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青いヘルメットの紐を締めて、左手、右手の順に手袋をはめる。青地に緑の襷模様が描かれた勝負服のファスナーを上げ、首元まで閉めてから、僕は検量室を後にした。袖は黒地で、緑の一本輪がある。
ふと顔を上げると、検量室前に神さんと五十嵐さんがいた。僕は二人の方へと駆け寄る。
「おう、矢吹」と、神さんはいつものように右手を軽く挙げる。ただ一つだけ違うところがあるとすれば、神さんがスーツ姿になっているということだろうか。
「いよいよだな」と、神さんは僕にいつものへらっとした笑顔で言う。
「もしかして、緊張してる?」と、五十嵐さんが僕に尋ねてきた。
「はい」と僕が答えると、五十嵐さんは女性特有の上品な柔らかい笑い声をこぼす。
「その緊張ごと、楽しむことをお勧めするわ」
そう言って、五十嵐さんは僕に女神のような微笑みを浮かべる。僕はさらに緊張してしまい、会釈を返事の代わりにすることしか出来なかった。
五十嵐さんはロッキーの馬主だ。十年ほど前に当時勤めていた会社を辞め、たった一人で会社を立ち上げた。つまるところ女性社長ということだ。ロッキーが左前脚を怪我した時、厩舎に治療費を送金してくれた人であり、僕にロッキーの騎乗依頼を申し込んでくれた人でもある。
「もしかして、五十嵐社長で緊張してんじゃねえの?」と、神さんがいたずらっぽく僕に呟く。
「ふぇ」と、僕は思わず訳の分からない声を出してしまった。
「ちょっと、やめてくださいよ先生」と、五十嵐さんは微笑みを絶やさずに神さんにそう言った。「三十五のおばさんからかっても面白くないですって」
神さんと五十嵐さんが笑いあう。僕には、その光景がまるで夫婦のように見えた。
「でもまあ、確かに五十嵐社長の言う通りだ。別に気負う必要はねえ」
そう言って、神さんは僕の肩を一回、ばしっとたたく。その瞬間、僕の緊張が吹き飛び、一気に背筋がしゃんとする感覚がした。こういう時、神さんは子どもみたいな、くしゃっとした笑顔になる。
「あとは俺から言うことは何もねえ。五十嵐社長、何か一言ありますか?」
神さんがそう言うと、五十嵐さんは「気を付けてね」と僕に言ってくれた。
「はい」と僕が返事をすると、神さんも五十嵐さんも僕に微笑みかけてくれた。僕は二人に一礼をし、そのまま騎手控室へと向かう。さっきまで、僕一人だけ緊張していたのが、何だか少し馬鹿らしく感じた。




