事の発端
本編「鷹は瑞穂の空を飛ぶ」をすでにお読みいただいている方は、斜め読みでも構わない気がします。
そもそもなぜチベットが戦車旅団を持っているのか、新疆を越えてロシアのカザフスタンに攻め込んでいるのか、どうしてそこに日本軍もいるのか、何が何だかさっぱりわからない読者も居るだろう。
そもそもこの世界の歴史は盛大にねじ曲がっている。と言うのも、令和の樹脂材料技術者が五摂家の公爵令嬢「鷹司耀子」に転生し、ナイロンの発明をはじめとする未来知識の活用によって、日本の国力が史実より高まっているからだ。これのおかげで日露戦争も史実より犠牲者は遥かに少なく抑えることができ、色々余裕があったため、より国際的な動きができるようになったのである。
そんな日本が、同盟国のイギリスと一緒に目を向けたのがチベットである。
チベットは、隣国インドから見るとヒマラヤ山脈の向こう側にある貧弱な仏教国であった。その険しい地形によって外界の情報に乏しく(独立当時は英語話者すらほとんどいなかったという話もある!)、世界の近代化から取り残されている絵にかいたような秘境である。
「セラの医者よ、どうかダライ・ラマ猊下の侍従医になってはくれないだろうか」
「私はあくまで僧侶。仏道修行が自分の本分でございます。大変申し訳ないですが、御断りさせていただきたく……」
このように、特に医者としての訓練を受けたことがない日本人僧侶の河口慧海が、ダライ・ラマの侍従医を請われてしまうくらい、世界の流れから取り残されていた国だった。そんなことでは自国を守ることも困難であり、辛亥革命の前には清に武力で制圧されてしまうことになる。
さてそんなチベットではあったが、イギリスにとっては「大英帝国の至宝」インドをロシアから守る干渉地域として、また、インド方面に流れ込む河川の水源を有する地域として重要視していた。
「支那の奥地にツァイダム盆地と言う場所があるのですが、あのあたりは石油や塩類がよくとれるんです。現地住民や歴史的な経緯を鑑みると、チベットに統治させるのが妥当な土地なので、ぜひともかの国を支援して確保しておきたいですね」
また、日本を大きく変えてしまった逆行転生者鷹司耀子も、チベットには独立して力をつけてもらいたいと考えており、この世界では日英両国が共同してチベットの独立支援に当たることになる。なお、彼女の心情的な動機として、前世で追いかけていた戦略RTSのプレイ動画でチベットが活躍していたというものがあったが、そんなことは耀子以外誰一人として知る由もなかった。
まっとうだったりろくでもなかったりする理由で日英から支援されたチベットは、辛亥革命の混乱に乗じて史実を上回る快進撃を続け、予定通り首都ラサから青海省のツァイダム盆地までを奪取することに成功する。早速、新たなビジネスチャンスとばかりに日英から鉱業界の人々が試掘に訪れた。
「塩湖があるだけあって鉱物資源は豊富だな……特にマグネシウムやカリウム、石灰岩の鉱床は有望だ」
彼の上げたものの他にツァイダム盆地には、リチウム、ナトリウム、珪素などの大規模鉱床がある。だが、ナトリウムは海水から容易に採取でき、リチウムと珪素に至ってはまだ有効な活用方法が開発されていないため、彼はさほど価値が無いものとしてみていた。しかし、ツァイダム盆地に埋蔵されているものはほかにもあり……
「向こうの石油チームから、原油と天然ガスの埋蔵が確認されたって先ほど連絡が来ましたよ」
「何!?それはすごいな……ここはまさに宝の盆地だ」
インフラが未整備で、どうやって採掘した資源を運び出すかと言う問題はあったものの、この資源を元手にチベットは急速な近代化を進めていくことになった。外国嫌いな寺社勢力は当然反発し、中には中華民国へ亡命する者も出たが、ダライ・ラマ13世は意に介さなかった。
「諸行無常は世の習いと言うのも理解していないとは……奴らはいったい何を教えていたというのだ?」
さて、近代化を進めていくうえで欠かせないのが、日本で言うところのいわゆる「お雇い外国人」である。日英の様々な人材が技術を教えるべく、下手するとチベットの独立前から派遣され、仕事に励んできた。中には現地住民と結ばれてそのまま定住する者もおり、1話で登場したカヤバ・ミカ・サカダワも、そんな経緯で日本人の父とチベット人の母の間に生まれた女性である。チベット人には珍しく苗字を持ち、日本語的な響きがある「噂」を名前に含んでいるのもそのためであった。
mikhaは正確にはミィ↑カと発音するようですが、作中では日本語風に「ミカ」と表記します。
あと、今調べたら「悪口」と訳している人がいるので、悪い意味も含む語のようです。とはいえ、後ろの「サカダワ」の意味から、そっちの方にとる人はいないような気もしますし、厄除けのために「うんこ」と言う意味の名前を付けることがある文化圏ですから、珍しい名前だなあくらいにしかとられないとは思いますが……チベット語は素人なのでごめんなさい。