4.ホルンの音色
新学期の日は午後から新入生が健康測定をするため二、三年生は午前いっぱいで帰ることになっている。私は一人自転車で帰路についていた。駅の近くで私はある人物の姿を捉えた。
「あっれーー、モッチーじゃん!」
「か、葛西先輩!」
吹奏楽部前部長の葛西清美先輩だ。在籍中はホルンのパートリーダーで私の師匠でもある。葛西先輩はものすごくお洒落な格好をしていて部活のときとは違う雰囲気を醸し出している。
「部活の帰り?」
「あ……は、はい!」
ついその姿に見とれてしまい私は返事が遅れてしまった。
「部長は何してたんですか?」
「モッチー、もう私は部長じゃないんだよ?」
「あ、つい……」
白石先輩には申し訳ないが、葛西先輩のほうが部長のイメージが強い。もちろん部長である期間が長いというのもあるが、それを抜きにしてもやはり同じ結果である。ひょっとすると、葛西先輩は部長体質なのかもしれない。
「友達と待ち合わせしてたんだよ」
「そうだったんですか」
「で、吹部のほうはどう? 新入生はどれくらい入りそう?」
「えと……新入生のほうは多分大丈夫だと思うんですけど……」
「けど? どうしたん?」
葛西先輩が首を傾げる。どうしよう、言うべきだろうか。悩んだ末に私は言った。
「実は、滝沢先生が顧問をやめることになってしまって……」
「えぇ!? そうなの? でも、なんでまた?」
「奥さんが難病におかされてしまったみたいで治療中の付き添いに……」
「そうなんだ……そりゃ大変だね」
「はい……」
「で、後任の先生ってどういう人なの?」
「ええと、先生の話だと星城のOBらしいんです。 東京の音大にも行ってたとかで、プロの音楽団の指揮を振ってたみたいです」
「へぇ、すごいじゃん! いいなぁ、私もプロの指導を受けたかったなぁ」
「先輩……滝沢先生も一応プロの指揮者なんですよ?」
私は先輩の言葉に思わずツッコんだ。
「アハハ、冗談だって!」
先輩はそう言い笑い飛ばす。とそのとき、先輩の持つバッグから携帯の着信音が鳴った。
「あ、ごめん、電話だわ! ちょっと待ってね!」
「あ、はい……」
先輩は電話に出る。手持ち無沙汰になった私はそのあいだ演奏のイメトレをすることにした。まだ寒さが残っていたので手袋を装着して、だ。当然のことだが通常のときよりも指が動かしづらい。が、逆にそれがいい練習となった。先ほど演奏したばかりの『宝島』の自身のパートのイメトレを終えたと同じタイミングで先輩の電話は終わった。
「モッチー、ごめん! もうすぐで友達来るから帰ってもらえるかな?」
「あ、はい、分かりました!」
「悪いね」
「いえ、それじゃ失礼します!」
私はそう言うと再び帰路についた。
* * *
次の日。朝練のため私は早く学校に来た。足早に音楽室に向かう。音楽室に入ろうとしたまさにそのとき、ホルンの音が聴こえた。
「……町子先輩?」
気になった私が扉を開けると、そこには久米先生の姿があった。ホルンを演奏するその姿は何物にも形容しがたいほど素晴らしいものであった。この曲はなんだろう?知らない曲だ。先生は名前の知らないその曲をただひたすらに無心で吹いていた。
聴いているうちに吸い込まれそうになる感覚に襲われる。足が地から離れていくようなそんな感覚。私はいつの間にかその曲をハミングしていた。
「おや、あなたは……倉持さん?」
気付くと演奏は終わっていて、先生がこちらを見ていた。私は激しく動揺する。今のハミング、聞かれてしまっただろうか?急激に頬が熱くなる。
「すす、すいません! た、立ち聞きするつもりはなかったんですけど──」
「別に構いませんよ。 倉持さんが気にすることではありませんから」
先生はそう言うと微笑んだ。その笑顔は私が知っているどの大人のそれよりもあどけなく幼い感じがした。
「──先生もホルンやってたんですか?」
私が訊くと先生はホルンを軽く持ち上げる。
「ええ、中学生のときからホルン一筋です」
「さっきの演奏、とても素晴らしかったです!」
私は心に思った率直な感想を口に出した。先生は少し驚いた顔をしたが、再び微笑んだ。
「ありがとうございます。 そう言ってもらえるとホルンをやっててよかったと素直に思えます」
「……あの、先生はどうしてうちの顧問を引き受けたんですか?」
私は思いきって訊いてみた。先生は少し間を置きこう答えた。
「そうですね……やりたかったから、ですかね?」
「やりたかったから……」
「ええ、滝沢先生から話を聞いたとき即決したんです」
先生は抱えていたホルンを机の上に置く。それは机の半分を占領した。
「誰かに教えたい、自分の知っていることすべてを共有したい、そんな気持ちがどこかにあったんでしょうね」
先生はまるで人のことのように話した。
「そんな私を、倉持さんは受け入れてくれますか?」
「え?」
突然の問いに私は内心戸惑った。どう答えるべきか分からなかった。なので、
「は、はい! みんなも……そうすると思います!」
と当たり障りなく答えた。
「それはよかった! 実を言うと心配だったんです、受け入れてもらえないのではないかと」
「そ、そんなことありません! 私、先生の演奏好きです! みんなにも知ってもらいたい、そう思います!」
気付くと熱の入った話し方になっていた。なぜだろうか。恐らく先ほどの演奏に感化されてしまったのではないか、私はそう思った。
「そう言ってもらえて嬉しいです──あ、そろそろ職員室に行かなければいけないので失礼します」
そう言うと、先生は一度頭を下げ私の横を過ぎ音楽室を出ていった。
「受け入れてくれますか……」
どういう意味だろうか。考えてみるも当然のことだが皆目見当がつかなかった。仕方ない。私は考えるのをやめ、熱が冷めないうちに練習しようとホルンを取り出した。