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※この物語はフィクションです。登場する人物、競走馬、団体名、施設名、および競走成績などは全て架空のものであり、実在するものとは一切関係ありませんのでご了承ください。
神さんがいなくなってから三日が経過した。
それでも僕らは、いつも通りに調教をしなければならない。そして僕は今、『春麗ジャンプステークス』に出走するカシスオレンジの調教を行っていた。午前七時の馬場開場とともに、僕らは北調教馬場に向かう。一三七〇メートルの障害専用コースを二周半してこいというのが、難波さんからの指示だった。
二月二十三日、水曜日、天皇誕生日。神さんはふと急に思い立ったかのように、三日前に愛知県豊明市へと向かっていった。そんな神さんの代わりに、難波さんが調教の指示をしてくれることになった、というわけだ。
そんなことを思い出していると、カシスがちょうど走り終えたところだった。そうして少しずつカシスの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせる。その後で僕は、カシスを調教スタンドまで向かわせた。
調教スタンドには、難波さんと川名さんが立っていた。僕がカシスを止め、川名さんがリードを付けたのを確認してから下馬すると、難波さんが「お疲れさん」と言いながら、右手を軽く挙げて僕の近くまで来た。
「タイムはどうでした?」
僕は難波さんにそう尋ねる。
「悪くないと思うで」と、難波さんは返事をした。「三分四五秒八。最後の六〇〇メートルが三六秒ぴったりってところやな。何もなければ、このままでも充分勝てるやろ」
「そうですか」と僕は呟いて、ふとカシスの方に視線を向ける。カシスは走破後の興奮がまだ収まらないらしく、しきりに首を縦に振っていた。現役競走馬としてはベテランの八歳馬ながら、未だにやる気は衰えてないようだった。
「矢吹、神のことが気になるんか」
そんなことを考えていると、難波さんがふと僕にそう言った。
「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。
「何かぼけっとしとるから、そうなんかなって」
「すみません」と僕が謝ると、「いや、謝らんでもええけどさ」と、難波さんは微笑のような苦笑を浮かべた。
「そうだよ、矢吹くん」と、川名さんがカシスの鼻を撫でながら僕にそう言ってくれた。カシスは「もっと撫でて」と言わんばかりに、川名さんに鼻を押し付けている。
「俺だって、神さんがいないと何か張り合いねえなって思ってるもん」
「ただ、それでもやるべきことはせえへんとな」
そう言って、難波さんは僕と川名さんを交互に見た。
「神がいようがいまいが、俺らがやるべきことは変わらん。今週末のカシスの出走に向けて、しっかりと調整していくだけや」
「はい」と、僕と川名さんは同時に返事をする。
「よろしい」と、難波さんが笑顔でそんなことを言ってくれた。それでも、吹く風は冷たさを帯びたままだった。




