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1. かごの中の夏

初めての投稿です。

よろしくお願いします!

 青空は、夏へ進んでいく。

 てっぺんまで昇った太陽に照らされて、部活帰りのすずたちは笑いあう。


 高校でも一緒に走ろう、という約束を思い出しながら、眩しいあの子たちのことを、なつめは薄暗い自室の窓から眺めていた。



 顔を上げなければよかった、となつめは後悔した。参考書の問題がどれだけわからなくても、医学部をどれだけ受けたくなくても、勉強のことだけ考えていれば、こんな苦しい気持ちにはならなかったんじゃないか。あの子たちの中にわたしもいたはずだった、なんて思わずに済んだんじゃないか。


 陸上部で使っていた練習着は、クローゼットの奥に閉じ込めている。もう二度と取り出すことのないその練習着を、もしもわたしが着て、もしもまた部活に出てみたら、という妄想が浮かんだけれど、六月に入った今では、二年生のすずと違ってわたしたち三年生はもうすぐ引退なんだ、ということに気がついてしまって、全部忘れたくなってくる。


 なつめは、背の高い、手足のすらりと長いすずが、短距離のレーンを駆け抜ける姿が好きだった。けれど、中学までのように、すずと一緒に走ること、一緒に学校生活を過ごすことは、もうないのだ。


 窓の外の景色から、すずはもういなくなってしまっていて、散歩中の犬とその飼い主だけがリードを引っ張り合いながら歩いていた。そんなのどかな景色にさえ嫌気が差してきて、なつめは、勉強しなきゃ、と参考書に視線を戻した。


    §


 なつめが夕食を作っていると、LINEの通知音が鳴った。玉ねぎを炒めながら首を伸ばしてメッセージを確認しようとすると、食卓でドラマを観ていたお母さんが、勝手になつめのスマホを覗き込んだ。


「クラス会のお知らせだってよ。大通のお好み焼き屋」

 なつめは「うーん」と曖昧に返事をした。お好み焼きは食べたいけれど、クラスメイトとあまり親しくないなつめが参加しても、気まずい空気になるだけな気がした。もう三年生の六月になったというのに、休み時間も放課後も勉強のため犠牲にしているなつめには、仲がいいと言える友達がいない。


「行けばいいじゃん、美味しかったか教えてよ」

 無責任なお母さんの言葉にまた曖昧な相槌を打ったとき、リビングのドアが開いて、仕事を終えたお父さんが入ってきた。

「あら、おかえり」

「ああ」


 お父さんは、家の隣の岩館内科で開業医をやっている。お母さんもそこで医療事務をしていて、そんな病院一家の岩館家の一人娘として生まれた自分は、世間的には「恵まれた」子だと言われるのだろう。けれど、

「さっき、クラス会がどうとか聞こえたが」

というお父さんの無愛想な一言で、来る、と身を固くする。

「模試の成績はどうだったんだ? 遊んでいる余裕はあるのか?」

 菜箸をぎゅっと握りながら、いいえ、と声を絞り出した。


 なつめは、お父さんから医学部を受けるように言われている。一人娘なのだから、岩館内科の跡継ぎとして医学の道に進むべき、らしい。

 けれど、なつめは医学部を受験するのが本当に嫌だった。


 第一に、医学部に行くには成績が足りない。模試の成績はD判定が出ればいい方だった。だから、一年生の終わりごろ、なつめの成績を見かねたお父さんに、中学から続けていた陸上を辞めさせられてしまった。それでも医学部には到底届かなくて、医学部以外を選べないなつめにとっては、絶望的だった。


 それに、万一医学部に受かるようなことがあったとしても、「医学部を受けたくない」ということすら言い出せないような人間が、患者さんの悩みを受け止めて支えられるような医者になれるなんて、到底思えない。


 お父さんが、いつもと同じ、はあ、と呆れたようなため息をつく。それを聞くと、なつめはいつも、お腹がきゅっと痛くなる。炒める手を止めた玉ねぎは、次第に黒く焦げはじめた。


「遊びに行くくらいなら、これに行きなさい」

 お父さんが取り出したのは一枚の紙だった。上の方に、『北海道大学 オープンキャンパス』とある。

「おまえは、こういうものに行ってやる気を出すべきだろう」


 行きたくないな、となつめは思った。去年行った東北大学だって、受けたくないうえに合格できっこない、医学部の説明会に参加するのは惨めな気持ちだったし、なつめの住んでいる岩手からわざわざ遠く離れた札幌まで行って、あんな気持ちになるのはもう嫌だ。


 だけど、なつめは言い返せない。医学部の代わりにお父さんに突きつけられるような、行きたい学部やなりたい職業を、なつめは見つけられていない。

「……行くことにします」


 空気が重くなった会話に、「だったらさあ」と呑気な口調でお母さんが口を挟んだ。

「すずちゃんと一緒に行けばいいじゃない」

「えっ」


 すずは、近くに住んでいる一つ下の子で、小学校の頃から仲が良かった。中学では一緒に陸上部で短距離を走って、高校でも一緒に走ろうと約束をした。けれど、高一の終わりになつめが陸上部を辞めさせられて以来、気まずくなってしまって話せていない。


