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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第一章 メイクデビュー
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1-2

 まだ暖まりきらない朝の空気が、つんと鼻の奥を通り抜けていく。

 最初に調教するのはアクアスプラッシュだ。午前六時の馬場開場とともに、僕らは北調教馬場に向かい、一八〇〇メートルのダートコース内に入る。そこを一周してこいというのが、(じん)さんからの指示だった。

 茨城県(いばらきけん)稲敷郡(いなしきぐん)美浦村(みほむら)。ここに日本中央競馬会、通称JRAが所有する調教施設、美浦トレーニングセンターが存在している。ここで管理される競走馬は関東馬と呼ばれ、主に東日本出身の調教師たちが、それぞれに厩舎を構えてそれらの調教を行っている。僕はその厩舎の一つ、(じん) 祐馬(ゆうま)厩舎の専属騎手を務めていた。

 こうして馬に騎乗していると、僕はときどき、自分が風になったように感じることがある。馬が地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。時速六十キロメートル以上の馬上で、それらが(あぶみ)を伝って一気に僕に押しよせてくるような、そんな感覚だった。

 風になっているのは空気か、それとも僕たちか。

 そうして一八〇〇メートルを走り終え、少しずつアクアの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせた。その後で僕は、アクアを厩舎まで帰らせる。そこに神さんと長谷川(はせがわ)さんが待っていた。アクアを止め、長谷川さんがリードを付けたのを確認してから下馬すると、神さんが「お疲れ」と言いながら、右手を軽く挙げて僕の近くまで来た。

「どうだ、アクアの調子は?」と、神さんは僕に尋ねる。

「悪くはない感じですね。立ち上がりも順調でしたし、上手く内に着いた回り方をしてくれたと思います。ただ……」

「距離か」と、神さんは言った。

「はい」と僕はそれに答える。「一八〇〇メートルはアクアには長いような気がします。最後の二〇〇メートルで、体力が急になくなったような走り方をしていましたから」

「なるほどな」と、神さんは呟く。「ちなみにだけど、現時点で矢吹はどういうレース展開にしようと思ってる?」

「一度仕掛けたら、後先考えずに突っ込んでしまうのがアクアだと思います。だから前走の時よりも脚を貯めて、ぎりぎりのタイミングで勝負に出ようかと」

 僕がそう言うと、神さんは口元に微笑を浮かべながら「そっか」と呟いた。「まあ、そういうことなら俺も異論はない。矢吹の好きなように走らせてくれ」

「はい」と僕は返事をする。でも、本当に神さんはそれでいいのだろうか。

「どうかしたか」と、神さんは僕に尋ねる。もしかして、顔に出てしまっていただろうか。

「いえ、その、大したことじゃないんですが……」

「何でもいいよ。言ってみな」

 神さんにそう言われ、少しだけ悩んだ末に、僕は思っていることを口に出した。

「その、神さんは僕にレース展開を全て任せていますけど、本当にそれでいいんですか。 僕なんて、この厩舎に移籍してからまだ一勝も出来てないんですよ? それに、僕なんかよりもそういうのが上手い騎手は、ごまんといると思いますけど」

 僕がそう言うと、神さんは「ぶ」と噴き出してから、まるで何かに取り憑かれたかのように、ぷるぷると震えながら笑いをこらえ始めた。

「何で笑うんですか」

「いや、悪い悪い。そんなことかと思って」

 そう言いながら、なおも神さんは笑いをこらえている。

 何がそんなに面白かったんだろう。僕は真剣に言ったつもりだったのに。

「神さんが矢吹くんに期待してるからだよ」と、長谷川さんは大きくはきはきとした声でそんなことを言った。アクアはそんな長谷川さんの服の襟を、手持ち無沙汰に噛んで遊んでいる。

「僕にですか」と僕が尋ねると、長谷川さんはアクアを襟から離しながらこう言った。

「矢吹くん、一勝も出来てないとか言ってたけど、これまで六位以下になったことってほとんどないんだろ? しかも半分以上が三着以内。大したもんじゃねえか。それに、この厩舎に移籍してまだ一か月しか経ってないんだし、それでいきなり一着取れたら、それこそ天才か化け物のどっちかだよ」

 すると、アクアはまた長谷川さんの襟を噛み始めた。「こらこら」と言いながらアクアを離そうとする長谷川さん。しかし、その表情はどこか嬉しそうだった。

 神さんが、僕なんかに期待してくれている?

「まあ、そういうこった」と、こらえ笑いの呪縛から解き放たれた神さんが、改まって僕にそう言った。「そんくらいの実力を、お前は持っているんだよ」

 そう言って、神さんは僕の肩を一回、ばしっと叩く。その瞬間、僕のもやもやとした根暗な思考が吹き飛び、一気に背筋がしゃんとする感覚がした。不思議と神さんには、そんな力があるような気がする。

「なあ、清田(せいた)もそう思うだろ」と、神さんは振り返りながら、馬房からテンキュウヨゾラを引っ張ってきた清田さんに声をかける。僕が次に調教する馬だった。

「別に、俺はそんな風には思いませんけど」と、清田さんはヨゾラを撫でながらそう言った。

「そもそもそんなに一着を取りたいなら、(むち)は必須アイテムでしょ。それなのにそれもなしに『一着を取れない』だなんて。確かにそれで着外がほぼないのは才能と言わざるを得ませんけど、俺からすれば傲慢としか言いようがないっすね」

「清田、言いたいことは分かるけどな、少しは言い方ってもんを考えろ。何でもかんでも、思ったことをそのまま言えばいいってもんじゃねえ」

 そう言って、長谷川さんは清田さんを諭すように叱りつける。いつも大きい声が、さらに大きくなって響いていた。清田さんは「ふん」と言って、長谷川さんにそっぽを向いてしまった。

「ごめんな、矢吹くん。あいつも悪気があって言った訳じゃねえんだ」

 急に長谷川さんにそう言われ、僕は「いえ」としか返事が出来なかった。

「長谷川さんが謝る必要ないでしょ」と、清田さんがその後に言う。「それより矢吹、早くヨゾラに乗って」

「あ、はい」と言って、僕はヨゾラの左側に近付くと、神さんがすぐさま右手で僕の左足を持った。「せーの」の合図で神さんが僕の左足を持ち上げると同時に、僕は(くら)を掴み、右足でヨゾラの背中をまたぐ。そのまま僕は鞍の上に乗り、手綱を握りながら、両足をそれぞれ鐙にかけた。その後、すぐに神さんが、馬上の僕に調教の指示を出す。

「今日は坂路調教を二回だ。一二〇〇メートルきっちり走らせて来い」

「はい」と僕が言うと、清田さんがヨゾラのリードを放す。僕はそれに合わせて、ヨゾラを坂路調教コースまで歩かせた。

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