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馬房の清掃なんて、本当に久しぶりだった。神さんや厩務員のみんなが、僕に調教に専念させてくれていたことを改めて実感する。
九月三日、金曜日。ロッキーが出走する『札幌2歳ステークス』が、翌日に迫っていた。
騎乗停止期間中の騎手は、レースでの騎乗はもちろん、調教にも参加してはいけないことになっている。だから二週間だけとはいえ、僕は無職も同然だった。そして職がなければ、当然収入を得ることも出来ない。
そうやって何も出来ないのが嫌だったので、僕はこの期間だけでもと思い、馬房清掃を手伝うことにした。神さんからは「こういう時くらい羽を伸ばせ」と言われたけれど、僕一人だけ何もしないというのは、自分で自分を許せなくなりそうだった。
「わあ、綺麗になってる」と、馬房の入り口から清水さんの声がした。振り返ると、水浴びをしていたロッキーが、清水さんに引かれながら戻ってきていた。調教直後の汗できらめく馬体も魅力的だが、それを水で洗い流せば、さらに艶やかさが増してより格好良く見える。まさに水も滴るいい男だ。
「言われた通り、糞を片付けて寝藁を換えといたよ」
僕は清水さんにそう言うと、清水さんは馬房の扉をあけながら、「ありがとうございます」とお礼を言ってくれた。そのまま清水さんは「どうぞ」と僕に促す。
「ありがとう」と言って、僕はロッキーの馬房から外に出た。その後で、清水さんがロッキーを馬房の中へと誘導する。清水さんの後ろを付いていくロッキーは、清水さんと同じ歩幅でかっぽかっぽと歩いていた。
「すごい、柔らかい」と、馬房に入った瞬間に清水さんが言った。おそらく、寝藁のことを言っているのだろう。
「ほらロッキー、ふかふかだよ」と、清水さんはロッキーに呼びかける。するとロッキーはすっと馬房の中に入っていき、そのまま寝藁の感触を確かめるように、ぐるぐるとその場を周回し始めた。二、三度ほど回ったところで立ち止まり、清水さんにリードを外してもらうと、そのままちょこんと座り込む。そして「ふん」と鼻から息を漏らした。どうやらお気に召したようだ。
「よかったね、ロッキー」と言って微笑む清水さんが、いちばん満足そうな表情をしていた。
「それにしても、すごいですね矢吹さん。私、こんなにふかふかにできませんよ」
「何言ってんだよ。矢吹さんなんだから当たり前だろ」
向かいの馬房で、スペースボイジャーのマッサージをしていた関根くんが、そう言って話に入ってきた。するとボイジャーが、ぶんぶんと頭を縦に二回ほど振った。
「ああ、はいはい」と言って、関根くんはボイジャーのマッサージを続ける。どうやら、マッサージの手を止めて欲しくなかったみたいだ。
「前にいた厩舎で、よく厩務員の仕事を手伝ってたからね。その人よりも上手くはないと思うけど」
褒められ慣れていないので、僕はついそんなことを口走ってしまった。すると関根くんはマッサージをしながら、僕にこんなことを言った。
「何言ってるんですか。厩務員になったばかりの俺たちを手伝ってくれたの、矢吹さんじゃないですか。俺たちよりも上手いに決まってますって」
「そうかな」と僕が言うと、「そうですよ」と関根くんは食い気味に即答した。そして隣にいた清水さんに「な?」と言って視線を送る。清水さんはそれに合わせて「うん」と返事をしてくれた。
「ありがとう、そういうことにしておくよ」
僕はそう言って、二人に対して笑顔で言おうと試みた。
上手く笑えていただろうか。
「何やってんの、お前ら」
突然そんな声がしたので振り返ると、しかめっ面をした清田さんが、厩舎の入り口から戻って来ていた。調教しに行ったテンキュウヨゾラのリードを握っている。
「あれ、清田さん。ヨゾラは調教中なんじゃ?」
関根くんが清田さんにそう尋ねる。
「その間に馬房掃除しに来たの」と清田さんが答えると、「察しろよそのくらい」とため息混じりに呟くのが聞こえた。
