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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第六章 生涯一度の夢舞台
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6-10

 電話が鳴った。

 阪神競馬場へ向かうために新幹線に乗っていた僕は、座席からデッキへと移動する。ドアの近くの壁に寄りかかり、尻ポケットからスマートフォンを取りだすと、画面には「瀬堀 澪」と表示されていた。僕は画面の通話ボタンを押し、スマートフォンを右耳にあてる。

「はい、矢吹です」と、僕はいつもの口癖を言う。すると澪ちゃんは、

「もしもし、先輩。今、大丈夫ですか」

 と、明らかに元気のない声でそう言った。

「うん、大丈夫だよ」

 僕がそう返事をすると、澪ちゃんは泣き出しそうな勢いで僕にこう言った。

「すみません、負けちゃいました」

「え」と、僕は思わず声を漏らした。澪ちゃんはそのまま続ける。

「せっかく先輩の厩舎の子に乗せてもらったのに、いいところなしで終わっちゃいました」

 そう言うと、澪ちゃんは「うう」と悲しそうな声を漏らした。僕はそれを聞いて、澪ちゃんが怒られるのを待つ犬のように、頭を垂れている様子を想像してしまった。

 澪ちゃんには今日、僕の代わりにアクアスプラッシュに騎乗してもらっていた。それで福島競馬場の『東北ステークス』に出走したのだが、どうやら思った通りの騎乗が出来なかったようだ。

 おそらく澪ちゃんは、勝って僕に報告したかったのかもしれない。僕は澪ちゃんのその様子が、まるで飼い主に褒められたくて一芸をする犬みたいだなと思ってしまった。

まあ、あくまで僕の推測でしかないのだけれど。

「大丈夫だよ、澪ちゃん。僕も負けたから」

 僕が澪ちゃんにそう言うと、

「でも先輩は重賞に出走したんですよね」

 と、僕に尋ねる。

「そうだね」と、僕が答えると、澪ちゃんは自責の念にでも駆られたような声で、

「じゃあ仕方ないですよ。私なんて三勝クラスでも勝てないんですから」

 と、ため息交じりにそう言った。「勝って先輩と一緒に檜酵素風呂に行きたかったのに」

 澪ちゃんは「とほほ」と聞こえてきそうなほど、何だか落ち込んでいるのが分かった。

 そんな澪ちゃんに、僕は何て言えばいいのだろう。

 一瞬そんなことを考えた後、僕は自分が思ったことを、澪ちゃんに言ってみることにした。

「僕だって未勝利戦すら勝てないことがあるよ。というか、そういう時がほとんどだよ。勝てない日は勝てないし、勝つ時はこれでもかってくらいに勝つ。そんなもんだと思うよ、僕は。それより、澪ちゃんが頑張ったことに変わりはないんだから、帰って檜酵素風呂に入って、また来週頑張ろうよ」

 僕は澪ちゃんにそう言った。一応励ましてみたつもりだったけれど、もしかしたら逆効果だったかもしれない。すると澪ちゃんは、少し間をおいてから僕にこんなことを言ってくれた。

「ありがとうございます、先輩。やっぱり、先輩って優しいですね」

「そうかな」と、僕は急に恥ずかしくなってそんなことを呟いてしまった。というより、僕より優しい人なんて、他にもたくさんいるはずなのに。

「それより、澪ちゃんって今電話しても良かったの。調整ルームにいるとかじゃないよね」

 僕がそう尋ねると、澪ちゃんは今度はいつもの明るい声で、

「大丈夫ですよ。今週の乗り鞍は今日だけだったので。今は美浦まで帰っている途中です」

 と答えた。

「そっか」と、僕はふとそう呟いてしまっていた。

「そういえば、先輩は明日も騎乗するんですよね」

「うん、阪神でね。とはいっても、二鞍だけで終わりだけど」

「そうですか。怪我のないよう気を付けてくださいね」

「ありがとう、澪ちゃん」

「いえいえ。じゃあ、そろそろ切りますね。檜酵素風呂、楽しみにしてますね」

「うん。澪ちゃんも気をつけて帰ってね」

「はい。ではまた。おやすみなさい」

「じゃあね。おやすみ」

 そう言って、僕は電話を切った。僕はふと、ドアの窓から外を見る。今はトンネルの中らしく、ずっと暗闇のままだった。

 進さんの「見せ鞭」――。

 今日のレースが終わってから、僕はそのことがどうしても頭から離れなかった。

 競馬にとって、鞭は馬に合図をするための欠かせない道具ではある。ただ、馬も生き物だから、どうしても鞭で打たれることを嫌ってしまい、鞭を打つことで逆に戦意を喪失してしまう馬もいる。だから鞭を見せるだけにとどめておき、それによって馬を促すこともある。

 これを僕たちは「見せ鞭」と呼んでいる。

 あるいは、いきなり鞭で叩かれるとびっくりしてしまう馬に対して、あらかじめ鞭を見せることで、鞭の使用を予告するためにも使われる。競走馬は鞭を見せると加速するように育てられているので、「見せ鞭」によって自然と加速するようにされているのだという。

 でも、あれは僕の知っている「見せ鞭」ではなかった。

「見せ鞭」なら、鞭を見せるだけで十分なはず。鞭を使う予告だったにしても、きちんと鞭で馬の横腹からお尻にかけての部分を叩かなければ、馬の速度は狙った通りに上がらないはずだ。

 だけど進さんは、鞭が馬体に接する寸前で空振りしていた。

 だとしたら、進さんは鞭が空を切る音だけでテキサススタイルを導いていたことになる。

 最後の直線、進さんはずっとああやって、テキサススタイルを最後方から先頭まで持ってきたのか。

 でも、もしそうなら、馬の耳元で鞭を空中に振るった方がいいような気もするけれど。

 もしかして、耳元でやったら加速しすぎると思ったのだろうか。

 それでスタミナ切れになることを防ぐために、ああやって鞭を空振りしていた、ということなのかもしれない。

 今の僕には、こう結論付けることしか出来なかった。それ以上、僕の考えが及ばなかったからだ。

 これがベテランとの経験や直感の差なのか。

 それとも、それとはまた別の「何か」の違いなのか。

 考えれば考えるほど分からなくなっていく。

 そんなことを思っていると、新幹線はいつの間にかトンネルを抜け出していた。黄昏色の西日が、僕の目を刺すほどに強く射し込んできた。

第七章へ続く

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