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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第三章 人生万事塞翁が馬
37/100

3-3

「来年のクラシックで会えたらいいですね」

 その早乙女の言葉が、なぜか僕の中でずっと引っかかっていた。あの時、早乙女はどのような意味合いで、あんなことを言ったのだろうか。

 クラシックとは「クラシック競走」のことで、格式の高い三歳限定GⅠ競走の総称としてそう呼ばれている。

 日本では、『桜花賞』、『皐月賞』、『オークス』、『日本ダービー』、『菊花賞』の五つがあり、このうち『桜花賞』と『オークス』は牝馬(ひんば)限定戦で、『秋華賞』と合わせて牝馬三冠とされている。そしてそれ以外の三レースはクラシック三冠と呼ばれ、三レース全てを制した馬が、「三冠馬」と呼ばれるようになる。

 一五〇年以上続いてきた日本近代競馬の歴史の中で、三冠馬になれたのはわずか八頭。三冠牝馬になれたのも、わずか六頭だけだった。

 でも、来年三歳になる競走馬は、うちの厩舎ではロッキーロードしかいない。そしてロッキーは牡馬(ぼば)だから、『桜花賞』や『オークス』といった乙女たちの戦場には行けない。だから、カコノローレルと同じ舞台に立てるとは思えないけれど――。

 いや、一つだけ、同じ舞台で戦える方法がある。

 ただ、それは僕の意志では選べない。それを選択する権利はローレル陣営にしかなかった。そしてそれを選択する可能性は、皆無に等しいくらい低い。そう断言できるほど、現実的な選択肢ではなかった。

 昨日の酔いがまだ抜けないまま、ベッドに寝転びながらそんなことを考えていると、突然部屋の外からこんな叫び声が聞こえてきた。

「おい大村(おおむら)。お前、俺のプリン食っただろ」

 あまりの大声に、僕は思わず飛び起きた。そして自室から飛び出すと、僕は若駒寮の共用スペースまで向かう。すると、只野(ただの)さんが大村さんと喧嘩をしているところだった。

「は? 知らねえよ。今朝までは冷蔵庫にあっただろ」

 大村さんはそう言いながらソファに腰かける。見ると、大村さんの足元には釣り道具一式が置かれていた。どうやら、釣りから帰って来たばかりだったようだ。

 十月十一日、月曜日。僕ら騎手は、週一回の休日を過ごしていた。だけど僕は、昨日の夜に風早と飲みすぎたせいで、二日酔いの状態になっている。今日も朝起きた時から酔いが抜けないままで、何だか気持ち悪い。だから僕は今日、さっきみたいに自室でだらだらと過ごしていた。

「お前が今朝、釣りに行く前に盗んだんじゃないのかよ」

 只野さんがそう言うと、大村さんがこう言い返してきた。

「そんなことしねえわ。やるとしたらもっとばれねえようにやってるよ」

「どういう意味だ、それ」と、只野さんの形相がさらに険しくなった。

「あの、どうしたんですか」と、僕は恐る恐る二人に尋ねる。

「おう、矢吹。ちょうどいい時に来たな」

 そう言って大村さんは立ち上がり、僕の肩に腕を乗せてきた。

「助けてくれ。只野が俺にだけきつく当たって来るんだよ」

「お前さ、そうやって後輩にだる絡みする癖よくないぞ」

 只野さんがそう言うと、大村さんは「うるせえ」と吐き捨てた。

「だいたい、プリンの盗み食いなんて他にも容疑者はいるだろ。何で俺にばっかり疑ってかかるんだよ」

「そりゃあ、お前。俺のものを奪う奴なんてお前しかいないだろ」

「何、その思い込み」と、大村さんは上ずった声でそう言った。只野さんはそんな大村さんなど関係なしに、さらに責め立てていく。

「お前みたいに人のものを勝手に奪う奴がいるって考えるだけで、俺は怖くて夜しか眠れないんだよ」

「健康体じゃねえか」と、大村さんが間髪入れずにそう言った。「てか、そんなこと言えるってことは本気で怒ってねえだろ、お前」

「え、俺、何か言ってたか」と、只野さんは自覚がないといった表情でそう言った。

「うん、もうだめだわ、こいつ」

 大村さんは呆れたようにそう吐き捨てる。その隣で僕は、ふと只野さんのプリンのことについて考えていた。

 そういえば、今朝から僕は何も食べられなくて、昼頃にとてつもなくお腹がすいていたような気がする。体調は朝より回復していたから、何とか自室から出て冷蔵庫を漁って――。

 あ。

 そういえば、昼食の代わりに僕が食べたの、プリンだった。

「すみません、それ食べたの、僕です」

 僕は思わず、そうして声に出してしまっていた。

「え」と、大村さんと只野さんが同時に声を漏らした。

「昼頃にどうしてもお腹がすいちゃって、つい食べちゃいました」

 そう言って僕は頭を下げる。どれほど激しく怒られても仕方ないと思って、僕は腹をくくっていた。

「そっか、じゃあしょうがないな」

 只野さんのその言葉に、僕は思わず「え」という腑抜けた声を出した。

「俺も名前書いてなかったのはいけなかったな。次からはお互い気を付けよう」

「いやいやいや、待て待て待て」と、大村さんがそう口をはさんできた。

「何で真犯人の矢吹には優しくするんだよ」

「そりゃあお前、後輩には優しくしないといけないだろ」

「そんな悲しいことある?」と、大村さんは茫然自失としたような表情になる。

「それに、矢吹は二日酔いの状態なんだから、慎重に扱わないとなあ」

 大村さんにそう言う只野さんは、なぜかにやにやとしていた。

「差別だ、差別だ」

 大村さんがそう叫ぶと、只野さんは「差別じゃねえよ」と言う。

「え」と、大村さんがふと目を輝かせると、只野さんはにやにやとしたまま、大村さんに向けてこう言った。

「差別じゃなくて、区別だよ」

「上げて落とすな」と、大村さんは動揺しながらそう叫ぶ。そんな二人がおかしくて、僕は思わず、声をあげて笑ってしまっていた。

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