「あの、僕がやっておきました」
僕がそう言うと、清田さんは睨むように驚いた表情をしながら「どういうこと」と僕の方に振り向いた。「え、俺がいない間に矢吹がヨゾラの馬房掃除したってこと?」
「はい」と僕が答えると、清田さんは僕にこんなことを言った。
「何やってくれてんの」
「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。直後に清田さんが、僕に向かってつかつかと歩み寄りながら、語気を強めながら語りかけてくる。
「あのな、ヨゾラのことを分かってるのは俺だけなの。なのに何も知らない矢吹が手を出すってどういうこと。それでヨゾラが機嫌損ねて絶不調になったらどうするつもりだ。お前は親切でやったつもりかもしれないが、こちとらそれが迷惑なんだよ。お節介がまかり通ると思うな。そんなんだから俺に傲慢って言われんじゃねえのかよ」
「さっきから聞いてりゃ、何なんすかあんた」
僕が謝る前に、反抗心むき出しに清田さんに迫ってきたのは関根くんだった。何事かと思ったのか、馬房で座っていたロッキーが、というよりも馬房にいた馬たちが、いつの間にか顔を出して様子をうかがっている。清水さんはそんなロッキーの顔を、怯えた顔つきになりながら撫で始めた。
「関根、てめえに言った訳じゃねえよ。それとも、先輩に対して歯向かうつもりか」
「先輩だろうと何だろうと、言いたいことは言わせてもらいます。清田さん、あんたそうやって妥協しねえから周りから嫌われるんでしょ」
「どういう意味だ」
「自分の流儀を他人に押し付けんじゃねえって言ってんですよ」
「てめえ、痛い目見ねえと分かんねえようだな」
まずい、このままじゃ止められなくなる。その場の空気が一気に重くなっていくのを、僕は全身で感じ取っていた。
そんなことを思いながら二人の仲裁に入ろうかと思っていた時、「二人ともそこまで」と言って、川名さんが馬房の入り口から戻って来た。その隣には、ベンケイを引いた安さんもいる。そして川名さんはそのまま二人の間に割って入っていった。
「でも川名さんこの人が……」と関根くんが川名さんに訴えかけると、「はいはい分かったから」といさめられてしまった。
「兄貴はともかく、何で安まで来たんだよ」と、清田さんは安さんが来たことに不満そうだった。
「偶然だよ」と、安さんは何食わぬ顔でベンケイと一緒に通過しながら言う。清田さんはそれに対して、ばれないように小さく舌打ちをした。
「まず寛太くん、いらっとなる気持ちは分かるけど、それを抑えてこその大人だろ。それから大我くんも、他人の善意を踏みにじるな。せっかくやってくれたんだから、納得いかなくても『ありがとう』って言わなきゃ駄目だろ」
そう言われてむすっとする関根くんとは対照的に、清田さんはすぐに「すみませんでした」と川名さんに謝った。
「何で川名さんには従順なんだよ」と、関根くんが不満そうながらも聞こえないような小声で呟く。
「聴こえてんぞ」と清田さんに睨まれると、関根くんは咄嗟に焦った表情になり、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「おい清田、ヨゾラ戻って来たぞって、あれ、何か空気重くね?」
長谷川さんが馬房の外から、いつもの大きな声で清田さんにそう声をかけた。すると清田さんは、馬房の壁にかけていたヨゾラのリードを掴み、そのまま馬房の外へと駆け足で向かっていく。その後ろ姿に向けて、清水さんが両目を閉じながらあっかんべをしていた。
「え、何、もしかして俺、お呼びでなかった?」と、長谷川さんは空気を紛らわせようとしているのか、微笑みにもならない笑顔を作りながらそう言った。
「健介さん、空気読んでください」と、川名さんが長谷川さんにきつい口調で返す。いろんな負の感情がたゆたっている空気の中、ロッキーは僕に顔を近付けてきた。心配そうな表情をしているその顔を、僕はゆっくりと撫で続けた。




