2話
たかだかバイクで20分、まわりは普通の住宅地。
だけど、からんと鳴るベルを聞くと、
なんだか別世界にきた気分になる。
図書館なんて柄じゃないと思いながらも、
翌日も再び足を運んでしまった。
うるさくない場所は、そうそうないからだと、
自分に言い聞かせながら。
「こんにちは」
本の森の住人、志賀さん。
文化系な見た目なだけあって、図書館が似合う。
「…どーも」とだけ返事をし、中に進もうとする。
「昨日はあの後、ご気分は大丈夫でしたか?」
「お陰様で、ヘーキ」
「そうでしたか、よかったです。
あ、ここにお名前お願いしてもいいですか」
そう言って、受付の机にある大学ノートと鉛筆を
差し出した。
「来館者のお名前を書いてもらってるんです」
前回はすっかり忘れてしまったんですけど、と笑う。
意外とうっかりしているようだ。
子どもが書いたのか3行ぐらい使って大きく記された
名前の下に、薄く、三原聡と付け加える。
「三原さんですね。お名前は、そうさんでしょうか?」
「うん」
「素敵なお名前ですね」
するりとノートの名前を撫でながら、褒められて、
くすぐったい気持ちになった。
「三原さん、読書ノート、作ります?」
うん?お生返事をすると、了承と受け取ったのか、
読書ノートとやらを出してきた。
幼稚園で子どもが使ってそうな紙の束だった。
ひかり文庫 読書ノートと銘打った、若葉色の薄い冊子。
よんだほんのなまえ・かいたひと・ひとことを書く欄が
たくさんつづいている。
遠い昔になくしたようなものが、突然目の前に突きつけられて戸惑った。
「…失礼ですが、おいくつですか?」
「じゅうなな」
普段ならハタチとか21とか適当に言うけど、
この人相手に嘘つく必要もないし。
平日の昼にブレザー着たままうろついてることを
咎められるかと思ったら。
「見えませんね」と、褒めてるのか貶してるのか
よくわからないコメントを頂いた。
「志賀さんはいくつ?」
「私ですか?26です。社会人4年目ですね」
「そっちのが見えねーよ」
大学生くらいだと思ってたという言葉は心の中に
飲み込んだ。
「お名前、書いておきますね」と、見知らぬ筆跡で
俺の名前が綴られる。
ひかり文庫 読書ノートの下に、三原聡くん。
…うわあ、こっぱずかしい。
「ノートはお持ち帰りいただいても、ここに預けていただいても結構です」
志賀さんはにこやかにそう言って、冊子が俺の手に
やってきた。
それから2階に移動して、気になった画集をぱらぱらと開いたり閉じたり。
けど、机の端に寄せた読書ノートが、どうも気になる。
悩んだ挙句、一番初めのページに、画集の名前を書いて。
派手な色使いが印象的と、小学生のような文章を残した。
帰り際に、志賀さんにノートを渡して、
「お預かりします」と、受付の棚に並べられた瞬間。
ああなんだかここにひとつ居場所を与えられたようだと思った。
「なぁなぁ楓ちゃん、コレわかんねー!」
午後になると、ひかり文庫は子どもたちでいっぱいになる。
志賀さんは、司書の仕事だけではなく、宿題を教えたりしているようだ。
「どこがわからないの?」
「全部!」
「じゃ、とりあえず最初から順番にやろうか」
しょうがないなという笑みを浮かべながら、
志賀さんが子どもの頭を撫でた。
はじめは志賀さんと子どもの2人だった小さな場が、
だんだん大きな輪になっていく。
窓際の席には、茶髪の子どもがぽつんと一人。
「お前は加わらないの?」と、声が勝手に出た。
「…俺に構うな」
なんか小さい頃の俺みたいな奴がいるよと思ってたら。
「坂井くん、順調に進んでる?」
向こうの輪に解法のヒントだけ与えた志賀さんがやってくる。
「はい」
志賀さんに対しては素直だな、こいつ。
「そっか、よかった。間違いもないみたいだね」
くしゃりと頭を撫でられると、子どもの顔にほのかに
うれしそうな表情がうかぶ。
なるほどね、と思った。
隅っこに居れば、志賀さんは一対一で、
しっかりと構ってくれる。
うわあ、可愛くないガキ。
「もしよかったら、わからないようにしてたら、
声をかけてやってください」
子どもから少しはなれて、志賀さんがそっと言う。
「俺に三原先生になれって?」
志賀さんはちょっと目を丸くして、それから笑った。
「いいですね、三原先生!よろしくお願いします」
いや冗談のつもりだったんだけどなんて、
今更引き下がれない。
「…ここで本を読んでるわけでも勉強してるわけでも
ないしね」
先生は、どうにも似合わなさそうだけど。
「ここは本好きの人や勉強する学生のためだけの場では
ないですから」
この人にかかると、何でも受け入れられてしまうと、
ひそかに眉を寄せた。
「楓ちゃん、できたよ!」
「次はこれ教えて~」
子どもたちの声が、志賀さんを呼ぶ。
すぐさま、わかった!と子どもたちに返し、
ではまたあとでと俺に微笑む。
ひょいとひるがえる黒髪が、すこし名残惜しい。
そうして、自分がさっきの坂井くんとやらと、
なんら変わりないことに気づくのだった。