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AZUKI TWILIGHT  作者: 壇希
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 既に太陽は沈み、辺りは暗く静まり返っていた。夜空に浮かぶ満月には、うっすらと雲が差しており、月明かりを半減させている。暗く沈んだ港には、何らいつもと変わった雰囲気はなく、ただ静寂だけが流れていた。今朝方にここで人が死んでいた事など嘘のようだ。ふらつく足で港に降り立った私を、野島の冷たい風が出迎えてくれた。私が降りると、別れの挨拶もなく、海上タクシーはすぐに本土へと戻っていった。思えば、帽子を深くかぶり、終始一言も会話がなかった。愛想が悪いというよりも、不気味な運転手だった。

 上野は死んだ。本土の警察の調べによると、上野はこの数日間行方知れずになっていたらしい。死因は溺死。詳しい死亡時刻は不明だが、長い間海の中に沈められていたそうだ。意識のないときに碇に縛られ、海に沈められた、というのが警察の見立てのようだが、体には特に外傷はなく、胃袋の中にも大量の海水以外に何も入っていなかったらしい。外からの衝撃でも薬物でもないとすれば、犯人はどうやって上野の意識を失わせたのか。意識のある上野の体を、何も抵抗されることなく碇に縛り付けたというのか。しかし、普通の人間なら不可能だろうが、野田ナミ子にとっては容易いことなのだろう。船の甲板をすり抜けることが出来るくらいなのだから。

 私は、暗い中野の町を自宅に向かって歩いた。今日はゆっくりと寝て、明日の朝一番で島を出よう。東京に帰ろう。上司が殺されたのだ。これ以上にない緊急事態なのだから、野田敬子も分かってくれるだろう。私がいなくなった後、すぐに新しい医者が来れるように手を尽くそう。私はもうこの島にはいられない。

 大学病院の人は、上野が死んだ知らせを受けているのだろうか。もし受けていたとしたら、私宛に診療所に電話を掛けていただろう。しかし、私は今日一日本土の警察署に缶詰めにされていた。野田敬子はちゃんと対応してくれただろうか。

 ふと、中野の町が真っ暗なのに気付いた。明かりのついている家が一つもないのだ。いつもひっそりと静まり返ってはいるが、民家から漏れる明かりを通して人の気配を感じることができていた。しかし、今は民家はもちろん、道端に突っ立っている街灯にすら明かりが灯っていないのだ。一体どうしたというのだろう。停電だろうか。

 私の前方に診療所が見えてきた。いつも以上に静まり返って見えるのは気のせいだろうか。薄暗い月明かりの中、ぼうっと浮かび上がるように見える診療所の脇を通り、私は自宅へと向かった。

 診療所の裏手へと周ると、私は妙な違和感を感じた。何かが違う。その何かはすぐに分かった。診療所の裏の壁面にへばり付いていた、大きなハシツツキの巣が剥がれ落ちていたのだ。大きな巣は、その形を崩すことなく前のめりに地面に落ちていた。倒れた巣の下からハシツツキの雛が顔を覗かせていた。どうやら死んでいるらしい。おそらく、大きくなりすぎた雛の重みに、巣が堪えられなくなったのだろう。にしても、大きな雛だ。普通の雛の三倍の大きさはあるだろう。一体この雛は、何を食べていたのだろうか。

 診療所の壁面に目をやると、剥がれ落ちた巣の形状に、壁面の木の板が変色しているのが、薄明かりの中確認できた。湿気を多く含んだ土で作られている巣が長時間密着していたため、その部分の木が腐食しているのだろう。私は、その腐食した木の真ん中辺りに、拳程の大きさの穴が開いているのを見つけた。位置的に、この壁は診察室の正面に当たる。しかし、診察室の中にはそんな穴はなかった。

 私は、診療所の裏手の壁面をすべて視野に入れ、頭の中に描いた診察室のイメージと重ね合わせた。そして気づいた。この穴の裏には、あの邪魔な本棚がある。だからわからなかったのだ。机の書類が独りでに宙を舞ったのも、この穴を通って風が吹き込んでいたためだ。

