立ち込める暗雲
1928年3月末。
昨年、無事に士官学校に入学したミカであったが、結局最初の2年分の課程を1年で修了、いわゆる飛び級してしまった。彼女の家はチベットでも裕福な方に属し、きちんとした教育を受けていたこと、そしてなにより、一般的な学業についてはどこか既視感があり、ひょいひょい理解できてしまったことが原因である。
「まさかミカと一緒に授業を受けることができるなんて思わなかったよ」
「私もびっくりしてるから……」
最初の1年間の間に飛び級というのは珍しいもののあり得ない話ではなく、毎年1人いるかいないかぐらいの頻度で発生している。まあ、自分がはたから見れば優秀な人間であるという自覚がないミカにとって、自分が飛び級したなどということは今でも信じられないところがあるが。
「ここから本格的な軍事教練が始まるんだよね。楽しみなような、怖いような」
士官学校3年次から本格的な軍事教練が始まる。チベットの士官学校では唯々諾々と上官の命令に従うロボットではなく、創造的で積極的な指揮官を育成するため、無意味な「闘魂注入」などはない。他国では突撃歩兵などの教育に見られる方針である。
「死ぬよりはましだからね、仕方ないね」
しかしそれは教練がぬるいことは意味せず、むしろ質の面を担保するために猛訓練を積むことが要求されていた。このため、面倒見の良い教官や先輩に申し訳なさを抱え、自責の念に耐えきれず辞めていく者もそこそこいる。
「私も死にたくはないからなあ」
「まだまだ人生これからだもんね」
「ところで、最近こんな噂を知ってる?」
軽口を叩きあっていると、キャロリンが真剣な顔をして声のトーンを落とした。
「国境警備隊がガルムの方に集まっているんだって。あの辺りは今そんなに激しい戦闘は起きてないのに」
ガルム、つまりゴルムドはツァイダム盆地のある青海の最大の都市で、下手をしなくても今のチベットではラサより栄えている。彼女たちが小さな頃はここを目標に四川軍などが攻撃を仕掛けていたが、現在は戦線が東側に移動して距離が開いたため、攻撃されることはなくなっていた。
「なんでだろ……河西回廊の方からの攻撃でも察知したのかな」
「あそこかあ……うちからすると、インフラが周囲よりましな上に縦深がないから、さくっと分断包囲してモンゴルを鉄床に殲滅できちゃう場所でしょ」
「あそこに戦力を集結させるのはやっぱ怖いから、そういう話ではないだろうなあ」
河西回廊は甘粛省のあたりの回廊で、中国本土と新疆をつないでいる。北をモンゴル、南をチベットに挟まれている細い回廊であるため、チベット側から見ると「縦深がない地域」ということになるのだ。
「新疆が民国側に加勢するとか?」
「確かにあそこも民国の一部ってことにはなってるけど、今までずっと鎖国じみた政策を続けてきた軍閥じゃん。今更動くなんてことあるかな」
チベットの北側、東トルキスタンを支配している新疆軍は、とても地方軍閥の長とは思えないほどのバランス感覚を持った人物、楊増新に率いられている。彼は国境を接するロシアと、チベットの背後につく日英との間を巧みに遊泳し、じわじわと自己の権益を認めさせつつ中立を維持していた。
「四川軍が事実上民国に吸収されるくらい負けたから、後ろから刺してくれって急かされたのかも」
「でもあの国、北側にいるロシアとの間でうまくバランスとらないといけないでしょ。そんな隙を見せている暇あるかなあ……」
先ほど地の文やミカが述べた通り、下手にチベットを攻めると新疆は事実上ロシアの味方をすることになってしまう。そうなったらイギリスはチベットをより積極的に支援しようとするはずで、むしろ戦況が悪化する可能性がある。楊増新なら、そんなミスはしなかっただろう。
「……なんにせよ、何かきな臭いにおいがするのよね」
「言っちゃなんだけど、我が国の周辺っていつも殺伐としてない?」
「いつもより臭うってことよ。言わせんな恥ずかしい……まあともかく、私たち、下手すると学校を卒業する前に戦場を経験するかもしれないわ」
「噂に踊らされるのは敗北する勢力のお約束みたいなものだけど……訓練に身を入れるための自己暗示としては悪くないかもね」
この時は軽い冗談のつもりの会話であったが、彼女たちは1つ見落としていたことがあった。それは隠れたチート人材楊増新が暗殺などで新疆軍から排除される可能性で、チベットの諜報部隊はこれを察知し、ツァイダム盆地防衛のために動かせる兵力をゴルムドまで移動させていたのである。
この決断が、まさかこの世界の第二次世界大戦を引き起こす原因の1つになるとは、少なくとも日英側の勢力は誰一人として思っていなかったのだった。
フラグなんか立てるから……