終
閉ざされた瞼越しに、日光の眩しさを感じた。心地の良い風が体を撫で、草の匂いが鼻を突いた。私は目を開けた。私の視界には、突き抜ける青空が広がり、降り注ぐ陽の光が私の体を温めていた。
私は青々とした茂みに倒れこんでいた。すぐ隣の崖からは、猛烈な風が吹き上げてきている。私は立ち上がった。全身が万力で締め上げられるように痛む。痛みのせいか、私は僅かな嘔吐感を覚えた。
眼下に広がる海はとても落ち着いているようだった。私の耳に聞こえてくるのは、風の音と、静かな波の音だけだ。前方の崖っぷちには、へし折れた木の棒が地面に突き刺さっていた。それを見て思い出した。そうだ、昨晩、北口武志に殺されかけたんだ。
私は崖下を覗いてみた。もちろんそこには北口武志の姿はない。絶壁に打ち付ける波と、海面から突き出た岩があるのみだ。北口武志は、昨日の晩ここから落ちたのだ。生きてはいないだろう。尤も、あれが生きた人間ならの話だが。
私は山道を下った。早く島を出よう。また命を狙われる前に。もはや走ることのできない私は、できる限りの早足で山道を下った。いつの間にか、頭上の木々の間から、灯台の割れたレンズが見えていた。あんなに廃れた姿をしていただろうか。
随分と時間をかけて、ようやく私は山道を下りきった。視界の左右に広かる田んぼには、私の背丈程にまで伸びた草が生い茂っていた。前方に続く一本道にも、アスファルトを押し退け草が顔を覗かせている。私はどれほど長い間眠っていたというのか。
一本道を進むと、右手に野田敬子の家が見えてきた。彼女の家も、田んぼ同様に荒れ果てており、壁が所々崩れかかっている。私は玄関に回ってみた。引き戸は体半分程開けられており、家の中の様子を覗くことができた。崩れた壁から入ってくる、細い光の筋に照らされ、夥しい量の埃が舞っているのが分かる。とても人が住める環境ではない。
私は一本道をさらに進んだ。中野の中心に立っている家々も、野田敬子の家同様に朽ち果てた姿をしていた。窓は抜け落ち、瓦は剥がれ下の地面に瓦礫の山を作っている。玄関横に取り付けられている、小さな郵便受けの中には、茶色に汚く変色している新聞が入っていた。新聞の日付は五年前になっている。
どういう事だろう。まるで、島の時間が五年前に止まってしまっている様だ。確かに、この島に来た時も昔から時間が進んでいないような錯覚に陥ったが、今私の周囲を取り囲んでいる光景は、本当に、物理的に時間が止まっているではないか。私はまだ夢を見ているのだろうか。
半ば放心状態で力なく歩く私の前方の家の脇に、人影のような物が見えた気がした。しかし、すぐにそれは人間ではないことに気付いた。案山子だ。青色のじんべえを羽織った、丸い体型の案山子が突っ立っているのだ。近づいて見てみると、長い間風雨に晒されていたのか、じんべえの色は褪せており、それがより人間らしい味を醸し出していた。腰元には、例の小太鼓をぶら下げている。私が何度も聞いたあの小太鼓の音は、案山子が鳴らしていたというのか。
ふと視線を感じ、隣の家を見てみると、ガラスの抜け落ちた引き戸の窓枠から、誰かがこちらを覗いていた。釘で突かれたように心臓が飛び上がったが、よく見てみると、それもどうやら案山子のようだ。年寄りの顔のように、皺やほうれい線が丁寧に描かれているが、目や鼻はへのへのもへじで描かれている。人間の首に当たる部分には、白いタオルが巻かれており、やはり服装も人間の老婆を似せて作られていた。しかし、この案山子がいるのは家の中だ。一体、誰が何のために作ったのか。
叫びだしそうな衝動を抑えながら、私は診療所へと向かった。何が本当で何が嘘なのか、全く判断が出来ない中で、この抜けるように青い空だけは、本当のような気がした。今日は天気がいい。雲も高い所に僅かに浮いているだけで、海鳥が遥か上空を優雅に旋回している。空だけはいつも私に嘘をつかない。だから、今のこの状況も全て現実なのだろう。そして、私の目の前に建っている、ボロボロに朽ち果てた診療所も、幻想ではなく、現実なのだろう。