 しかし、穴の奥を覗いてみると、真っ暗ではあるが、何か空間が広がっているらしく、本棚の裏で塞がれている訳ではないようだ。とすると、あの本棚の裏にさらに部屋があるということになる。何故、部屋の前に本棚を置いたのか。私は、診療所の正面へと再び回り込み、診療所へ入った。診察室の扉を開けると、正面に本棚がある。女一人の力で、何とか横にずらしてみると、果たして、そこには小さな片開きの扉があったのである。

 私は、この小さな扉の向こうから発せられる、どろどろとした不吉な予感を感じずにはいられなかった。私の脳裏に、北口武志の鳴き声のような悲鳴が反響している。今朝方に港で感じた、既視感のようなものに、私の体や思考は支配された。この先にいるのか。心の中で問いかけた私の手は、独りでに扉のノブを掴んだ。

 一体、誰がこの扉の向こうに待っているのか。それに対する答えは、既に私の中では出ているようだった。そして、それがどのような姿で待ち受けているかも。何かの電波を一方的に受信し続けるように、私の脳裏は独りでに、見たこともないようなイメージを描き上げていく。徐々に描かれていく恐ろしい想像を振り払うには、扉を開けて、現実の光景を確認するしかない。大丈夫、何もいるはずがない。そう私は何度も繰り返した。私の右手は、ノブを固く握ったまま動けないでいる。何もいるはずがない。私は再度己を励ました。しかし、私のその願いは、私にとっては絵に描いた餅であった。私の脳裏に巣食った想像は、既に確信を伴って私を支配していた。目を背けようにも、瞼の裏に焼き付いたその光景からは、どうやっても逃れることはできなかった。半ば諦めのような感情を抱きながら、私はゆっくりと小さな扉を開けた。

 扉を開けた途端に、カビの酷い臭いと、肉が腐ったような臭いが鼻を強く突いた。これほどの臭気が、薄い扉一枚挟んだ隣室に漂っていたのに、なぜ今まで気づくことができなかったのか。思わず私は咽せ返った。片手で鼻と口を押えながら、部屋のスイッチをもう一方の手を這わして探したが、何処にもスイッチらしきものはない。仕方なく、診察室から漏れる明かりを頼りに室内を見回した。狭い部屋だ。入って正面の壁には、拳大の穴が開いている。穴の奥には私の自宅も見えていた。そして、狭い部屋の中央の床にそれは横たわっていた。それは、顔を歪め、上半身を捻り上げられており、もはや原形を留めていたかった。

 顔や足の至る所に、箸で突き刺したような穴が開いている。診療所の裏に巣食っていた、ハシツツキの仕業だろう。ハシツツキは雑食性だ。動物の死骸でも好んで食らう。ハシツツキは、その鋭く細長い嘴を死肉に突き刺して捕食し、その痕が箸で突き刺したように見えることが、名前の由来になっている。特に目などの柔らかい部位は捕食しやすいようで、それの目も眼球を食い尽くされており、ただの赤い窪みと化していた。巣が剥がれ落ちるほどに雛が肥えていたのは、この為だったのだ。

 私の片隅に残っている記憶と、原形を失ったそれに、僅かに残る面影が、それが寺谷の変わり果てた姿であることを物語っていた。私は怯える膝を引きずりながら部屋を出た。私がこの診療所にやってきた時から、既にこの部屋には寺谷の死骸が転がっていたのだ。おそらく野田ナミ子の仕業なのは間違いないだろう。こんな事、人間の成せる業じゃない。では、何故殺されたのか。言うまでもなく、私をこの島に呼び戻す為だろう。もう野田ナミ子はすぐそこにまで迫っている。私はそう直感した。

 診察室の隅に置かれた机の上で、紙の捲れる音がした。見ると、寺谷が付けた祠の観察日誌が、空白のページを広げて置かれている。いや、空白ではない。小さく走り書きで、地獄崖と書かれてある。確かに箱に仕舞った筈なのに、一体誰が。いや、そんな事どうだっていい。地獄崖は、寺谷が私に残した、そして私に残された唯一の手掛かりだ。目前に迫った野田ナミ子から逃れるには、これに縋るしか道はない。

