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氷の檻に阻まれて

作者: リリル

罪人ユラの手記より引用

『―――愛というのは不確かなもので、だから私は、それを信じるほどには強くなれなかったのです』

 硝子の箱は私だけの棺。罪を犯した私が閉じ込められたそれは、無慈悲に海へと沈められた。

「独りぼっちで死に果てる罰……だったはず、なのにね」

「おや、そうしたかったのかな」

「まさか。あなたが一番よく知っているでしょ、私は寂しがり屋なの」

 そう、これは罰のはずだった。けれど私の心はまるで湯たんぽを抱き抱えたかのように暖かだ。

 彼は微笑む。その微笑みは本当に美しくって、こんな状況でもやっぱり見蕩れてしまう。熱の無い、透明で掴みどころのない笑顔は人の笑みと言うには美し過ぎる。

 まあとにかく、罪人の詰められた箱には本来想定されていない同乗者がいる。この状況こそ、私の犯した罪の証でもあるのだけれど。

「ユラ」

「なぁに、私の……私だけの悪魔様」

「その仰々しい呼び方、こうなる前に訂正させたかったんだけど……いつになったら君は分かってくれるのかい?」

「いつって、貴方、おかしな事をいうわね。私はもうここで死ぬ運命なのに」

 冷たいけれど、凍りつくほどではなく。透明だけれど見通せはしない。ゆるりと私の髪を手櫛で梳く動きは丁寧で、でもおそらくは、優しさなんて甘いものではないし、思いやりなんて充たされたものでもないのだと思う。

 だって彼は、私が契約した悪魔様だもの。

 私の国には、『悪魔様と海の巫女』という昔話が伝わっている。簡単に言ってしまえば悲恋話。孤独に耐えかねた巫女が悪魔を呼び出す話だ。悪魔の思考や巫女の境遇など細部に違いはあるものの、話の筋は変わらない。

 巫女の呼び出した悪魔は水を操り、海を割る。その力を借りた巫女は海の申し子、水姫様と讃えられたという。その力の出どころが悪魔様だと知られてしまうまでは。

 この国では異端とされる魔との契約に手を染めた巫女は、穢れた魔女として処刑された。硝子の箱に閉じ込めて、船から落として海に沈められる。一人を恐れた彼女にとっては何よりの罰だろう。けれど巫女の少女の絶望は続く。

 水に愛されたと人々を欺いた魔女は、利用してきた海に殺されるべきだと声高に叫ぶ男は。白銀の髪を撫でつけ、凍りついてしまいそうな目をした男は。彼女への罰に、こんな当て付けのような孤独を挙げた男こそが。独りぼっちだった少女が手を伸ばし、心を許した悪魔様だったのだから。

 後味の悪いバッドエンド。お砂糖をいくら入れても泥水が泥水のままであるように、このお話に救いなんてものはない。

 終わりを穏やかに改訂してしまえばいいのだろうけれど、そうもいかないのだ。これは異端に手を染めるべきではないという教訓であり、悪魔の恐ろしさと冷酷さを警告するための御伽噺なのだから。

「ね、悪魔様。私、死ぬ前にして欲しいことがあるの」

「なんだいユラ、今の君はいつになくしおらしい」

「ふざけないで」

「ごめんごめん」

 だから。私は期待しちゃいけないのだ。

 彼は悪魔様。悪魔様は、魂を手に入れるために契約者を嵌めることを悪だとは思わない。彼らにとっては私たち人間の道徳なんて無意味なはずなんだから。

「真面目に聞くとしようか。さあユラ、君はこの僕に何を願うのかい」

 でも。

「君が望むのなら何だって与えよう。地位も名誉も才能も、服も食料も住む場所も、誰もが羨む美貌だってあげようじゃないか」

 それでも。

「ああ、でも君はこんなものは望まない。そうさ、僕にだってそのくらいは分かるよ。君が欲しいのは友であり、親であり、家族であり、恋人であり、伴侶だ。君が欲しいのは繋がりだ。誰かとの繋がり、それこそ君の求めるものなんだろう」