 なのにどうしてすずの名前が、と驚いていると、お母さんは、

「すずちゃんのお母さんから聞いたのよ。北大志望だって」

と、何でもないようにさらりと言った。



 夕食を食べ終わるなり、なつめはリビングを飛び出して、階段を一段飛ばしで駆け上がる。なつめの部屋に飛び込むと、照明も点けずに、LINEですずとのトーク画面を開く。部活を辞める前、一年以上前のすずとのトーク履歴だけが、暗い部屋の中でまばゆく浮かび上がる。


 北大志望——岩手を離れるであろうすずが、将来も近くにいてくれる保証なんてない。むしろ、高校生活も大学受験もままならないなつめの人生から、どんどん離れていってしまう気がした。


 けれど、だからこそ思う。

 もう一度だけ、すずと一緒にいられたら。


 なつめは通話ボタンをタップした。スマホから、もしもし、とあの子の声が聞こえた。


「あのさ——」


    §


「どうしたの?」


 札幌駅の構内で、隣を歩くすずの横顔をぼんやりと眺めていたなつめは、振り向いた彼女の一言で我に返った。

「ううん、何でもないよ」

 そう?と微笑むすずの顔が近くて、なつめは夢を見ているような気分になる。もう仲良くなんてできないと思っていたすずが、こんなに近くにいる。


 なつめは、すらりとしたすずの背中に続いて改札を出た。土曜の札幌駅の人出は、地元の盛岡駅とは比べるまでもなかった。


 この北大オープンキャンパスの旅は、二泊三日の旅程だ。オープンキャンパス自体には日曜日に参加して、その前後の土曜と月曜で半日かけて移動するような形だった。飛行機や列車を乗り継ぐような、慣れない長距離移動は背中が痛くなって大変だったけれど、なつめは密かにこの日程を喜んでいた。すずと札幌観光ができそうだからだ。


 どうしても移動に半日かかる札幌だからこそ、前日や当日の夕方には空き時間が生まれる。受験生としていくつか参考書も持ってきてはいたけれど、そうは言っても、二度とないかもしれないすずとの旅行で、そのうえ八月の札幌というロケーションなのだ。勉強ばかりの高校生活で、この二泊三日の間くらい、すずとの思い出を作らせてくれてもいいじゃないか。


「ねえ、ホテルのチェックインまでの間、ちょっと観光するのはどうかな。有名なお店のパフェとか、大通公園の屋台で何か食べるとか。パフェなんて、乳業会社がやってるお店があってね——」


 これまで旅行プランを立てた経験なんてなかったけれど、なつめはすずと札幌に行くと決まって以来、ずっとわくわくしながら、半ば現実逃避のように観光スポットを調べていた。すずと思い出を作れたらいいな、なんて思いながら、美味しそうな札幌グルメを調べるのはとても楽しかった。


 なつめの提案に、すずは、

「観光っていうより、食べ物ばっかりだね」

と言って笑う。さらさらとしたすずの声は、笑っていても大人っぽい感じがして、かわいい。


「だって、せっかくの札幌だよ」

 そう言った後で、なつめはある可能性に気づいた。

「もしかして、食べ物に気をつけてたりする?」


 すずは現役の陸上部員なのだ。脂肪がつかないようにするのはもちろんのこと、すずのような短距離の選手は、中長距離の選手ほどは炭水化物を摂らないのがよいと聞いたことがある。

 すずはちょっと考えて、

「まあ、そこまで偏らなければ大丈夫だよ」

と言った。


 改めて、ずっとすずと離れていたんだな、と実感する。食事に気をつけているかとか、タイムがどれくらい縮んだかとか、そういうことは、中学の頃なら当たり前に共有していたはずだった。


「ねえ、最近の練習はどう——」

 なつめが尋ねようとしたとき、ふたりに声がかけられた。

「おっすー、すず」


 声をかけてきた日に焼けたボーイッシュな女の子は、「岩館先輩っすね?」といかにも運動部らしい押しの強い口調で話しかけてくる。

「陸部二年の小野寺真央っす」


 小野寺さん——真央が、この旅行の三人目の参加者だ。すずがオープンキャンパスに行く話をしたところ、真央の姉が北大にいるらしく、彼女も姉の家に遊びに行くついでに同行することになったらしい。


 そういうことなら仕方ないのだけれど、なつめが辞めた後に陸上部に入った真央は、何度かすずと一緒に帰っているところを見かけていたから、少し複雑な気持ちになる。何を話せばいいのかわからなくなったなつめは、