 私は、診療所の入り口の壁に引っ掛けられている懐中電灯をひったくり、診療所を飛び出した。診療所の外は、先程までの様相を一変させていた。風が吹き荒れ、吹き上げられたゴミや廃材が宙を舞っている。分厚い雲が月を覆い隠し、私の周囲は漆黒の闇に包まれていた。怖気づいている暇はない。私は懐中電灯のスイッチを入れ、地獄崖へと走った。

 私の行く手を阻むように、暴風が真向から吹き付けてくる。私は何とか身を躱しながら、六区の寂しい一本道まで辿り着いた。道の周囲には風を遮る物が何もなく、前後左右からの暴風が容赦なく私を襲ってくる。横殴りの風によろめきながらも、何とか前へと足を運ぶ。しかし、道の中程まで進んだ所で、疲れ切った私の足は何かに蹴躓いてしまった。私の体は前方へとひっくり返り、懐中電灯を強く握っていた為にうまく受け身が取れず、肘で体を受け止めた私は、そのまま地面を横に一回転した。

 肘に響いた鈍い痛みを堪えながら、私は体に着いた砂を払い落とし、背後の地面に懐中電灯の明かりを向けた。懐中電灯の丸い明かりの中にあったのは、腹から夥しい血を流し横たわる、甘屋光男の姿だった。土色をした顔から生気は感じられず、出血の量から見ても、もう命は尽きているだろう。腹には、刃物で刺されたような傷跡が何個所にも出来ていた。相当強く突き刺されたようで、ぱっくり開いた傷の奥には、内臓を通り越して背骨が顔を覗かせていた。目の前に横たわる甘屋光男の死体が、迫り来る野田ナミ子の存在を痛感させた。急がなくては。

 私は再び立ち上がり、地獄崖へと走り出した。打ち付けた肘は痛むが、走るのに支障はないようだ。私の前方には、地獄崖へと続く、木々のトンネルと化している山道が、その入り口を開けて佇んでいた。周囲の闇の、その数段上を行く闇が入り口の奥に広がっている。懐中電灯を向けても、光が闇に飲み込まれてしまう。私は息を切らせながら闇へと飛び込み、脇目も触れずに山道を駆け登った。

 無我夢中で走り続け、体力の限界を迎えた頃には、地獄崖がもう目の前の所まで辿り着いていた。その場でしばらく息を整え、痛む肘を押えながら、私は地獄崖へと再び足を踏み入れた。

 海原の彼方から吹き荒ぶ、潮風の勢いは凄まじく、踏ん張っていないと後ろに押し戻されてしまう。視界には暗闇が広がっているだけで、周囲には一つの光も見えない。私は、懐中電灯を足元に向け、足を踏み外さないよう注意しながら、周囲の様子を窺った。しかし、暗闇であること以外は、別段昨日と違った所は見受けられない。やはり此処には何もないのだろうか。

 ……?

 吹き荒ぶ風の轟音の中に、微かに男の声が聞こえた。それは、お経を読むような低い声で、私の背後から聞こえた。私は振り返り、後方に明かりを向けたが、他に誰かがいるような気配はない。いや、聞こえる。暗く沈んだ山道の奥から、微かに、こちらに歩いてくる足音が聞こえる。風を切る音に掻き消されそうになりながらも、徐々に、確実にこちらに近づいてきている。私は思わず後退りしたが、私のすぐ後ろは、目には見えないが断崖だ。私に逃げ場はない。足音はもうすぐそこまで来ているようだ。私は明かりを山道に向けた。明かりの先端が小刻みに震えているが、自分ではどうしようもない。私は覚悟を決め、身構えた。

