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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第一章 メイクデビュー
9/100

1-8

 結局、今日も僕は勝てなかった。三戦三敗だ。

 四月四日分の十二レースがすべて終わり、僕は阪神競馬場から関西国際空港の第二ターミナルに向かうためにタクシーに乗っていた。隣では、相席している先輩騎手の及川(おいかわ)さんが、タクシーの運転手と談笑している。そんな及川さんは今日、一着を二回も取っていた。

 僕はあの後、第五レースで他厩舎の馬に騎乗したものの三着。第十レースの『淀屋橋ステークス』では、ヨゾラの気まぐれが発動して思うようにいかず、結果は十三頭中七着だった。

 この一勝の違いは、いったい何なのだろう。流れる景色をただ何となく眺めながら、ふと僕はそんなことを考えていた。

「なあ、矢吹はどう思う?」

 突然、及川さんが僕にそう尋ねてきた。急な出来事に、僕は思わず「え」という声を漏らす。

「あれ、もしかして聞いてなかったか。もしまた宝塚市に来れたら、どんなお土産がいいかなって話をしてたんだよ。俺はあれがいいな、きねやの乙女餅」

「すみません、聞いてませんでした」と、僕は及川さんに謝る。

「まあ、謝らなくてもいいけどさ」と、及川さんは苦笑しながらそう言ってくれた。「矢吹、何かいつもより元気ないんじゃない?」

「いえ、少し考え事してて」

「ふうん。なあ、何か悩みあるんなら、俺で良ければ相談に乗るよ」

 そう言うと、及川さんは猫背になり、肘を膝の上に乗せて、両手の指を絡める。人の話を聞こうとしている時の姿勢だった。

「いえ、その、大したことじゃないんですが、僕、何で一着になれないんだろうなって。もちろん、一着が容易いものではないことは分かってます。でも、どうしても比べてしまうんです。及川さんだって今日は二勝してるのに、何で僕はって、そんなことを考えてしまう時があって」

「でも、矢吹って今までのレースでほとんど五着以内なんでしょ? それだけで誇れることだと思うけど」

「でも……」と、僕は言葉を濁す。及川さんは一度鼻で大きく息を吐いてから、僕にこんなことを言った。

「どうしても勝ちたいって言うんなら、やっぱり鞭なんじゃねえの?」

「鞭、ですか」と僕は呟く。及川さんはそれに「ああ」という返事をした。

「矢吹もジョッキーなら分かってると思うけど、馬は全員が闘争本能に溢れているわけじゃない。中には、なかなかやる気を出さない奴だっている。それに火をつけるのが鞭だ。鞭を使わなければ、馬のやる気を最大限引き出すことは出来ない。お前が馬を大切にしたい気持ちも分かるが、どのジョッキーもそれは同じなんだよ」

「はい」と、僕はそう返事をすることしか出来なかった。

 及川さんの言う通りだ。競馬は馬の闘争本能をうまく引き出せなければ、そもそも勝負にならない競技だ。そのための鞭だということも、僕自身分かっているつもりではいる。

 でも、僕は〈あの人〉のようには絶対なりたくない。

 あんな痛い思いを、馬たちにはしてもらいたくない。

 そんなことを思っていると、及川さんは僕にこう尋ねてきた。

「その上で聞くけど、矢吹、お前がそんなに鞭を使わない理由は何なんだ」

「それは……」と、僕は言葉に詰まってしまった。

 そんな理由なんかが、競馬に直接関係するわけない。僕でもそんなことくらいは分かっている。

 正直に言うべきか、ごまかすべきか。

 今の僕には、それがまだ分からなかった。

「ああ、悪い。そこまで深刻に考えてもらいたかったわけじゃないんだ」と、及川さんはまた苦笑しながら言う。「ただ、お前も今年で二十六になるんだろ? ジョッキー五年目として、妥協すべき点はした方が今後のためだと俺は思う」

「肝に銘じておきます」と、僕は社交辞令のようにそんなことを言った。でも、確かに及川さんの言いたいことは、その通りだなと思う。

 一歳差の先輩でも、騎手生活九年目ともなると、やはり経験値が違うのだろうか。

 ふと僕は、そんな疑問を抱いていた。

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