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「いやあ、すみませんねえ。負けたのに誘っていただいて」
大村さんが車に荷物を積みながらそう言うと、神さんは「こっちこそ、付き合ってくれてありがとな」と、車の中からそう言った。そして大村さんが後部座席に乗り込むと、神さんがエンジンをかけて、車を大洗港まで走らせる。
九月六日、月曜日。この日は騎手や調教師の休日だった。騎乗依頼が少なくない中、『札幌2歳ステークス』でロッキーに騎乗してくれた大村さんを労おうと、神さんが釣りに誘ったらしい。
そしてなぜか、僕もそれに誘われた。
「俺の趣味に付き合って欲しい」と神さんに言われたので、よく分からないけれど僕はそれを承諾してしまった。荷物持ちで呼ばれたのかと思ったけれど、いざ美浦トレセン前で待ち合わせると、神さんが初心者の僕でも使いやすい釣り道具を一式くれた。どうやら釣り仲間を増やしたかったようだ。おそらく、神さんが使わなくなった道具たちなのだろう。ところどころに傷や汚れがあった。
一時間と十五分ほどかけて車は大洗港に辿り着いた。そして車から必要な道具を取り出して場所を確保し、今はこうして三人並んで、竿を海に垂らしている。
「しかしまあ、大村が十着になるなんて珍しかったよな」
ふと神さんが大村さんにそんなことを言った。
「本当ですよ」と、大村さんが答える。「女の子の馬の方が得意とはいえ、俺ももう少し行けると思ったんですがねえ」
「たぶん、僕が原因だと思います」と、僕は思わずそう言った。
「ああ、あれのことか」と、神さんは呟く。
「え、何かあったんすか」と、大村さんは両隣をきょろきょろしながら尋ねた。
「レースの前日、厩務員同士で喧嘩があって、でもその原因って僕なんですよ。掃除を手伝おうと思って馬房の整理をしたら、それが気に食わなかったみたいで。そこにもう一人が首を突っ込んじゃったので、何か喧嘩みたいになっちゃいまして」
僕がそう言うと、大村さんは「そうだったんだ」と呟いた。神さんは魚に餌だけ食べられてしまったのか、一度釣り糸を海から巻き上げる。
「でも、確かに僕のせいですよね。断りも入れずに、勝手にやってしまったんですから。小さな頃から、何一つ変わってない。そうやって、大人になりきれないままの自分が、僕は一番嫌いなんです」
「矢吹……」と、大村さんが何とも言えない表情で呟いた。神さんはその隣で再び餌を針にかけると、竿に勢いをつけて釣り糸を海に放り投げる。永遠と錯覚するような数秒が、海風とともに流れていく。
「これはあくまで俺の持論だけど」と、神さんはふと口を開いた。「大人になったからと言って、無理に大人ぶる必要はねえんじゃねえかな」
「どういうことですか」と、僕は神さんに尋ねる。すると神さんは、僕にこんな話をしてくれた。
「確かに、大人になるために変わることは必要だ。でも、人ってのはたとえ成人したとしても、自動的に大人になるわけじゃない。だから『完全に大人にならなきゃ』と思って、無理に変わろうとすると逆に空回りするもんなんだ。それが変われない自分を嘆く原因になる。
でもな矢吹、そうやって何かを反省できたんなら、何も変わっていない自分を嘆くよりも、何か一つを学べた自分を受け入れた方が、俺はそれが本当の大人だと思う。だから大人ぶって、無理に変わろうとする必要はねえ。止まってもいいし、戻ってもいい。ゆっくり進んでいくことが、大人になるための近道なんだ」
どうして、神さんの言葉はいつもここまで響くのだろう。他の人がどう思うかは分からないけれど、僕にとって、神さんの言葉は道しるべのようなものだった。
「やっぱり、神さんはすごいですね。僕だったらそんなこと思えないです」
ふとそんなことを呟くと、神さんは「いや、そうでもないよ」と答える。
「俺だって、もしかしたらそうなんじゃねえのかなって、ついこの間気付いたばっかりさ」
「え、神さんにも、分からないことってあるんですか」と、僕は神さんに尋ねる。
「むしろ分かんねえことばっかだよ。四十四年間生きていても、この世界は俺の知らないことでいっぱいだ」
そう言いながら、神さんはふと上空いっぱいに広がる青い世界を仰ぎ見る。僕もつられて見上げると、一筋の飛行機雲が、見たこともない場所へと一直線に伸びていた。
「だから、そんなに思い詰めても仕方がねえよ。それに、お前は今そういうことに気付けたんだから、それだけでラッキーだっていうことだ」
「はい」と、僕は呟くかのような返事をする。僕は急に、いつまでも悩んでいる自分の方が馬鹿らしく感じてきた。
「何か、今の神さんの言葉聞いたら、俺もまだまだだなって気がしてきた」
神さんと僕の間で、大村さんがそんなことを呟いた。
直後、大村さんの竿が激しく糸を張る。
「うお」と、大村さんは声を上げた。同時に竿を両手でぎゅっと掴み、リールを回して釣り糸を少しずつ巻き上げていく。その様子を見て、神さんは右手で自分の竿を持ちながら、左手でたもを用意していた。
かなりの大物なのか、竿のリールはかくかくとぎこちなく回っている。そうやって大村さんが少しずつ巻き上げていくと、やがて海面下に影が見えてきた。
「よし」と叫んで、大村さんは最後にもうひと頑張り、リールを回していく。そして大村さんが魚を海から空中に引き上げると、神さんがすかさずたもを差し出した。
しかし、そこには何もいなかった。
「は?」と、大村さんは気の抜けた声を漏らす。
どうやら、あと少しのところで大物に逃げられてしまったみたいだった。
直後、神さんは「ぶ」と噴き出すと、「だっせえ」と言ってけらけらと笑い始めた。
「よ、よく人のこと笑えますね?」と、大村さんは驚きや悲しみ、怒りや呆れなどが混ざった早口で言う。そんな二人がおかしくて、僕は思わず、声をあげて笑ってしまっていた。




