第1話 メイドを目指していた少女
世界はモノクロでできている――当時、瑞波律子という少女は本気でそう思っていた。
裕福な家庭に生まれた律子は、心優しい両親のもとで何不自由ない生活を送る。才能にも恵まれ、たった六歳にして既に大人顔負けの知識を有してしまった。
学問のみならず、芸術や家政、子供ながらに救命救急の技術さえ身に着け……詰まるところ、瑞波律子は人類史に残るくらいに、規格外な天才であった。
だがそれゆえに、律子は世界への興味をだんだんと失っていくこととなる。
疑問も不満も喜びも悲しみも、すべては自身の心の中で完結していき、次第に世界は色褪せていく。彼女の心のフィルターを通してみる世界からは、いつしか色彩が失われていった。
しかし、それは……『傲慢』の一言に尽きるだろう。
井の中の蛙大海を知らず。どんなに知識と技術を持っていても、律子はまだたったの六歳。世界の本当の広さも、奥深さもこれから知り、学んでいくのだ。
そして彼女は、割と早い段階でその事実に気が付くことができた。
「……おかあさん、あのきれいな人はだーれ?」
「綺麗な人? ああ、あれはメイドさんよ」
その日、律子は両親に連れられてとあるガーデンパーティーに参加していた。丘の上に建てられた洋館の庭園で開かれたそれは、大規模なお茶会のようなもので……そして、律子は出会った。
色のない世界の中で、鮮やかな白と黒のコントラストを輝かせる美しくも不思議な存在に。
それが――。
「……メイド」
いわゆる『パーラーメイド』と呼ばれる、接客を担当するメイドである。主催者が英国からわざわざ呼び寄せたらしい。メイドは優雅な物腰で各テーブルにお茶を淹れて回っている。
学問に知識が偏っていた律子は、この日初めてメイドという存在を知ったのだ。
何が気になったのか自分でもよく分からない。律子はメイドをじっと見つめた。するとそれに気が付いたのか、ふとメイドと目が合ってしまう。
バツが悪くて焦った律子とは対照的に、メイドの女性は優しくも朗らかな笑みを律子に届けた。
話としてはたったそれだけ。白いエプロンを纏った黒いドレスの女性が、律子に微笑みかけたというだけの話なのだが……。
「……とってもきれい」
だがそれは、瑞波律子が世界の色彩を取り戻す大きなきっかけとなったのである。
「メイド……女性の家事使用人。全盛期は十九世紀後半の英国、ヴィクトリア朝時代」
興味を持った律子はメイドについて調べ始めた。律子の溢れんばかりの才能が、メイドに傾倒していく。歴史を学び、メイド服を作ったり、自宅でメイドの真似事をしてみたり。
その姿に両親は喜んだ。ここ最近、何をやっても楽しそうでなかった娘が、自ら興味を持って何かに取り組むようになったのだ。両親は律子の行動を止めようとは思わなかった。
ある日、律子は映画を見た。タイトルは『深窓の姫君の悲恋』。
昔の英国貴族を題材とした映画だ。蝶よ花よと育てられた箱入り娘の貴族令嬢が、偶然知り合った平民の青年と恋におちる物語。最終的に身分差ゆえに二人が心中してしまうバッドエンド。
その結末に多くの観客達が涙する中、律子も涙を流していた……感動で。
(すごい。お姫様が色々頑張ってるけど、それを支えているのはやっぱりメイドなんだわ)
物語の主人公はあくまで令嬢であり、メイドの登場シーンはほんのわずか。しかし、メイドの何たるかを学んだ律子には、ヒロインの後ろで活躍するメイド達の奮闘ぶりが容易に想像できた。
瑞浪律子、六歳。花より団子。恋よりご奉仕な、メイドジャンキーへと彼女は成長していく。
そして二十歳を迎えた彼女は、とうとう両親にこう切り出した。
「お父さん、おかあさん。私、メイドになるために英国へ留学します!」
「おお、そうか。ビッグ・ベンが観光名所らしいぞ」
「律子ちゃんは本当にメイドが好きねぇ。楽しんできてね」
ぽややん系両親は即答だったという……両親は後にそれを後悔することとなる。
自力で留学資金を溜めた律子は、両親に見送られた英国行きの飛行機に乗った。
窓際の席に着いて出航を待っていると、一組の日本人カップルが律子の隣の席に着く。年齢は自分と同じか少し下くらいだろうか。
「すみません。隣、失礼します」
「ちょ、美人さんの隣は俺に譲るべきじゃね?」
「あんたは黙ってなさい!」
「ふふふ、大丈夫ですよ。どうぞ」
三人が席に着きしばらくすると、飛行機が離陸した。英国まではおよそ十二時間強。同世代の三人は、いつしか談笑を始めていた。
「へぇ、あなた達、高校生カップルなの。二人で海外旅行だなんて両親公認なのね」
「「カップルじゃありません!」」
息ぴったりに律子の言葉を否定する二人。律子はクスリと笑った。仲良しにしか見えない。
「こんなのとカップルだと思われるなんて心外です。絶対にお断りです!」
朝倉杏奈と名乗った少女が、眉間に皺を寄せながら何度も首を横に振った。
「それはこっちのセリフなんですけど!? 俺だってカップルになるなら律子さんの方がいいし!」
栗田秀樹と名乗った少年も、心底嫌そうに律子の言葉を否定した。
「だったらどうして二人で英国旅行なんてしているの?」
「正確には二人じゃないんです。ツアーなんです、これの」
そう言って、杏奈は何かのゲームソフトを見せてくれた。銀髪の少女を五人の男性が取り囲んでいるキラキラしたイラストが描かれている。
「今、女子中高生の間で人気のゲームなんですけど、なんと特別初回版のプレゼント企画で英国の名所巡りツアーというのがあって、その限定十名に当選したんですよ」
だから、席は離れているが他のゲームファン八名がこの機内にいるのだと杏奈は説明した。
「俺はこいつの付き添いなんすよ。本当は妹が一緒に行きたがったんですけど、さすがに未成年の女二人旅は認められなくて、俺が駆り出されたんす」
「そうなの。じゃあ、秀樹君は杏奈さんの騎士様ということね」
「「ないない!」」
この二人、本当に息ぴったりである。手を振って否定する仕草まで揃っていた。
その姿がおかしくて、律子は思わず笑ってしまう。
三人で会話を楽しみながら、飛行機は英国に向けて飛んでいく。
仮眠と取って、次に目が覚める頃には英国の空だ。律子はそう思い、期待に胸が膨らんだ。
まさに順風満帆。メイドへの道はもうあと一息!
「……だったはずなんだけどなぁ」
「どうかしたの? セレスティ?」
一人の少女がポツリと呟いた。簡素な青色のワンピースを身に纏う少女。胸のあたりまで伸びた輝く銀の髪。神秘的な瑠璃色の瞳を持つ美しく可愛らしい少女が母親の隣に佇んでいた。
「ううん、何でもないわ。おかあさん」
対する母親は腰まで長いブラウンの髪と、少女と同じ瑠璃色の瞳を持った美しい女性だった。少女が大人になればおそらく彼女のような顔立ちになることだろう。
首を振る娘を見てニコリと微笑んだ彼女は、眼前の屋台での買い物を終えると娘の手を取った。
「そう? じゃあ家に帰りましょうか」
「はーい! じゃあね、トマさん」
「おう、ありがとな。セレナさん、セレスティちゃん。また来てくれな!」
八百屋のトマさんに手を振ってセレスティとセレナは帰路についた。
セレスティ・マクマーデン、六歳。
彼女はこの日、前世の記憶を思い出した。