1話
本の森に住む彼と出会ったのは、よく晴れた夏の日だった。
朝の海が見たいと女が言うから、バイクを走らせて、
いちばんちかい海までやってきた。
通学・通勤ラッシュが終わったのか、閑静な住宅地。
2車線余裕の太い道を隔てて、堤防から海が見える。
「きれいねぇ」
バイクを路駐して、堤防の上にのぼる。
朝焼けが残る海面は、きらきらと輝いていた。
きーんこーんかーんこーんと独特の授業開始ベルが鳴る。
「ねぇ、今日授業は大丈夫なの?」
「しらない」
年上の女は、時としてお節介な一面をアピールしてくる。
学校なんて、俺が行きたいときに行けばいい。
「聡って、昼間はいつも冷たいわ」
これ見よがしに、ためいきをつく。
「夜は、あんなに激しいのに」
ちらりと送られる視線に、徐々に気持ちが冷めていく。
「アンタも、昼と夜ではちがうよね。
この明るい光の中と夜の薄暗い部屋の中では、
だいぶ印象変わるよ」
めんどくさいなと思った瞬間、言葉が飛び出していた。
ぱぁん、と乾いた音。
「あんたってほんとサイテー!」
じぃんと振動の残る頬と、小気味よいヒールの音。
「追ってこないでよ!」と、ご丁寧な忠告を残して、
女は通りを駆け抜けていく。
いや、意味わかんないんだけど。
朝っぱらからバイクを走らせ、海へ来て、平手を喰らった。
ふぅとゆっくり息を吐いて、未だ赤く光る海面を見つめる。
あー、めんどくせ。ガシガシと頭をかきながら、
ゆっくりと堤防に座り込んだ。
すぐさまこの場を去る気にもならず、煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
じりじりと、太陽の熱が肌にくいこんでくるのが気持ちよかった。
「あの、よろしければ、うちに来ませんか?」
車の通りの少ない、しんとした道に、声がひびく。
え、何もしかして俺に話しかけてんの?
びっくりして後ろを振り向くと、大学生のような男が立っていた。
肩よりちょい短めの黒髪、眼鏡をかけた真面目そうなやつ。
こんな平日に何やってんだ。
「…アンタ誰」
「そこのひかり文庫で司書をしている、志賀楓です。
ここにいると、熱中症になりますよ」
だから、うちに来てください、と続ける。
「へんな人」
思ったままを口に出して、ひょいと堤防からおりた。
あからさまに学校サボってる、金髪不良風の俺に声をかけるなんて。
どう見てもお節介な人種だけど、何故か彼について行くことが自然に思えた。
バイクの留め金を外し、通りを横断する。
「暑くなかったですか?」
「べつに。てかアンタいつから見てたの?」
男はすこし困った顔で、「朝出勤したときから」と言った。
そう言えば、けっこう日が高く上っている。
何にも考えず、ただ堤防にいた俺の方がへんな人かと、
ちいさくわらった。
「ここです」
堤防から数十秒。ついたところは、ごくフツーの一軒家。
ベージュと赤のレンガの、洋風二階建て。
小さいが、駐輪場もついている。
ドアにかけられた葉っぱの形の木の札に、
ひかり文庫CLOSEと書かれている。
「へぇ、こんなとこに、としょかんあったんだ」
「地域文庫なので、あまり大きくないですけど」
男は、CLOSEとなっていた札をひっくり返し、
OPENにかえた。
「さぁ、どうぞ」
かららんと涼しい音とともに、ドアが開いた。
入った瞬間、紙とインクのかおりがした。
普通だと思っていた家は、内装がまったくちがった。
玄関・くつ箱、ここまでは同じ。
あとは本棚がひろがっていた。
左手に受付と書かれた小さな机。
その上には、ノートと鉛筆が転がっている。
やわらかく日が降り注ぎ、無人だったというのに、
ほのかにあたたかい部屋。
「ほんとに図書館だ」
そうつぶやき、中に足を踏み入れる。
「上着お預かりしますよ」と、男が手を差し出してくる。
……ブレザーなの丸バレだけど、まいっか。
「中、見ていいの?」
「もちろん、ご自由に。ひかり文庫は、だれも拒みません」
にっこりと微笑む男を見て、ほんとに不思議な人だなぁと思った。
配下図ですと渡された図面によると、1階が子ども・一般向け、2階が専門書らしい。
図面をたどりながら、ゆっくりと本棚の森へと進んでいく。
まずは右下、入り口と受付からスタート。
右上に子どもコーナー、左上に一般図書、
左下がオススメと季節の本。それから、2階に続く階段。
2階は、専門書と一括りにされているけど、
哲学・理学・芸術と幅が広い。
ごった煮みたいな図書館だなと思った。
一冊、適当に本を抜き、窓際に設置されたテーブルに座る。
ぱらりぱらりとめくるうち、下からにぎやかな声。
高い声からして、きっと子どもが来たのだろう。
先ほどの男の声も落ち着いた口調でなく、
朗らかに響いている。
なんかいつもと空気がちがうな、と思っていると、
ふうわりまぶたが下りてきた。
*****
「あの、閉館時刻なんですけど」
ん、なんか声が聞こえる。
いい気分なんだから、もうすこしほうっておいてよ。
はぁと溜息が一つ聞こえて、「閉館時刻ですよ」と
肩を揺さぶられた。
ゆっくりとまぶたを開けて、徐々に意識が戻ってくる。
「…もしかして俺、寝てた?」
とっぷり日が暮れてしまった外の様子を見て、
びっくりした。
「どうやら熟睡されてたようですよ」
子どもたちが、金髪のにーちゃんがいるって
騒いでたんですけどね、と笑う。
おかしいな、眠りは浅いほうなんだけど。
「勝手に寝ちゃってごめん」
「いえ、長居していただくほうがうれしいですよ。
気に入っていただけたようであれば、またお越しください」
「なら、また来る。よろしくね、志賀さん」
すっかり名前を忘れていたけれど、左胸に光る
ネームプレートを見て、最後に彼の名前を付け加えた。