 徐々に、山道を登ってきた者の姿が見えてきた。まず頭が見え始め、登ってくるにつれ、肩や胴が懐中電灯の明かりの中に入ってきた。明かりに照らされている筈なのに、その姿は灰色がかっていて、何故か焦点がぼけたように二重に見える。やがて、足先までその姿を見ることができた。懐中電灯の明かりに照らされながら、私の正面に立ち尽くし、私の事を力のない目でぼうっと眺めている。山道を登ってきた者の正体は、寺谷だった。

 寺谷は呆然と立ち尽くしたまま動こうとしない。寺谷は診療所の中で死んでいたのだから、今私の目の前にいる彼は亡霊ということになるのだろう。私に危害を加えるような、そんな様子は見受けられない。それでは、一体何のために私の前に現れたのか。

 寺谷の背後で再度音がした。咄嗟に身構えた私に、寺谷の足元をすり抜け、走り寄って来た何かが飛びついてきた。どうやら、それは犬のようだった。飛びつかれた私は、思わず後ろに仰け反りかけたが、何とか堪え、尚も私の手元で暴れる犬を払い除けた。

 私の心臓が、これ以上ない程に早く鼓動している。全身から冷汗が噴き出てきた。私の背後から吹き上がってくる潮風が、汗に濡れた私の体を乱暴に冷やした。私に払い除けられた犬は、情けない声で吠えながら、山道の向こうへと退散していった。一瞬しか見ることは出来なかったが、どこかで見たことのある犬だった。そして、あの飛びつかれた感覚にも覚えがあった。もしかしたら、あの犬は、寅次郎だったのだろうか。

 私は再度寺谷に目を向けた。先程と変わらず、力のない目でこちらを眺めている。彼は、私に何かを伝えに来たのだろうか。だとしたら、彼の後ろから飛び出してきた寅次郎が、それの代弁という事なのか。

 私と北口さをりが祠の扉を開けようとした時、寅次郎は飼い主である北口さをりの足首に噛みついた。それを引き離そうとした私に、寅次郎は先程のように飛びついてきたのだ。幼い私はそのまま押し倒されてしまい、なかなか寅次郎を振り払うことができなかった。そして、祠の扉は開かれた。

 ……そうだ。扉を開けたのは、北口さをりだった。厳密にいえば、私も開けようとしていたのだが、結果として開けたのは北口さをり一人だった。私はその場に居合わせただけだった。ということは、私は呪いを受けていなかったことになる。扉を開けた北口さをりは、開けたことに対する呪いによって死に、塔乃ユキ子は、彼女の呪いに野田ナミ子が応えて殺された。そして、私を悲しませる原因となっていた私の父も、彼女の呪いの対象だったということか。

 私に呪いは掛けられていなかった。それならば、何故私はこの島に呼び戻されたのか。何故上野や寺谷は死んだのか。しかも、私に記憶を思い起こさせるような格好で。

 私の正面に佇む寺谷が、その体をゆっくりと揺らし始めた。徐々にその速度が増していき、遂には上半身が回転を始めた。まるで、コマ送りの映像を見ているように、寺谷の上半身が見る見るうちに捻り上げられていき、やがて、音もなくその場に倒れた。役目は終えた。そういう事だろうか。

 私は力なく歩き出した。突っ伏した寺谷の脇を通り、とぼとぼと山道を下り始めた。私は呪いを受けていなかった。そのことを伝えるために、寺谷は私を地獄崖へと誘ったのか。しかし、私のせいで北口さをりや、塔乃ユキ子や、父が死んだ事実が覆ることはない。ましてや、私だけが呪いを受けることなく、今までのうのうと生き永らえていたことになる。それに、私に呪いが掛かっていなかったのならば、何故自分があんな無残な死に方をしなければならなかったのか。彼は教えてくれなかった。教えることができなかったのか。教える必要がなかったのか。

 気づくと、私は度胸崖との分岐点にまで山道を下っていた。私はこれからどうするべきか。無論、この島には居ることができない。明日の朝に帰るつもりなのに変わりはない。その後は、自分に呪いが掛けられていないことが分かったのだから、これまでのように呪いを恐れながら生活する必要はない。今までの人生と比べると、随分と気が楽になるだろう。しかし、私の背に乗った罪の重みは、これまでの何倍にも膨れ上がるだろう。私は、その重みに耐えることは出来そうにない。

