだ、と心のどこかで囁いた冷たい声を、かき消す。
だって、地上に出ることに絶望してわたしを脅してきたこの子と、父に逆らえずに高校生活を上手く送れず、すずを傷つけてしまったわたし——その間には、本質的に違うところは何も、ない。
だから、ミヨは外に出られる。出られないなんてことが、あってほしくない。
「ねえミヨ、わたしと取引しよう」
なつめは、ミヨの手を取った。
「わたしからの要求は、明日でわたしを解放することと、もう人を脅さないこと——」
きょとんとしたミヨの前で、自分に言い聞かせるように言葉を繋ぐ。明日は、無理矢理行かされるオープンキャンパスなんかよりも、やらなきゃいけないことがある。
「——その代わり、わたしがミヨに地上のことを教えてあげる。怖くない場所だってこと、ミヨに知ってもらう」
閉じこもるのはもう、終わりにする。
「わたしと一緒に、空を見よう」