私が数日間働いていた診療所は、私の頭の中にあった面影とはかけ離れた姿で建っていた。白く塗装されていた板張りの壁は、腐って崩れ落ちており、かろうじて壁に留まっている板にも汚い苔が生していた。診療所の敷地には、錆びて茶色くなったバンが停まっている。私たちが訪問診療で使っていたものとは思えないほど変わり果てた姿をしているが、私が夜中に野田ヒサノの家に走った際の車体に付けた傷が、錆の上からでも確認できた。私はこの車を運転したのだろうか。しかし、この車はどう見ても動きそうにないのだが。
再び診療所に目をやると、朽ちた壁に寄り掛かるように、錆の酷い白い大きな自転車が停まっていた。その傍らには、一体の案山子が突っ立っている。野田敬子がいつも来ていた白衣を身に纏い、体型や髪形も彼女と瓜二つに仕上げられていた。この案山子が野田敬子だったのだろうか。
私は診療所に入ってみた。カビ臭い臭いが充満しているが、頑丈に作られているのか、他の民家ほど荒れてはいなかった。玄関からまっすぐ進み、診察室の扉を開けた。右奥に置いてある事務机には、寺谷の日誌が、地獄崖と走り書きされたページを開けて置かれていた。私は結局この走り書きに命を救われたのだ。寺谷は全て見透かしていたのだろうか。
日誌の横には、大きな釘が突き立てられた夫婦位牌が置かれていた。表には二人分の戒名が並んでおり、その真ん中に釘が突き刺さっている。裏側を見てみると、寺谷とその妻であるヨネの名前が刻まれていた。ヨネの没日は十年前と記されており、寺谷はその翌年の年号が記されていた。寺谷は九年前に死んでいたというのか。ならば、昨日見た彼の死体は何だったのか。
私は本棚の奥にある小さな扉を開けた。強烈な腐敗臭が目と鼻を突く。やはりいくら探しても電気のスイッチを見つけることは出来なかったが、明るい陽の光が、抜け落ちた壁の板の隙間から差し込んでいるので、昨晩よりも鮮明に小さな部屋の様子を見ることができた。
部屋の中央には、やはり上半身を捻り上げられた死体が転がっていた。目などがハシツツキの餌食となり、見るも無残な姿になっている。しかし、生きていれば八十近い寺谷にしては、この死体は皺も少なく、がたいもいいように思えた。吐き気を堪え、鼻と口を押えながら死体に近づき、縦に引き伸ばされたような顔をよく見てみると、それは紛れもない北口武志の顔ではないか。昨日、私がこの部屋で見たこれと同様の死体も、北口武志だったのだろうか。暗がりだった為に見間違えていたのだろうか。
北口武志が、娘の北口さをりと同じ格好の死に方をしたと言う事は、再び祠を開けたのは北口武志だったと言う事なのか。一体何の為に。いや、それはわかりきっていることだろう。この私を、娘を殺したも同然の私に復讐をする為だろう。現に彼は私を殺そうとしていたではないか。あの時の彼は、やはりすでに人間ではなかったのだ。
呪い、呪われ、また呪い、最期は地獄に落ちるのです。野田ナミ子が詠っていた、彼女の遺言の詩の一節が頭をよぎった。北口武志は、自らの死と引き換えに、娘の仇をとろうとしたのか。しかし、彼は何処で誰に呪いの話を、私と北口さをりが祠を開けたことを聞いたのだろうか。
私の背後、診察室の方から物音がした。振り返ると、そこには酷い顔色をした甘屋光男が立っていた。顔色が酷いというよりも、体全体がセピア色を帯びていて、荒廃した診察室の中に妙に馴染んで見えた。腹部からはやはり血を流している。
「……、……、……日未明、……市にある飲食店で、元警察官の甘屋光男さんが男に腹部を刃物で刺され死亡する事件が発生しました。……刺した男はその場から逃走を図った模様で、警察は、この逃走した男の行方を追っています……。……」
診察室に備えられていたラジオが、突然喋りはじめた。どうやら、本土の街で数週間前に起きた殺人事件のニュースのようだ。被害者の男の名前は、甘屋光男と確かに聞こえた。では、その場から逃走した甘屋光男を刺した犯人は誰なのか。大体察しはつく。甘屋光男は、二十年ぶりに再会した北口武志に呪いの話をしてしまったのだろう。それで逆上した北口武志に殺され、北口武志は私に復讐する為に、再び祠を開いた。そう考えれば辻褄が合う。五年前に捨てられた島で、幻覚を見続けながら生活していた、この信じ難い数日間も、全て仕組まれたものだったのだ。私に当時の記憶を思い起こさせ、犯した罪を認識させるための、北口武志の策略だったのだ。
