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2. 一点透視地下迷宮

 ロッカーを探すだけだったのに、すっかり遅くなってしまった。なつめが急いですずと真央のところに戻ろうとすると、よく通る声が聞こえてきた。

「——でもさあ、受験勉強のために部活辞めたんでしょ?」


 とっさに、柱の陰に隠れる。真央がすずに話しているその内容が、なつめのことだというのはすぐにわかった。

「受験のため、ってすずのことを一年以上放置してたのにさ、いざオープンキャンパスに来たら観光観光って、何? すずが中距離に転向したのだって、知らないくせに——」


 聞いてはいけないものを聞いてしまった気がして、息が詰まる。陸上部を辞めて、すずとの約束を破ってしまった自覚はしていた。していたのに、その事実をいざ言葉にして突きつけられると、どうしようもなく、申し訳なさではち切れそうになる。


 真央の言葉は、ただの無責任な悪口じゃない。だって、なつめはずっと、短距離を走るすずの姿が好きだった。すずが短距離を続けていると思っていた。前は一番近くにいたはずのすずが種目を転向していたということを、本当に、今知ったのだ。


 その先の真央の言葉を、なつめは聞きたくなかった。もしもすずにそう思われていたらどうしよう、と、考えないようにしてきたことがあった。


「——あんなやつに振り回される必要ないって。一回しかない高校生活じゃん、あの嘘つき女のために無駄するわけ?」


 嘘つき女、という言葉が、胸に突き刺さる。なつめだって、すずからそう思われている可能性には気づいていた。気づいていたけれど、直視できなかった。

 だから、どうかすずには——すずだけには、否定してほしかった。


 少し、沈黙があった。

 沈黙のあとで、さらさらとした、大好きなすずの声が聞こえた。


「——そうかもね」


 その声が耳から入ってきたとき、まるで耳から頭を殴られたみたいに、ぐらりと視界が歪んだ。

 顔を覆った手に荒い吐息を感じて、自分の息が切れていることに気づく。ひったくりを追いかけたせいではなかった。『嘘つき女』、『そうかもね』、という声が頭の中でこだまして、どんどん息が浅くなる。はあ、はあ、と空気を吸えば吸うほど、吐けば吐くほど、息は苦しくなっていって——



 ——そのとき、誰もいない耳元から声がした。

「おい、わたしの言う通りにしろ」



 声に驚くよりも早く、見えない何かがなつめの首と口元に絡みつく。ぎちっ、と首が絞められ、なつめは悲鳴を上げようとするけれど、塞がれた口からは、小さなうめき声しか出せない。


 絞められている首から上、なつめの頭の中に、圧力みたいなものが高まってきて、こめかみがカンカン痛みはじめる。これ、本当にだめだ、と悟って、なつめの首を絞める見えない何かを必死に引き剥がそうとしても、毛皮のような変な触感があるだけで、なつめの力ではびくともしない。


「暴れるなよ。本当に殺すからな。わかったか?」


 なつめがこくこくと頷くと、首を絞める力が弱まり、口を押さえていた何かが外れ、なつめは勢いよく咳き込んだ。咳き込んだ顔を上げると、目の前にいたのは、さっきバッグをひったくられた女の子だった。


 小柄な身体にビッグシルエットのパーカーを着て、さっきの——札束が入っているであろうバッグを提げている。見下すような偉そうな顔つきをして、こちらを見ていた。


「よし。じゃあついてこい」

「ちょっと待って——あなたは誰? この首の見えないものは何? なんでこんなこと——」


 歩き出そうとする女の子に、たまらずなつめが問いかけると、女の子は面倒くさそうに肩をすくめて、はあ、とため息をついた。

「うるさいな、面倒だからおまえには見せてやる」


 女の子が人差し指を、唐突になつめの目のあたりに突き出す。とっさに目をつぶったなつめの額を、その指でとんと突いた。目を開けて、なつめは目の前の光景にまた悲鳴を上げそうになった。


 女の子の頭に、耳が——明らかに獣のような、ふさふさの毛が生えた耳が、人間にはありえない耳が生えている。なつめの首を絞めているのは、パーカーの裾から異様に長く伸びる尻尾だった。


「わたしはミヨ。化け狐だ」


    §


 残してきたすずたちに後ろ髪を引かれながら、飼い主にリードを引っ張られる犬のような情けない姿で、ミヨに首を引かれ、駅の地下に降りていく。そんな異様な光景なのに、周りを歩く人たちはこちらに目もくれない。