「お姉さんのところにはいつ来たの?」

と当たり障りのない質問をしたけれど、

「昨日っすね」

とだけ、素っ気のない返事が返ってくる。


「先輩は今日、夏期講習とか無かったんすか。三年の夏休みっすけど」

 その少し棘のある言い方に身構えてしまうけれど、

「三日間くらいなら大丈夫だよ。オープンキャンパスだし」

と動揺を隠して答えた。


 なつめのことをスルーするように、真央がすずに尋ねる。

「今日はこのあとどうすんの?」

 時計は昼過ぎを指している。真央がすずに聞いた質問を、なつめが答える。

「ホテルの前にちょっと観光しようかな、って。小野寺さんもどうかな」

 けれど、なつめの提案を聞いた真央は、

「勉強するとかじゃないんすね」

と、少し鼻で笑った。


 真央の言葉に、なつめは、急に顔のあたりがかっと熱くなってきて、

「じゃあ、ロッカー探してくるね」

と参考書の入ったキャリーケースを引いて背を向ける。「一緒に行くよ」というすずの提案も、「大丈夫だから」と断り、その場を離れた。



 駅の中を少し歩いて、ロッカーにキャリーケースを預ける。けれどもう、なつめはすずたちのところに戻るのが気まずくなってしまっていた。


 真央は、なつめが受験のために部活を辞めたことを知っているのかもしれない。あるいは、なつめのことを「すずの元友達のガリ勉」みたいに思っているのかもしれない。そんな心配をしてしまうのは考えすぎなんじゃないか、とも思うけれど、本当にそう思われていたら、そしてすずも同じ考えだったら、なんて想像してしまって、気が滅入ってくる。


 でも、せっかくのすずとの旅行なんだ。そう思い直して、頬を両手のひらで持ち上げる。


 そのとき、なつめの視界の端に、きょろきょろしている小柄な女の子が見えた。

 ビッグシルエットのパーカーを着て、肩に小さなバッグを掛けている。小柄なせいかもしれないけれど、なつめより少し年下の、中高生という感じに見える。


 あの子も旅行客かな、と思ったけれど、そうではない気がしてくる。ひとりだし、旅行客にしてはバッグが小さい。

 それに、あまりにもきょろきょろしすぎている気がする。札幌に慣れていないというよりもむしろ、何かを隠して警戒しているみたいな——。


 そのとき、女の子の後ろから歩いてきた男が、唐突にバッグを奪い取った。女の子は小さく悲鳴を上げて、バッグのストラップに引っ張られて転んでしまう。


 あっ、と思うと同時に、なつめは気づけばリュックを投げ捨て、男を追いかけていた。


 人混みの駅の中を、ひったくり犯は走り抜けていく。周りの誰も止められないまま、男は駅の出口に向かうけれど——こちらは元陸上部の元短距離専門だ。

 走る男と距離を詰め、バッグを掴みかける。すると男は苛立ったように舌打ちをして、バッグを後ろに投げ捨て、逃げていった。


 バッグの方を振り返ると、なつめはずいぶん大胆なことをしてしまったことに気づいた。久々に全力疾走して息が切れているなつめのことを、周囲の人々がちらちらと見ているのがわかる。急に恥ずかしくなってきたなつめは、身体を縮こめて投げ捨てられたバッグを拾いに行った——そして、ぎょっとした。


 バッグの口から、札束が覗いている。


 おもちゃでもなければ、たった数枚でもない。なつめの財布の中に入っているのと同じ一万円札の、分厚い札束だった。

 そのとき、なつめの視界に腕が伸びてきて、びくりとしたなつめの手からバッグを奪った。さっきの、ひったくられた女の子だった。


「おい」


 ビッグパーカーを着た小柄な姿に不釣り合いな、乱暴な言い方だった。少し怯んでしまうけれど、なつめはどうしても気になって聞いてしまう。

「あの、そのお金って」

 一万円の札束は確か、一束百万円だったはずだ。なつめより年下に見えるこの子が持ち歩くにしては、あまりにも大きすぎる金額ではないか。


 女の子は、警戒心を隠そうともせずなつめを睨みつける。

「おまえも泥棒か?」

 想像もしていなかった強い言葉に、一瞬、唖然とする。

「違うよ……! わたし、取り返しただけだよ」

「どうだかな」


 女の子はバッグをぎゅっと握りしめて、なつめの言葉なんて聞いていなかったみたいに言う。

「やっぱり、外は悪い奴らばっかりだ」

 あまりに攻撃的な言動に、面食らう。けれどどちらかというと、凶暴な狼というよりも、まるで怯えている小動物のようにも見えて、なつめはつい、言ってしまう。


「ねえ、何か困ってることとか、ない? 余計なお世話かもしれないけど、話くらいなら聞けるからさ」


 なつめの言葉に、女の子は目を丸くして、でもすぐに、

「……ふん!」

とまた眉間にしわを寄せ、背中を向けて駅の出口へ歩きだしてしまう。


 ねえちょっと、と女の子の後を追う。けれど、駅の出口を曲がったはずの女の子は——そこにはもういなかった。

 こつぜんと消えてしまったあの子のことを考えながら、なつめは、神隠しを見たような、それか、狐につままれたような、そんな気持ちになっていた。

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