私は、ふらふらとその場で左右に揺れている甘屋光男の脇を通り、診療所を後にした。特に行く当てがある訳でもないが、一つ確認しておきたいことがあった。私の足は、自然と港に向かっていた。
港に立っている建物は、そのほとんどがコンクリートで出来ており、木で建てられた民家のように壁が剥がれている様なこともなかった。しかし、窓は全て割れ、壁には無数の蔦が登っている様子は、やはりこの建物も廃墟であることを物語っていた。
船着き場には、私の知っている連絡船の成れの果てのような物が停まっていた。外装の鉄板には酷く錆が浮き、表面の塗装を捲り上げている。連絡船は、無数の太いチェーンのようなもので、港にしっかりと繋がれており、船の碇は巻き上げられた状態で船体の傍らにぶら下がっていた。しかし、その碇には上野の死体はいなかった。やはり。そもそも、私には、上野という名の上司はいない。今更になって気付いたところで、どうでもいい事なのだが。
私は空を見上げた。太陽が私の真上辺りにあると言う事は、今は昼頃なのだろう。島にある時計は、壊れているのか全て止まっており、時間の感覚が麻痺してしまっている。
空には無数の海鳥が飛んでいた。漁師が居なくなり、この港にはもう魚が揚がることはないのだが、そのことを未だに理解できないでいるのだろうか。物悲しく鳴く海鳥の声が、野島の泣き声の代弁のように聞こえた。
ふと、外野の方角に黒煙が上がっているのが見えた。人がいるのだろうか。行って確認してみたい気もあるが、車がない今の状況では、少し遠すぎるようにも思える。しかし、私は行ってみることにした。時間がないと急いていた昨日までとは違って、今の私には有り余るほどの時間があるのだ。少なくとも、そのように感じているのだ。
黒煙は、野田ヒサノの家の庭から上がっていた。私は、野田ヒサノの家に通じる急な坂を上った。随分と長い時間をかけて外野まで歩いてきたが、不思議と疲れは感じなかった。あれほど痛んでいた左足も、今はその鳴りを潜めているようだ。空に浮かぶ太陽は、港で見た時よりも、僅かに西に傾いていた。まだまだ陽は高い。
野田ヒサノの家も、他の家と相違なく朽ち果てているようだった。とても人が住めるような佇まいではない。私が見た野田ヒサノもまた、案山子だったのだろうか。
家の庭には、一機のヘリが墜落していた。周囲に生えていた草を一通り焼いたのか、ヘリの残骸の周囲の庭だけ禿げ上がっている。ヘリの外壁には、消防本部、の四文字がかろうじて読み取れた。間違いなく、私が要請したドクターヘリだろう。ヘリの傍らの焼野原には、丸焦げになった死体が、二体転がっていた。この二人は、私の幻想に付き合わされて死んだのだ。気の毒に。
ヘリの残骸越しに見える茂みに、私がいた。いや、あれは野田ナミ子だ。野田ナミ子が立っている。相変わらずの力強い眼差しで、私の事を凝視している。
不意に手が握られた。この感触は、北口さをりだ。
「一緒に行こう」
私の傍らで、北口さをりが呟いた。一緒に行こう。一緒に。一緒。
私は全てを悟った。北口武志の言葉を思い出したのだ。
一緒に来てやってくれないか? さをりも、陽子ちゃんがいないと安心して天国へ行けないと思うからさ。
そうだ。北口武志は、私を復讐のために殺そうとしたのではない。娘が、北口さをりが無事天国へ辿り着けるよう、私を彼女のもとへ送ろうとしたのだ。彼の願いは、呪いは、北口さをりの成仏だったのだ。私の記憶を彷彿させるような今までの出来事も、全て北口さをりを思い出させる為だったのだ。彼女が寂しくないようにと。
私たちの周囲から、小太鼓の大合唱が聞こえてきた。それは徐々に数を増していき、遂には私達を包囲してしまった。鳴らしている主は見えないが、重なり合うように押し寄せてくる音波が、私の意識を揺さぶってくる。酷い立ち眩みを覚えた私は、その場でふらつきながらも、何とか意識を保とうとした。
前方にいる野田ナミ子が、私の方へと音もなく平行に移動してきた。途中にあるヘリの残骸をすり抜け、みるみるその影は、私の前に大きく迫ってくる。北口さをりが、私の手をぎゅっと握った。
先程まで陽は高かったというのに、野島はいつの間にか、紅い夕日に照らされていた。