「これ、本当に他の人には見えてないの?」

「当たり前だ。お前にも見えてなかっただろ」

 どうやら羞恥心の心配だけは大丈夫らしかったけれど、身の安全はまるで保証されていない。脅されて、連れていかれて、どうなってしまうんだろう。


 そもそも、化け狐って何だ。なつめの目の前では、出会ったときには見えていなかったミヨの狐耳がぴょこぴょこと揺れている。化け狐が実在するとしても、こんな大都会の真ん中で、こんなカジュアルなパーカーなんて着ているものなのか。


「ねえ、化け狐って何?」

となつめが聞くと、ミヨは、

「面倒くさいやつだな。狐の耳と尻尾が生えていても狐じゃないやつのことを、お前らがそう呼ぶんだろ」

とうざったそうに答える。

「他にもいるの? 透明になる以外には何ができるの?」

と重ねて聞くと、「知らん」とだけ言われた。


 なつめの首輪のようになっているミヨの妙に長い尻尾は、首を絞めてこない今はマフラーのような様子になっていて、なつめが少し離れると、遅れるなとばかりに首を乱暴に引っ張ってくる。ふわふわの毛は八月に首に巻くには少し暑くて、だんだん首元がしっとりとしてくる。


「この尻尾って、いったん外してもらえないかな……? 汗で汚れちゃうと思うんだけど」

となつめが探りを入れてみるけれど、ミヨは、

「うるさい。どうせ逃げようとしているんだろ。地上の奴らは意地汚いからな」

と吐き捨てた。尻尾がきゅっと絞まって、「そんなつもりじゃ」と弁明する羽目になる。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。本当は今頃、すずとパフェでも食べているはずだったのに。現実では、化け狐にドナドナされている。


 気になることはたくさんあるけれど、なつめがミヨに目を付けられたのは、やっぱりお金の件が原因だろうか。あんな大金、せいぜい高校生くらいに見えるミヨが持ち歩いているのは、明らかにおかしい。あれも狐の術みたいなものなのだろうか。


 それともまともなお金じゃないとすれば、ミヨは裏社会とか、そういうところの関係者なのだろうか。なつめの脳内で、自分がドラム缶に詰められて、北海道の流氷の中に投げ込まれる絵面が浮かぶ。


「わたし、どこに連れてかれるの?」

 地下鉄の駅のそばを歩かされながらなつめが聞くと、ミヨは

「地下道だ」

と答えた。


    §


 地下鉄の駅を抜けると、そこには不思議な空間が広がっていた。


 地下道、というには広すぎる、白い柱の並んだ、現代美術館のようにモダンな雰囲気の空間だった。そんな空間が、ずっと遠く、地下を歩く人々と一緒に点となって見えなくなるくらいの先まで続いている。


 圧倒されているなつめを見て、ミヨはなぜか誇らしげに、

「素晴しいところだろう」

と胸を張った。


「ここは札幌駅前通地下歩行空間、縮めてチカホだ——でもここだけが地下道じゃないぞ。札幌駅の北側からチカホの向こうの地下街までがなんと、一本の地下道になっている。直線距離では日本一らしい」


 広いうえにまっすぐ、という地下道は、田舎ではもちろんだけど、都会でも確かに珍しいのかもしれない。急に饒舌になったミヨに若干引きつつも、「すごいね」と調子を合わせると、ミヨは食い気味に反応してくる。


「そう! 夏は涼しく冬は暖かく、あの忌々しい地上に出る必要もなくなる。まさに最高の——わたしの家だ」

「家?」


 その違和感のある一言をなつめは聞き逃さなかった。好きな場所をある種の誇張表現でホームと言う人はいるけれど、ミヨの言い方は、なんだかそうじゃない気がする。


「そう、家だ。住むには最高の場所だぞ」

「それって……家が地下道の近くって意味?」

「違うぞ。地下道で寝泊まりしてるって意味だ」


 ええ……、となつめは絶句した。化け狐だとしても、中高生みたいな見た目の女の子が、それでいいのだろうか。


「本当にこんなところで寝られるの……?」

「当然だ。見せてやる」

 ミヨは尻尾をなつめの首からほどく。四角い石材のベンチの上で、まるで毎日そうしているかのように躊躇せず横になる。


「ちょ、ちょっと」

 周囲の視線を気にするなつめのことなど構わず、ミヨは脚を縮め、身体の前へ回した尻尾を枕にした。昔すずの家で飼っていた犬もこんな姿勢で寝ていたことを、なつめは思い出す。


「どうだ。ここは最高だろう? 気に入ったか?」

 丸まったまま、ミヨが自慢げな表情を見せる。地下道は良いところかもしれないけれど、そこで寝転がっているミヨの姿は全然最高じゃない。「気に入るわけ——」と言いかけて、なつめはある可能性に気づいた。


