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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第六章 生涯一度の夢舞台
77/100

6-1

※この物語はフィクションです。登場する人物、競走馬、団体名、施設名、および競走成績などは全て架空のものであり、実在するものとは一切関係ありませんのでご了承ください。

 馬房を覗くと、ロッキーがこちらにお尻を向けながら、隅っこに座り込んで不貞腐れていた。

「ほら、ロッキー、にんじんだよ」

 清水(しみず)さんがそう言いながらにんじんを差し出しても、ロッキーはこちらに見向きもしない。いつもならすぐ大好物にかじりつくはずなのに、ロッキーはただ「ふん」と空っぽの鼻息を漏らしながら、あごをぺったりと地面にくっつけている。というより、その上に敷かれた寝藁にあごを乗せている、といった方があるいは適切かもしれない。

「もしかして、『皐月賞』で七着だったこと、まだ拗ねてるのかな」

 僕は清水さんの隣で、思わずそう呟く。

「ロッキー、どうしたら機嫌直してくれるの」

 清水さんはまるで懇願でもするかのように、ロッキーにそう尋ねた。ロッキーは耳をぴくりと動かし、目線を少しだけこちらに向ける。でも、その後でまた「ふん」と言って不貞寝してしまった。

 四月十八日、月曜日。『皐月賞』を終えたロッキーの様子が気になった僕は、休日であることを利用してロッキーの馬房に来ている。隣の馬房からは、アクアスプラッシュが顔を出し、じっとこちらを覗いていた。

「ロッキー、元気出してよ。せっかく矢吹(やぶき)さんが来てくれたんだよ」

 清水さんはそう言って、なおも不機嫌なロッキーを説得している。その様子が何だか姉弟ではなくて、まるで親子みたいだなと、僕は一瞬だけそう思ってしまった。

「いいよ、清水さん。ロッキーが負けたのは僕のせいだから」

 僕が清水さんにそう言うと、清水さんは「え」と声を漏らしながら僕の方に振り向いた。

「どうしてですか。矢吹さんは悪くないですよ」

「いや、僕のせいだよ。スタートの直後にローレルの真後ろ、二番手の位置に、僕がロッキーを無理やり持って行ったんだ。だから最後の直線で、ロッキーはばてて後続に沈んじゃった。だから、全部僕のせいなんだ。それなのに呑気に馬房までやって来て、何様だって感じだよね。きっとロッキーも、お前のせいで負けたんだって怒ってるんだよ。本当、何やってるんだろうね、僕って」

 僕は馬房の柵に両腕を乗せながら、独り言のような行くあてのない言葉を呟いた。今の僕は一体、どんな表情をしているのだろうか。

 そんなことを思っていると、馬房の向こうから寝藁の音が聞こえた。見ると、不貞寝していたはずのロッキーが立ち上がって、ゆっくりとこちらに近付いて来る。そして柵越しに顔を出すと、僕の頬に鼻を近付けてから、そこをぺろぺろと嘗め始めた。

「何、どうしたの」

 僕はそう言いながら、ロッキーの顔を撫でようとする。するとロッキーは、僕から顔を離してしまった。嫌なのかと思ったけれど、そのすぐ後にまたロッキーは顔を僕にすり寄せてきた。僕は思わず「よしよし」と呟きながら、ロッキーの顔を両手で抱くように撫でる。ロッキーの耳が、ぴんと横に広がっていた。

 ふと僕の右側から、カメラのシャッターを切る音が聞こえた。何だろうと思って見てみると、清水さんがスマートフォンを持ってこちらに向いている。

「清水さん、どうしたの急に」

 僕が清水さんにそう尋ねると、清水さんは「いえ」と呟いてから、紅潮した満面の微笑を浮かべて僕にこう言った。

「厩舎のSNSに、今の様子を投稿しようかなと思って、つい写真撮っちゃいました」

「ちょ、やめてよ。恥ずかしい」

 僕は思わず間髪入れずに清水さんにそう言った。そう言いながら僕は、清水さんが厩舎公式のツイッターとインスタグラムを担当していることを思い出していた。

「だめです。矢吹さんのオフショット、女性ファンの間で人気なんですから」

 清水さんはそう言いながら、今度はにっこりとした笑顔になる。何だかからかわれたような気がして、僕はつい押し黙ってしまった。そんな僕たちのことを、ロッキーは不思議そうな様子で眺めていた。

「もう、そんなに拗ねないでくださいよ、矢吹さん。勝手に撮ったことなら謝りますから」

 僕が不機嫌になったと思ったのか、清水さんは苦笑しながら僕にそんなことを言った。

「いや、いいよ。怒ってるわけじゃないから。それより、今ならにんじん食べてくれるんじゃないかな」

 僕がふと清水さんにそう言うと、清水さんは「あ、そっか」と言って、右手に持ったにんじんを再度ロッキーの前に持っていく。ロッキーはそれを鼻ですんすんと嗅いでから、清水さんの手を噛まないように、上唇を使ってにんじんを噛み切った。ロッキーは自分の口の中で、ぽりぽりと音を立てながらにんじんを味わっている。清水さんの表情が、とたんに綻んでいくのが分かった。

 その時、僕は思いついてしまった。僕は清水さんにばれないように、右手でジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。そしてカメラを起動させて、あえてシャッター音が鳴るように消音モードをオフにしてから、清水さんとロッキーの様子をぱしゃり。

「ちょ、矢吹さん。何してるんですか」

 清水さんは慌てた様子でそう言いながら、ふと僕の方に振り向いた。僕はそんな清水さんに向かって「仕返し」と一言だけ口からこぼす。

「消してください。今すぐ。ほとんどすっぴんなので恥ずかしいです」

 清水さんは顔を真っ赤にしながら、早口で僕にそう言った。すっぴんとはいうものの、清水さんは色白で鼻の高い顔立ちだから、充分美人だと僕は思うけれど。

「うーん、どうしようかなあ」

 僕がわざと間延びした口調でそう言うと、清水さんはぷうと顔を膨らませながら、

「もう、矢吹さんのいじわる」

と、吐き捨てるように僕に言った。そんな清水さんがおかしくて、僕は思わず声をあげて笑ってしまっていた。

「ごめんごめん」と、僕は清水さんに謝る。そんな僕たちのことを、ロッキーはまた不思議そうな様子で眺めていた。

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