2-5
少しずつ涼しくなり始めた朝の空気が、ふわりと肌をかすめていく。
午前六時の馬場開場とともに、僕らは南調教馬場に向かい、二〇〇〇メートルのウッドチップコース内に入る。そこでロッキーを一周させるのかと思いきや、神さんは最初に難波さんをロッキーに騎乗させ、僕にはその後に騎乗するように指示を出した。
神さんには、どうしても確かめたいことがあるのだという。それが何なのかは、僕にはいまいちぴんと来なかったけれど。
九月八日、水曜日。騎乗停止期間も明け、僕は二週間ぶりに調教を再開していた。今はロッキーの次走『芙蓉ステークス』に向けた追切を行っている。
感じる。
ロッキーが地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。それらが鐙を伝って一気に僕に押しよせてきた。
風になっているのは空気じゃない、僕たちの方だ。
そうして二〇〇〇メートルを走り終え、少しずつロッキーの速度を落としてから、クールダウンを兼ねてダートコースの外を歩かせた。その後で僕は、ロッキーを調教スタンドまで向かわせる。そこに神さんと難波さん、清水さんが待っていた。ロッキーを止め、清水さんがリードを付けたのを確認してから下馬すると、神さんが「お疲れ」と言いながら、右手を軽く挙げて僕の近くまで来た。
「タイムはどうでした?」と、僕は神さんに尋ねる。
「二分〇秒九。最後の六〇〇メートルで三六秒四だ」と、神さんは答えた。「さっき難波さんが乗った時より〇・四秒も縮んでるな」
「なあ、神。もしかして、そのタイムがお前の確かめたいことと関係あるんか?」
難波さんがふと神さんにそう尋ねてきた。清水さんに両手で撫でてもらいながら、ロッキーは僕ら三人の方にぴんと耳を傾けている。
「ああ。おかげで分かったよ」と、神さんは難波さんに強気の笑みを浮かべた。そして神さんは、そのまま僕らにこんなことを話し始めた。
「この間の『札幌2歳ステークス』、大村は俺に『ロッキーは気性難じゃないか』って言ってきたんだ。レース終盤で鞭を入れても、加速しないどころかどんどん後続に沈んでいったらしい。でも矢吹や清水の話を聞く限り、ロッキーは気性難というわけじゃない。指示を出すだけの俺より、直接ロッキーと関わってる二人の方が、そういうのはよく分かってるだろうからな。
そんである時こう思ったんだ。ロッキーは鞭を入れない方が速く走れる馬なんじゃないかって。だから今日、難波さんには鞭ありで、矢吹には鞭なしで追切をしてもらおうと思った。そしたら鞭を入れない方が、鞭を入れた時よりも速くなったって訳だ」
「それって……」と、難波さんは呟く。
「まだ確定したわけじゃないけど」と、神さんがそれに答えるように、僕の方を見ながら言った。
「ロッキーは鞭を入れない方が速く走れる。それは間違いないと思う。そしてそれと相性がいいのは、鞭を使わない騎乗スタイルを貫く矢吹なんじゃねえのかな」
「なるほどな」と、難波さんは呟いた。「それは俺もそう思うわ」
「でも、じゃあ何でロッキーは鞭が嫌なんでしょうか」と、清水さんはそう尋ねた。ロッキーも、清水さんと同じように僕らの方を見る。
「何となくやけど、想像が付くわ」と言って、難波さんがそれに答え始めた。
「ロッキーは闘争心が強いやろ。そんでもって、ゴーサインを出せばすぐに走り出すような馬や。せやから鞭を入れられると、せっかく気持ちよく走っとったんを邪魔された思うのかもしれんな。他の馬なら、鞭を入れればさらに闘争心に火が付くんやけど、たぶんロッキーはその逆や。手綱でちょっとした指示さえくれれば、あとは走りたいように走るだけってのが、ロッキーの走り方なんとちゃうかな」
「なるほど」と、清水さんは納得したように呟いた。
「まあ、あくまで俺の推測やから、ほんまにそうか知らんけどな」
説明し終えた後で、難波さんはそう言い加える。
「でも、調教だけじゃ物足りない」と、神さんは言う。
「実際のレースで好走できなければ、本当に相性がいいとは言えないだろうな。それに、これからは頭数が少ないレースにも出走しなければいけないかもしれない。そう考えると、そんな中でもロッキーの闘争本能を引き出す必要がある」
「だから、『芙蓉ステークス』でロッキーの今後を見定めようっていうことですか」
僕が神さんにそう尋ねると、「大正解」と言って神さんは笑った。
「この五年間で、『芙蓉ステークス』に出走した競走馬は毎年十頭もいないからな。そこにロッキーを出走させて、矢吹との相性を見る。同時に、ロッキーは出走頭数が少なくても本気を出すかどうかも見定めるつもりだ。ロッキーと矢吹が一心同体になれるか、そのための試験みたいなもんだと思って欲しい」
「はい」と僕は返事をする。「よろしい」と、神さんが笑顔でそんなことを言ってくれた。
「よかったね、ロッキー。また矢吹さんと一緒に走れるよ」
清水さんがロッキーにそう言うと、ロッキーは僕の方を見て、一度ぺこりと首を下げた。
「よろしくお願いします」と、僕に言ってくれたのだろうか。
僕はそんなロッキーが愛おしくなり、思わず顔を両手で覆ってしばらく撫でていた。