 ひとりで地下道に住み着いているミヨ、地下道から出ようとしないミヨが、脅しをしてまで、わたしを地下道に連れてきた目的。わたしが地下道を気に入るだろうという根拠の無い自信。


 尻尾の首輪をほどかれた首に、つう、と冷たい汗が流れた。ミヨが、にやりと笑った。



「おまえ、わたしと一緒に地下道に住め」



 ミヨの尻尾がゆらりと揺れたのを見て、なつめは弾かれたように走り出した。「おい!」とミヨの叫ぶ声にも振り向かずに、まっすぐすぎる地下道を、人の間をすり抜けて走る。周囲の視線が痛いけれど、背に腹は代えられない。


 冗談じゃない。オープンキャンパスに来ただけの札幌で、あんなわがままで物騒な化け狐と地下道に住むだなんて。まだ、すずとパフェすら食べに行けていないのに。


 ミヨを撒こうと、脇道へ曲がって、なるべく柱の陰になるようにしながら、必死に走る。さらに角を曲がった先の階段を駆け上がると、大通公園に出た。


 地下道から出て見る地上は、やけに眩しく見えた。大きく開けた公園の中で、土曜日の青空の下、大人たちがビアガーデンで飲んでいる。そんな平和な光景を目にして、汗だくで、胸が痛いほど息が切れていたなつめは、安堵してしゃがみ込んだ。


「——逃げられるとでも思ったか?」


 声に振り向く間もなく、首が尻尾で締め上げられる。ミヨが後ろに立っていた。

「なんで——」

「狐の鼻を舐めないことだな。おまえの匂いを追いかけるのなんて簡単なことだ」


 ふん、と鼻を鳴らしたミヨは首を絞める尻尾を緩めた。なつめは前髪が汗で張りついているのを感じながら、最悪だ、と思う。


「喜べ。もうこんな暑い地上になんて出なくて済むぞ」

「嫌だ、離してよ——」

 首輪のような尻尾に、地下道へと引っ張られていく。ビアガーデンで楽しそうに飲んでいる人たちが、視界から消えていく。


 地下への階段を降りるミヨが振り返って空を見上げ、目を細めた。

「忌々しい青め」



 そのとき、なつめのスマホが鳴った。はっと取り出すと、すずからの着信だった。


「おい、何してる」

 尻尾の首輪が少し絞まる。ミヨを睨んで、スマホを見せつけた。

「友達からの電話。出なかったら捜しに来るよ」

 ミヨは舌打ちをして、

「余計なことを喋ったら、殺す」

と吐き捨てた。


 電話を取ると、すずの声が飛び込んでくる。

『なっちゃん? 今どこにいるの? 大丈夫?』


 ロッカーを探すだけのはずだったのにこんなに待たせてしまって、申し訳なかった。真央がなつめの陰口を言うのを聞いてしまっていたから、こんなふうに言葉だけでも心配してくれて、少し嬉しくなる。


「今、実は——」

 どうにか間接的に助けを求められたら、と頭を回転させていたなつめに、ミヨが、

「今話している奴はどこのどいつだ。連れてこい」

と言ったことで、なつめは、ああ、と気づいてしまった。


 こいつは、すずと会わせてはいけない。自分の邪魔をするすずを、痛めつけたり——あるいは本当に、殺してしまうかもしれない。すずをそんな危ない目に遭わせるのは、絶対にだめだ。


「——ごめんね。ちょっと用事ができちゃって。しばらく戻れないかも」

 そう言って、すずの返事も待たずに通話を切る。

「……これでいい?」

「ふん、地上の奴にしては上出来だ」


 ミヨはまた、なつめの首輪を引いて、地下への階段を降りはじめる。確かに嘘つき女になっちゃったな、なんて、ぼんやりと思う。踊り場を回ると、青空はもう見えなくなった。


 すず、ごめん。わたし、化け狐と地下道に住まなきゃいけないらしい。

 普段ですら受験勉強に囚われた高校生活だったのに——こんな仕打ち、もう嫌だ。


「なんでわたしにしたの? 人なんて、地下道にいっぱい歩いてるじゃん」

 こちらを振り向きもせず、乱暴に首輪を引っ張りながら歩いていくミヨに聞くと、

「だってお前、困ったことがあれば言えと言っただろう」

と、当然だろう、とでも付け加えそうな表情でなつめを見る。なつめは心の中でため息をついた。わたしも人のことを言えないかもしれないけど、こいつ、根本的にコミュニケーションが子供っぽくて、そのうえ乱暴なんだ。


「それじゃあ、同居人として一つ目の命令を聞け」

「同居人って、命令される関係じゃないと思うけど——」


 なつめの反論を無視して、ミヨが高らかに宣言した。

「一緒に飯を食べるぞ」

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