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※この物語はフィクションです。登場する人物、競走馬、団体名、施設名、および競走成績などは全て架空のものであり、実在するものとは一切関係ありませんのでご了承ください。
油断した。
「すみませんでした」と、僕は検量室前にいた牛尾さんに頭を下げる。隣にいた神さんと安さんも、一緒に頭を下げてくれていた。
「いえそんな、今回は仕方がないですよ」と、牛尾さんは謝る僕にそんな言葉をかけてくれた。その声には、落ち着きというよりも爽やかさを孕んだ誠実さが垣間見える気がする。
八月十五日、日曜日。『関屋記念』でウシワカベンケイに騎乗していた僕は、最後の直線でベンケイを大きく外側に斜行させてしまった。そのせいで、後ろを走っていた二頭の進路を妨害したとして、もともと三着だった着順が降着で五着。それについて、僕らはベンケイの馬主の牛尾さんに謝罪していた。
「皆さん、顔を上げてください」と、牛尾さんは僕たち三人に声をかける。とある企業の三代目社長だというが、年齢は僕と同じくらいに見えた。
「ベンケイは緊張しい性格ですから、きっと何かが原因で気が動転しちゃったんですよ。だから神先生も安さんも、それから矢吹騎手も誰も悪くありませんよ」
「いえ、ベンケイが斜行するかもしれないということは、騎手としてある程度予測できたことです。それなのにベンケイを斜行させてしまった責任は全てこちらにあります。ご要望がございましたら、謹んでお引き受けいたします」
僕がそう言うと、牛尾さんは「そうですか」と一言呟き、一瞬考え込む素振りをした後で、僕にこんなことを言ってくれた。
「では、次走の騎乗も矢吹騎手でお願いします」
「え」と、僕は思わず口から声を漏らした。「よろしいのですか」
「ええ。というより、矢吹騎手だからこそ騎乗してもらいたいのです。そして次走こそは、きちんと良い結果を残してください。私としては、それで大変満足です」
そう言うと、牛尾さんは僕に対して、やんわりと微笑んでくれた。
「ありがとうございます」と、僕はもう一度深く頭を下げる。「かしこまりました。ありがたく騎乗させていただきます」
「いいんですよ、そんな大袈裟な」と、牛尾さんは苦笑のような微笑を浮かべる。
「では、私はこの後予定が控えておりますので、このあたりでお暇させていただきます」
腕時計をちらりと見てそう言った後、牛尾さんは踵を返した。
「本当に、ありがとうございました」
僕と神さん、どちらからともなくそう言うと、そのまま牛尾さんの後ろ姿に向けて深く一礼をした。安さんも、それにつられて一礼をする。
「よかったね、矢吹くん」
牛尾さんの姿が見えなくなったところで、安さんが僕にそう声をかけてくれた。
「はい」と、僕は返事をする。「でも、本当に僕なんかでよかったんでしょうか」
「いいんだよ、これで」と、神さんは僕に言う。「牛尾さんが認めてくれたんだから大丈夫だろ。それにお前の実力については、俺がしっかりと保証する。だから気にするな」
そう言って、神さんは僕の肩を一回、ばしっと叩く。その瞬間、僕のもやもやとした根暗な思考が吹き飛び、一気に背筋がしゃんとする感覚がした。こうやって、ことあるごとに僕は、神さんのこの不思議な力に助けられているような気がした。