 私のことを誰よりもよくわかっているこの悪魔様に、全てを……魂を、委ねてしまうことの何が悪いの。なんて、思うのだ。

「悪魔様、簡単なことなのよ」

「そうだろうね。君はいつだってささやかな望みしか口にしない」

「だってそれだけでいいんだもの。それだけあれば、私は幸せだったんだもの。小さな幸せだけで良かったのよ、でも私にはそれすら無かったんだもの」

「そうだね。ユラ、君は独りぼっちだった」

「だからあなたを呼んだの。お母さんが欲しかった。お父さんが欲しかった。お兄ちゃんもお姉ちゃんも弟も妹も欲しかった。おじいちゃんもおばあちゃんもおばさんもおじさんも従兄弟も姪も甥も欲しかった。友達が欲しかった。好きな人が欲しかった。好きになってくれる人が欲しかった。思いを通わせる人が欲しかった。この先の人生を共に過ごせる人が欲しかった」

 悪魔様は、私の願いを叶えてくれる。家族が欲しいと言えば家族になってくれた。友達が欲しいと言えば友達になってくれた。恋人が欲しいと言えば恋人になってくれた。

 悪魔様は、私に彼との繋がりをくれた。

「ね、悪魔様。いつもみたいに、私が寝るまで寄り添って」

「ああ、いいよ。ゆっくりおやすみ、ユラ」

 冷たい硝子から温もりを守るように、底面に彼がマントを敷いてくれた。その上に横たわると安心する。悪魔様は何の匂いもしないけれど、このマントからは悪魔様の気配を感じるから彼に包まれているような気分になれる。

