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ファンファーレ  作者: 菅原諒大
第一章 メイクデビュー
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1-21

 その日の馬の状態を観客たちが下見するパドックから、僕はロッキーに騎乗することになっていた。

「止まあれえ」という、係員のこぶしを効かせた号令とともに、周回していた出走馬たちが立ち止まる。何頭かが暴れ出したり嘶いたりする中で、騎手たちは観客たちに一礼をした。その後で、それぞれが騎乗する馬の方へと駆け寄っていく。

 ロッキーは他の馬に比べて馬体がやや小さいので、比較的簡単に見つけることができた。8番の白いゼッケンが、艶やかな黒い馬体に映えている。その隣では、黒いヘルメットを被ったスーツ姿の清水さんが、ロッキーのリードを握っていた。女性厩務員は皆無に等しいほど珍しいからか、清水さんについて言及していると思われる声が、観客たちの間で飛び交っている。

 僕がロッキーの左側に近付くと、清水さんはすぐさま右手で僕の左足を持った。「せーの」の合図で清水さんが僕の左足を持ち上げると同時に、僕は鞍を掴み、右足でロッキーの背中をまたぐ。そのまま僕は鞍の上に乗り、手綱を握りながら、両足をそれぞれ鐙にかけた。

  普段の調教では、僕は神さんに騎乗するのを手伝ってもらっている。でもうちの厩舎の場合、パドックではその役割は調教師ではなく、厩務員が行うことになっていた。普段からの世話役をそばにおくことで、なるべく馬を緊張させないようにしよう、という神さんの意向だ。

 そしてこの日のために、清水さんは神さんから、その方法を教えてもらったと言っていた。他人から見れば、女性が男性の片足を持ち上げるという絵面は、やや滑稽に見えたかもしれないけれど。

 僕はロッキーにまたがった後で、ロッキーの乗り心地を確認する。これもいつも通り、やわらかくて雲の上にいるような感じだった。そしてパドックにあるモニターを見て、現時点の単勝オッズを確認する。ロッキーのオッズは三六・九倍。七、八番人気といったところだろうか。これで仮にロッキーが一着になったとすると、一〇〇円で買った単勝馬券が、三六九〇円になって戻ってくる計算となる。

 騎手が各馬に乗り終えると、誘導馬の先導でパドックをもう一、二周ほど周回してから、コースに続く馬道へと誘導された。そのうちの何頭かは、途中の検量室前で騎手を乗せていく。前走から連闘する騎手は、こうして検量室前から騎乗することがほとんどだった。そうしてゼッケンの番号順に並んで馬道を進んでいくと、いよいよ本馬場入場となる。

 新潟競馬場の場内に、大音量で本馬場入場の曲が流れた。

「先ほど天候が晴れから曇りに変更となりました、ここ新潟競馬場。第五レースは芝一六〇〇メートル、二歳新馬戦『メイクデビュー新潟』。それでは出走メンバー十八頭の紹介です」

 そんな実況の声と同時に、二歳の新馬たちが、ターフと呼ばれる芝コースに放たれていく。こうして競走馬が入場してから、向こう正面にある待避所で周回を始めるまでのウォーミングアップを、僕らは返し馬と呼んでいる。その日の各馬が興奮しているのか、緊張しているのか、あるいは落ち着いているのかを、これで見極める馬券師も少なくない。

 このレースに出走する二歳馬たちは、全員これがデビュー戦となる。だから初めてのターフを前に、入場を嫌がって地団駄を踏む馬もいれば、騎乗している騎手を嫌がって、前後に揺れながら振り落とそうとする馬もいた。でもほとんどの馬は、誘導馬の後ろで一列になり、とことこと待避所まで向かっていく。

「8番ロッキーロード。馬体重は四四四キロ、ナインティナイン産駒です。鞍上は矢吹 遥、五三キロ」

 ロッキーが紹介されると同時に、係員が引いていたリードを放す。それから一瞬の間をおいて、僕はロッキーにゴーサインを出した。直後、ロッキーはだだっ広いターフの上を、まるで自分のものであるかのように駆けていく。

 それを見て、後続の馬たちが次々と走り出した。誘導馬の後ろに並んでいた馬たちも、少しずつその闘争本能に火を灯し始めていく。

 曇り空のせいでまだ暖まりきらない空気が、つんと鼻の奥を通り抜けていく。

 感じる。

 ロッキーが地面を蹴る蹄のリズム。前に出ようとする闘争心。呼吸と鼓動。馬体に宿る熱。それらが鐙を伝って一気に僕に押しよせてきた。

 誰にも負けないほどの強い闘争心。それについていく俊敏な身体。だけど僕の指示を聞こうとしてくれる落ち着きの良さ。そして緊張など全くないと感じるほどの心の余裕。

 いける。

 僕は直感的にそう思った。

 上位人気じゃなくてもいい。

 いや、そうじゃないからこそいいと思う。

 上位人気は狩られる側だ。

 そして僕らは狩る側だ。

 息を潜めて標的を狙う。

 生き延びたければ逃げてみろ。

 それでも僕らは逃がさない。

 音を上げるまで追いつめてやる。

 その時、僕はロッキーと一心同体になったような感覚だった。

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