夏の雨
「残念だなぁ、あの美しいものしか愛でないような夜刀神が汚い下界に降りてまで守ろうとするぐらいだから、もっと張合いのあるお姫様だと思っていたんだが」
目の前の男の思わぬ行動に、棠棣は何も返せない。先程の宴でのこと、晴明、そして夜刀神の顔が、頭の中を走馬灯のように駆け巡る。
「ごめんね、おれだって好きで綺麗な女の子を手にかけようって訳じゃないんだ」
尖った歯を覗かせながら麻多智は続ける。
「ただ君を殺してしまえばおれは夜刀神に簡単に勝つことができる。今はまだわからなくても、奴に特別な力を与える存在が消えるからね」
笑う彼に、棠棣は震える声を絞り出した。
「…で、でも、夜刀神様はもう邪神などではないではありませんか……」
「あぁ、君は本当におめでたい頭をしているんだね。あの男を見てて思わないのか?何故あんなに人の心を惹きつけるほど美しい?何故わざわざ君の前に現れた?
すべてが予定調和だったとしか思えないじゃないか。自分に力を与える女の前にこんなにも都合よく現れるなんて。おれと戦うにはその力が必要なんだよ、その可愛い頭でもっとよく考えてみろよ。善い神は下界に降りて来たって人の前に姿を現すことなんてない」
「…それは…そうかも……」
その掴みどころのない棠棣の言葉を聞いて、麻多智は大きなため息をつく。
「まったく、本当に君は何も考えていないんだね……。いくら奴が美しくてその唇から甘い言葉が零れたとしても、ここまで簡単にのぼせ上がる姫君は800年間見たことがない」
麻多智はそう言って、顔を赤くする棠棣からその刀を引いた。
「こんな子を殺したって少しも面白くないから、せめてもう少し我慢してあげるよ。この感じじゃあ夜刀神に力を与えることだってないだろう」
月のない夜のことだ、星明かりと小さな灯火だけで照らされる室内は夏の夜に湿りながらも暗い。刀を鞘に納める音が静かに響く。
「今は文月|(7月)だ。神無月|(10月)の初め、稲佐浜に全国から神々が集まる。もちろん、夜刀神も都から離れることになる」
いつの間にか、麻多智の顔からは笑みが消えていた。
「そのとき君はひとりになる。守るものはない。それまでは、命を奪うことは我慢してやるよ。君も小町の生まれ変わりなら何か自分を守る術を身につけることだな…、おれだってあいつを殺すことはできなかったから。夜刀神に頼ってばっかりいると、ろくな目に遭わないぞ」
呆然とする棠棣を最後にしっかりと見つめ、麻多智はそれだけ言い残すとまたあの少年のような笑みを見せつけながら目を閉じた。その瞬間、床に散っていた紙屑がもう一度風に吹かれて舞い上がり、麻多智もそのひと欠片として姿を消した。あとには彼の残した濃い裛衣香の香りが漂う。棠棣は急に、夜刀神が焚き染めている香が何か思い出せないことに気がついた。
次の日は雨だった。この季節の雨は有難い。熱く蒸された都を一気に洗い流す清浄の雫は、田畑を肥やす恵みの流れとなって遍く人々を潤す。
棠棣は夏の雨が好きだ。花に雨粒が落ちるその寂しげな風情は何にも勝る。部屋の中にまで届く湿った匂いも弱く優しい風も、彼女にとっては照りつける太陽より愛しいものだと思えた。
桃色の単に紅の薄様を重ね、白群色|(薄い水色)の小袿を羽織った夏らしい装いの棠棣はいつにも増して涼しく美しい。ただ漆を零したような髪ばかりが濃く長く、着物の裾にたまっているのもまた愛らしかった。
「我が身世にふる 眺めせしまに……ですか?夏の長雨は確かに美しい。彼女もこの匂いが好きでした…、そうしていると本当に小町殿がそのまま生き返ったようですね」
突然聞こえた声に棠棣がはっと背筋を伸ばすと、寝殿に繋がる渡殿に腰掛ける夜刀神の姿が見えた。
今日の夜刀神は少し雰囲気が違った。いつも雪色の狩衣は朱殷色で、その深く暗い色から覗く衵は鉄紺。桜鼠の指貫はやはり綾な模様が美しかった。雨の中の優しい風にその白菫色の髪を柔らかく靡かせながら、夜刀神は続けた。
「昨日は申し訳ございませんでした、麻多智が貴女のもとへ訪れたそうですね。何もしないとは思っていたのですが、まさか刀を抜くとは思いませんでした」
あの絵のように美しい笑みを浮かべながら歩み寄る夜刀神に、棠棣は思わず声を少し荒らげた。
「申し訳ございませんでは済みません!本当に殺められるかと思ったのですよ、あれだけ守ってあげると仰りながら……、私が馬鹿で助かったというところです」
立ち上がって怒りをあらわにする棠棣のその姿を見て夜刀神はくすくす笑った。
「いやいや、本当に昨夜のことは私にすべて非があります。油断して天上界に戻ってしまったのがいけなかったのです。これに懲りてもう、とりあえず神無月までは京にいることにしますから」
「そうだ…夜刀神様は神無月に稲佐浜に向かわれるんですよね…」
心無しか声に寂しさが滲んだ。
「いえ、行くと言ったって10日もありませんから心配することはありませんよ。どうせ麻多智のことだから、その間に貴女を殺しに行くとでも言ったんでしょう?」
「え、えぇ……その通りです」
「大丈夫、それまでまだ時間はある。晴明殿にしっかり結界を張っていただくことにいたしましょうか。そうすれば安心だ」
夜刀神はそう言ってにっこりと笑う。うっすらと濡れた黒檀の瞳が細くなり、紅を零した唇からは何とも言えない色香が漂っていた。