 悪魔様は横になった私の目の前に胡座をかくと、人ならざる美しさを誇る顔を私の顔に近づけた。そっと瞑った瞼の上に、冷ややかな唇が触れる。

「おやすみなさい、悪魔様」

 そしてさようなら、とは言えなかったけれど。私の魂はどうせ彼のものになるのだから、さようならではないのかもしれない。

 それなら、寂しくはない。この穏やかな微睡みが私の最期なら、私の人生はちゃんと幸せなものだった。


 ◆◇◆


 さわさわ、ふわり。心地好い風が髪を揺らし、暖かな手が私の頬を撫ぜた。心地よい微睡みの中にいた私は、まだ夢現のままに寝返りを打つ。

 健やかな草の匂いがする。爽やかな水の匂いも。

 風の音に混じって長閑な小鳥の鳴き声が聴こえた。

 あら、と疑問に思う。私は硝子の棺に詰められた罪人のはずだ。ここは冷たく暗い海の底に沈められた、無機質な硝子の箱の中ではないのか、と。

「ユラ」

 聞き慣れた声がする。

「ユラ、そろそろ起きるんだ」

 あれ、でも……知っている声のはずなのに、何かが違う。いつもの声よりも、人間らしい温度を持っていると言えばいいだろうか。

 ぱちり、と目を開く。

「ようやくお目覚めだね。おはようユラ」

「悪魔様……」

 夜空の星を溶かしこんだような、冷たく煌めく瞳が私を見つめていた。美しく、輝かしく、そして澄んだ真冬の空気のように寒々しい。言わずもがな、麗しき悪魔様の目だ。

「……悪魔様、ここはどこかしら」

 そう、凍てつくような……無機質な、眼差し。だった、はずなのに。

「ああ、わからないのも無理はないよね。体に不具合はないようだけれど」

「え、ええ」

「でも外から見えない不調というものもあるのだから、何か感じたらすぐに言っておくれ」

 思い遣りの言葉。でも、そう、違うのだ。それがたとえ優しさを織り交ぜたものだとしても、悪魔様の言葉は熱の篭っていない口から紡がれていた。

 この言葉には温もりがあった。

 これじゃあまるで、私を慈しむ声じゃないか。

 私が困惑している事に気が付いたのだろうか、彼は私の瞳を覗き込む。悪魔様の瞳に映った自分の顔は、何故か酷く醜く思えた。

「質問に……答えてくれるかしら、悪魔様」

「ああ、そうだったね。ここはどこなのか、だったかい」

「ええ」

「ここはね……まあ、僕の住む世界だよ」

 頬に手を添えられた。その手からじんわりと熱が伝わり、私は自分の体が冷えきっていたことに気がつく。

「それは……魔界、とか」

「そうだね、君の理解で言うならその解釈が近いのかもしれない。……君のいた世界よりも上の層にある世界だよ」

「上の、層?」

「あまり深く考える必要は無いよ。君はただ、僕の生まれ育った世界にいると、それさえ分かれば十分なのだから」

 そうだろう、と悪魔様の表情が解ける。その言葉は形の上では問いかけだけれども、その実私の答えなんて決まりきっているとでも言いたげで。ある意味とても得意気で。そう。つまりはとても、人間らしい色をしていた。

 ふわ、と軽い感触がゆるりと頬を滑り落ちる。ふわ、ふわり。柔らかに触れる手がどうしようもなく心を揺さぶる。

 何故。そう、何故なのだろうか。こんなにも私は。

「ああ、嗚呼、ようやくだ……ようやく、君をこちらに連れてこられた」

 喜びの色を滲ませた悪魔様の声が。

「君の世界では完全に僕の姿を写すことは出来なかったからね。あちらでは随分と無機質な様子に見えただろう?」

 嬉しくてたまらないといった様子の悪魔様の笑みが。

「だけどここでなら違う。君がこちらの階層に上がってきてくれたからには、僕の感情も、想いも、全てを君に伝えられる」

ああ、おかしいなぁ。

「愛しているよ、ユラ。僕の愛し子」



 どうしようもなく、気味が悪かった。



 がり、がりがり、がりがりがり。心の何処かが掻き乱される音がした。

 がり、がりがり、がりがりがり。震える身体を抱き締めるように回された自分の腕。それを、自然と掻き毟っていた。


「……ねぇ、悪魔様」

 自然と逸らしていた目線を、意志の力で彼の元に向かわせる。

「私……彼処で終わりだと思っていたの。彼処で終わらせられて、幸せだと思っていたのよ」

「ユラ……?」

 にこり。顔に笑みを貼り付ける。色の無い、意味の亡い、価値の失せた無機質な笑み。

 悪魔様の表情に、暗い色が宿った。この色はきっと、不安と疑問。ごぷり、ごぷり。心の奥底に溜まった澱が産声をあげる。


「私はね、悪魔様。……あの時、あの状況で、もう終わらせたかったのよ。あの幸せの微睡みの中で、私の人生の幕を下ろしたかったの」


 がりがりがり。がりがりがりがりがり。がりがりがりがりがりがりがり。

 気づけば掻き毟る腕は首に向かっていて。どくん、どくんと心音は上がって。たらりと垂れる真紅の生命は勢いを増して。

 いつの間にか手の内にあった氷の刃で、一思いに首を掻き斬った。

 唖然とした悪魔様の顔。ボロボロに崩れ落ちた理性の中、その表情に嫌悪を覚える。

 私が愛したのは、色の無い悪魔様。情のない、人間とは違う何か。

 情ではなく契約で結ばれたが故に、私は彼を信じられた。信じて、愛することが出来た。彼の行動原理にあるのは契約故の利益だと、信じていたから。


 だから。


 私は、貴方からの愛なんか欲しくはなかった。



 さようなら悪魔様。私を愛してくれる貴方は、欲しくないの。


自分を愛さない人間を愛し続けることは難しいけれど、彼女にとってはそれでよかった。

愛されることに慣れていなかった少女は、自分を愛する者のことを受け入れられなかった。

ただ、それだけの話。

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