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僕は鞍を胸の前で両腕に抱えて、そのままデジタル式の計量秤の上に乗った。
五三・〇キログラム。
制限重量に過不足なし。こうして七着以上の騎手がレース後に行う後検量の後、各馬の着順が決定することになる。そして僕は、そのまま検量室前で待つ神さんと五十嵐さん、それから清水さんとロッキーの元へと向かっていった。
「お疲れ」と、神さんが右手を軽く挙げながら僕に言う。
「お疲れ様です」と、清水さんが神さんに続いて声をかける。
「お疲れ様」と、五十嵐さんも僕にそう言ってくれた。でも、僕としてはあまりいい心持ちではない。
もう少し、早めにゴーサインを出していれば。
僕の頭の中は、そのことでいっぱいだった。いくら波乱を演出したと言われようと、一着になれないままで終わってしまうのは、僕はいちばん嫌だった。そんなことを思い出して、今になって自分に腹が立ってくる。
「そんな顔するなよ」と、ふと神さんにそんなことを言われた。はっとして僕は我に返り、苦笑しているような微笑を浮かべた神さんの方を振り向く。知らないうちに、また僕の顔にそんな思いが出ていたのだろうか。
「まだ負けたと決まったわけじゃねえ。だから、落ち込むにはまだ早いと思うぞ?」
「そうですよ、矢吹さん」と、清水さんが元気いっぱいにそう言った。「それに、ロッキーに乗っている矢吹さん、めちゃくちゃかっこよかったですよ」
「でも、僕が思っていた勝ち方じゃなかった。もっと早くに仕掛けていれば」
「そんなことないわ」と、五十嵐さんは優しい声でそう言ってくれた。
「今日のレースを観て私、感動しちゃった。こんなに胸が熱くなるレースを観たのは、久しぶりだったわ。だから、ありがとうね、矢吹くん」
そんなことをあの女神の微笑みで言われ、僕はどきりとして何も言うことができなくなった。ただ感謝の意を伝えるために、ぺこりと会釈をすることが、僕にできる精一杯の気持ちの表明だった。
「それでね、私、そんないいレースをしてくれた人にお礼がしたいの。だから矢吹くん。明日の夜、どこか美味しいところに連れて行ってあげる」
突然の五十嵐さんからの食事の招待に、僕は思わずまた「ふぇ」と、芯の通っていないなよなよした声を上げてしまった。清水さんは「え」という声を漏らし、少し悲しげな表情を浮かべた。隣では神さんが、その様子を見てにやにやしている。「それは名案だ」とでも言いたげな、子どもみたいにいたずらな笑顔だった。
「いや、いいですよ。僕なんかにそんなことしなくても」
僕は自分でも訳が分からない感情に飲み込まれながら、矢継ぎ早にそんなことを言った気がする。
「ううん、お礼しないと私の気が済まないの。お寿司でもステーキでも、何でもいいのよ?」
そこまで言われると、断る方が失礼だと思った。僕はどうするべきか迷い込んだ挙句に、口から細長い息を吸い込んで、五十嵐さんに尋ねる。
「本当に、何でもいいんですか」
「うん」と、五十嵐さんは顔いっぱいに微笑む。「変なおばさんに無理やり連れ回されたって思っていいから」
そう言って自虐的な苦笑を浮かべる五十嵐さんに、僕は少し間をおいてからこう答えた。
「じゃあ、ステーキが食べたいです」
すると五十嵐さんは「いいわよ」と笑顔で返事をしてくれた。「ちょうど私の実家の近くに、美味しいステーキ屋さんがあるの。そこで良ければ、連れてってあげる」
「ありがとうございます」と、僕は呟くように返事をした。直後、神さんがいきなり僕の背中をどんと押してきた。思わずのけぞってしまった僕の肩に、神さんはそのまま腕を乗せる。
「良かったな。べっぴんさんと一緒にデートできて」
神さんが僕に顔を近付けて、そんなことを言ってきた。
「な」と言いながら神さんの腕をはらうと、神さんはいつも以上に無邪気な笑顔でにやにやとしている。
「いいなあ、矢吹さんだけずるいです」と、清水さんはいじけたような声でそう言った。
「俺たちはロッキーの面倒見なきゃいけないだろ?」と、神さんは娘に言って聞かせる父親のような口調でそう言った。「残念だけど、俺たちはまた今度だ」
「ちぇ」と言いながらも、清水さんは「はあい」と渋々返事をした。
「あ、じゃあ、こういうのはどうでしょう」と、五十嵐さんが提案をしてきた。「神先生やりりあちゃん、それから厩舎の皆さんには、後日改めて何かお土産をお贈りいたします」
「え、いいんですか」と、清水さんの目が輝く。
「いや、悪いですよ。何から何まで」と、神さんは戸惑ったようにお断りした。
「いえ、これも私がそうしないと気が済まないんです。何がいいか、皆さんで話し合って決めてください」
「ありがとうございます」と、神さんと清水さんは同時に感謝を述べる。
「じゃあ、私は笹団子がいいです」と、清水さんは何かを宣言するように希望する。
「おい、お前だけで決めるなよ」と、神さんが間髪入れずにそう言った。
「いいわよ」と、五十嵐さんが笑いながら了承する。僕はその様子を見て、思わず笑ってしまっていた。
突然、場内放送のチャイムが流れる。
「お知らせいたします。新潟競馬第五レース『メイクデビュー新潟』は、写真判定の結果、一着8番、ロッキーロードとなりました」
僕は思わず自分の耳を疑った。神さんと清水さん、そして五十嵐さんと同時に目を合わせる。三者三様に、驚嘆と歓喜の表情を浮かべていた。
「繰り返しお伝えいたします。新潟競馬第五レース『メイクデビュー新潟』は、写真判定の結果、一着8番、ロッキーロードとなりました。払い戻しの準備が完了するまで、しばらくお待ちください」
僕はその瞬間、神さんと二人で抱き合っていた。清水さんと五十嵐さんも同時に抱き合う。
そして神さんは抱きながら、僕の背中を左手で三回、強くたたいた。じんわりとした穏やかな痛みが、僕の背中に溶けていく。その痛みで、僕はこれが夢じゃないんだと確信した。
それから僕は清水さんとハイタッチを交わし、五十嵐さんとは何度も頭を下げ合った。その様子が、もしかしたら滑稽に見えたかもしれない。
そして最後に、僕は大人しく待機していたロッキーの身体を、何度も何度も撫で続けた。清水さんはロッキーの顔を両手で近付けて、キスをするように抱きしめる。ロッキーはそんな僕らに対して、気が済むまで触らせてくれた。ロッキーが耳を横にしていたから、おそらくロッキーも嬉しかったのだろう。
そうやってロッキーを撫で続けながら、僕はこの後のことを考えた。
まずはこの四人と一頭で、表彰式に参加しなければならない。それから、僕の通算一〇〇勝記念セレモニーもあるし、その後は勝利ジョッキーインタビューも控えている。
さて、これから忙しくなるぞ。
そんなことを思う僕の心には、なぜか不安ではなく嬉しさがあふれ出していた。新潟を覆う雲の隙間から、後光のような陽が射し込み始めていた。
第二章へ続く




