嵐の前の静けさ
胡桃沢 景は感嘆していた。書き込まれたノートは、現在進行形で目の前のホワイトボードに出来上がっていく数式が半ば辺りまでで放棄され、彼女の思考と視線は既に他へと移っていた。
隣に座る少年、吉野 和也。黒髪に、男の子とは思えない華奢な顔付き。その瞳には何処か惹きつけられるものがあり、所作の一つ一つが周囲を魅了する。ノートに書き込まれた文字は自分のとは比べものにならないほど、繊細な筆跡だった。目の前と真下とを往復する彼の横顔を眺めているだけでも、秒針の針が打つリズムが速まったように感じられる。
教室内には、数学の教師である海堂がホワイトボードに文字を書く音。周囲の生徒がそれを写すために、ペンを走らせる音。誰かがたまに咳払いや鼻を啜る音がするくらいで、とても物静かである。
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昼休みに入る。
私はいつもの友達と他愛のない会話を交わし合う。
『それでねぇ〜、男の子が一瞬で相手の男からナイフを奪ったの。』
『へぇ〜、通り魔なんて本当にいるんだね。』
『ねぇねぇ、その男の子ってカッコ良かっ
た?』
『顔見てなかったなぁ〜。それに気づいたらいなくなっちゃってたし、、』
『いいなぁー、なんか運命の出会いっぽくない?』
『ん〜?どうだろね?』
『景にも彼氏かぁ〜。』
『いやいや、ないない。それに、、』
『それに?』
『、、ううん、なんでもない。私ちょっとお手洗い行ってくる。』
今、わたしには少し気になっている男の子がいる。同じクラスの吉野 和也くん。成績優秀、眉目秀麗。
完璧な人間なんていない。私はそう思っていた。
きっと何処か裏があって、それを隠して、別の部分で補って。
そうしている人間がほとんどだから。
彼は誰に対しても優しい。困ってる人がいたら、誰でもすぐ助けちゃうような性格だ。
この私の目から見ても、彼の善意は本物だった。
いろいろな打算があって動いてるわけじゃなくて、彼のその性質から、条件反射で。
そんな彼のことが前々から少しずつ気になり始めていた。
隣の席になってからは、授業毎に彼を見つめてしまう。気付いたら彼のことを目が追っている。そんな感じだ。
自分のように突貫工事で作られた不安定な人間じゃなくて、ありのまま全てを卒なくこなす彼に憧れたのかもしれない。
『あ、すみません。』
考え事をしながら歩いていたため、人とぶつかってしまった。
『いってーな、ナンダテメ?』
険しげな表情で、こちらを睨みつけるその男のことを景は知っていた。
『、、米沢、健司。』
健司、、。