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「さっきは本当にすみませんでした」
僕は検量室で後検量を済ませた、足立さんと平坂さんに謝る。ベンケイの斜行で、進路を妨害してしまった二頭に騎乗していた二人だった。
「別にええて。人馬ともに無事やったんが何よりやで」
そう言って、足立さんは笑いながら勝負服を脱ぎ始める。
「そうそう、怪我がなかったのが一番だよ」と言いながら微笑む平坂さんは、既に次のレースの勝負服に着替え終えていた。
「それより、せっかく初の重賞制覇がかかっとったのに残念やったな」
足立さんはインナー姿になり、次に着る勝負服を探しながら僕にそんなことを言った。
「あれ、そうだったっけ?」と、平坂さんが僕に尋ねる。
「はい」と、僕は一瞬の間をおいて答えた。
「そりゃお気の毒に」と、平坂さんは僕の隣に移動しながら、気まずそうにそう言った。
重賞とは、その日の目玉となる特別競走の中でも特に格上の競走のことで、GⅠ、GⅡ、GⅢの三つがそれに充当されている。「G」とは「格」を表わす「grade」の頭文字をとったもので、新馬戦や未勝利戦、オープン戦などを勝ち抜いてきた競走馬たちの晴れ舞台ともいえる競走だ。
特にGⅠ競走は、その中でもほんの一握りの実力馬しか出走できない。そのためGⅠ競走を一度でも制覇した馬は「GⅠ馬」と呼ばれ、それだけで歴史に名を残す名馬となれる。
有名なGⅠ競走としては、『天皇賞』や『日本ダービー』、『有馬記念』などが挙げられる。おそらく、競馬を知らない人でも聞いたことくらいはあるのではないだろうか。
ちなみに今日の『関屋記念』は、新潟競馬場のGⅢ競走として位置付けられていた。
「そっか、初の重賞制覇目前だったか」と、平坂さんは含みを持たせた口調で呟く。
「俺、てっきり矢吹はもう重賞制覇したもんだと思ってたよ」
「何でやねん。この間一〇〇勝したばかりやないか」と、足立さんが間髪入れずに平坂さんに言う。それを聞いた平坂さんは、頭上に「?」という記号が浮かんで見えるような表情になった。
そんな平坂さんを横目に、足立さんは「あった」と呟く。どうやら、探していた勝負服が見つかったみたいだ。
「でもさ、また直近で重賞に出走できる機会があるんでしょ。だからそんなに落ち込まなくてもいいんじゃない?」
「え、矢吹お前、次の重賞いつなん?」と、新しい勝負服に着替え終えた足立さんが、平坂さんの言葉を聞いて僕にそう尋ねてきた。
「次は確か、『札幌2歳ステークス』です」と、僕は答える。
「ちょっと待て、それって確か……」と、足立さんは何かを思い出すように目を泳がせた後、困惑したような表情を浮かべて僕にこう言った。
「矢吹、お前それ騎乗停止期間中のレースやんけ」
「え」と言って、平坂さんは苦い顔になりながら僕の方を見た。愛想笑いをしようとしたのか、表情が中途半端にひきつっている。
「そうなんです」と、僕は恥ずかしさで頭を下げながら二人にそう言った。
「まじかよ」と、平坂さんはため息混じりにそう呟いた。
他馬の進路を妨害するほどの斜行を行った騎手には、そのレースの翌々週から、二週間の騎乗停止処分が科せられる。これにより、僕はGⅢ競走の『札幌2歳ステークス』に出走する競走馬に騎乗することができなくなったということだ。そしてそのレースで、僕はロッキーロードに騎乗する予定になっていた。
「うーん、こればっかりはしゃあないことやけど、何か可哀想やなあ」
足立さんは水を飲みながら、「どうすればええんやろ」とでも言いたげな顔でそう呟いた。
「五十嵐さんに申し訳ないです。せっかく騎乗依頼をくれたのに」
「まあ、やっちゃったものはしょうがない。俺も足立さんも何回かやらかしたことあるから、そんなに気にしなくてもいいと思うよ」
平坂さんが優しい声で僕にそう言ってくれた。
「せやな」と、足立さんも腕を組みながら大きくうなずく。
「ありがとうございます」と、僕はそんな二人にお礼を言う。
「さて、そろそろ次のレースや。行くで、平坂」
足立さんの呼びかけに、「はい」と言って平坂さんが立ち上がる。去り際に平坂さんは僕の方に振り向くと、「じゃあな」と言って、軽く右手を振ってくれた。僕はそれに手を振り返す。誰もいなくなった検量室は、僕に懺悔でも求めるかのように、しんと静まり返っていた。




