白蛇の神
「……だめだ、眠れないわ」
棠棣は闇の中で目をこすった。どうにも目が冴えて眠れない。晴明にああは言われたものの、眠れないものは眠れないのだ。
「今は何時なの…侍従や右近たちも寝てしまったのかしら」
ゆっくりと御帳台を囲う几帳を指でめくった。今宵は満月のようで、閉ざされた寝所の中よりも外の方が少し明るい。暗くしっとりとした闇夜を冷たく月が照らし、いつもは煌めく星さえも、今夜ばかりは眠たそうに瞬きをしていた。
(外の空気を吸えば少しは気分も変わって眠れる…かも…)
そう思って棠棣は静かに身をすべらせた。小袖と緋袴の上に真っ白な夜着を三枚ほど重ね、艶やかな黒髪をその上にゆったりと流した姿は心の無い者が見ても女神と見まごうほどだ。月明かりが柔らかに削いだ横顔はどこまでも繊細で、ふっくらとした頬には桜の花びらほどに紅がさしていた。
優しい衣擦れの音が響く。
棠棣は対の屋の南側にある南廂に腰を下ろした。
月の光を貌に浴びながら、棠棣は目を閉じ、物思いに耽っていた。
(明日、惟征様のところへ行ってお話をするんだ…しっかりと気持ちを通じ合わせなくちゃ…)
その時だった。
「…おや、そこにおられる貴女はもしや、棠棣の姫君かな?」
少し笑いを含んだような声がした。
「このような日に晴明殿が方違えを受け入れるとは思いも及ばなかったのですが、お相手が棠棣の姫君とあらば、仕方もないことでしょうね…、なんと言っても晴明殿はずっと小町殿に頭が上がらなかったのですから」
声のした方に目をやると、そこには一人の見たこともない男が立っていた。
「…誰……?」
背丈は棠棣よりずっと高いだろうか。
髷を結わずに立烏帽子をかぶり、胸下まで下ろした髪は白菫色に透き通っている。黒い衵の上には柔らかく打った雪色の狩衣を重ね、月明かりに仄かな闇を透かしていた。深緋の指貫|(袴)には鮮やかな文様が織り出されていて、目にも綾なその出で立ちは、棠棣が今まで見てきたどの男にも勝るものであった。
透き通った白い肌に血の気は少ない。
少し短い眉はきりりとして、その下に落ち着く瞳を華やかに仕立てている。額の中央には象牙のような小さな角が煌めいていた。髪と肌が白いのに比べて、棠棣に向けて細く笑ったその瞳は宵闇の暗さだ。紅を零したような唇は夏の夜に濡れ、穏やかな笑みをたたえていた。
「私ですか?私は夜刀神、夜刀の神と書いて夜刀神と申します。今宵は晴明殿や他の神々と宴を催す約束でやってきたのですが、少し早すぎたようですね。まだ子の刻になったばかりだ、丑の刻に呼ばれたのですけれど」
「……神……?」
棠棣は大きく目を見開いた。その表情に、夜刀神と名乗った男はくすくすと笑う。
「そう、神です。私は白蛇の神、貴女が今宵お会いになられた晴明殿とは、彼が前の人生を過ごしていた頃からの友人になりますね」
そう言った夜刀神の背後から、ゆっくりと何か白いものが這い出てくる。
「あぁ、この子の紹介をしていなかったですね。この子は阿漕、美しいでしょう?私の一番の友人、恋人とさえ言ってよいかもしれないですが」
それは大きな蛇だった。
月白色に輝く身体はしなやかで、瞳は紅い。
夜刀神の足元で止まったその蛇は頭をもたげ、夜刀神に向かって舌をしゅるしゅると吐いていた。
「…姫君?どうかなさったのです?」
不思議そうな顔をする夜刀神の言葉で棠棣はわれに返った。
「あ、あぁ、いや、ごめんなさい…、まさか神と逢うことになるとは、それも、方違えをした屋敷で…」
「まさかって貴女、ここは晴明殿のお屋敷ですよ?普通の人間の屋敷とは訳が違います。彼の屋敷でなければ私達もこんな軽々と降りてはきません」
そう言って、彼は棠棣に向かってゆっくりと歩み寄った。後ろをゆっくりと阿漕がついてくる。
「それに貴女はその名の通り小町殿の生まれ変わり…、私も一度お逢いしておきたかったのです」
閉じたままの真っ白な蝙蝠|(扇)で夜刀神は棠棣の顎を優しく持ち上げた。