 ふと、私は違和感を感じた。周囲にある筈のものがないのだ。いつも頭上に走っていた、光の筋が通らないのだ。灯台が動いていないのか。しかし、私が野島に着いたころには、確かに停電していたようだが、既に二時間近く経っている。まだ復旧できていないのか。それに、灯台の明かりは船の航行に必要不可欠なものだ。動いていないとなると、海上保安庁などが飛んで来る筈ではないか。そんな様子も全く見受けられない。

 更に、私は不可解なことに気付いた。私が帰って来た時、野島は停電していた。しかし、私は診療所で電気をつけていたではないか。何故今まで気づかなかったのだ。電気が来ているとなると、何故灯台が動いていないのか。私は度胸崖へと歩みを進め、灯台を見上げた。灯台の頂辺に備えられた大きなレンズは、暗く沈んだままだ。確かに動いていない。そればかりか、灯台の外壁にはひびが入り、下からは蔦が登っている。何故、保安管理がなされていないのか。私は、灯台の根元に絡みついている蔦を千切った。蔦は枯れ果てており、随分と長い間放置されていたことを示していた。

 ……?

 私の遥か後方で、何かが動く音が聞こえた。今度は、寺谷の時と明らかに違う、鬼気迫ったような、緊迫した雰囲気を伴っていた。私の体は、瞬時に全身の筋肉が硬直し、体中の毛穴という毛穴が荒々しく呼吸を始めた。毛穴が息を吐き出すたびに汗が噴出し、冷たい外気に冷やされ、私の体から体温を奪っていく。私は、体にドライアイスを押し当てられたような、痛みを伴う凍えを感じ、凝固した体は、身構えることすらままならなくなった。

眼下にそびえる岩肌を、砕かんばかりに打ち付けていた荒波の轟きが、天敵の気配に感づいた、小兎の如く息を潜めている。こんな時間に、こんな所に人がいるわけがない。何者かはわからないが、灯台の修理に来た人間なら、もう少し物音や声がするだろう。何者にせよ、音がした距離からして、まだ大分離れた所にいる筈だ。逃げるなら今しかない。

 私は意を決し、絶壁に背を向けた。しかし、物音の主は、常識の通用する相手ではなかった。

 振り向いた私の鼻先に触れんばかりのところに、そいつは顔を近づけていた。濃い闇の中、全体像を見ることはできなかったが、色白で、頭の頂辺まできれいに剃り上げられた、スキンヘッドの顔が目前に迫っていた。これでもかという程に目を見開き、それとは対照的に、顎を砕かれた猫のように、口は半分ほど開かれ、涎が口の端から垂れていた。笑っているようには見えなかった。かといって怒っているようでもなく、目尻が裂けんばかりに目を大きくして、ただ私を見つめているようであった。

 しかし、それは一瞬のことだった。私と目が合った途端に、そいつは顎が外れんばかりに口を開き、歯を剥き出しにして絶叫した。そして、私の体を信じられない力で突き飛ばした。体が宙に浮くのと同時に、私の視界には丸く輝く月が飛び込んできた。視界の中心に捉えた、月の明りがみるみるうちに小さくなっていく。しかし、今晩は曇りだ。分厚い雲が地上と月とを遮っている。私の遥か前方にあるあの灯りは、月ではなく灯台のものだろう。いや、灯台も今晩は動いていない筈だ。ならば、何なのか。体が重力に引っ張られ、みるみる加速していくのが感覚でわかる。背中に強い風圧を感じる。着水する寸前に、遥か頭上にある月の正体が判った。あれは、スキンヘッドの頭だ。スキンヘッドの頭が、ぼうっと青白く光っているのだ。そして、あの顔には見覚えがあった。北口武志だ。

 意識が遠のきかけた時、背中から凄まじい衝撃を受けた。冷たい海水が容赦なく顔面に流れ込んでくる。不思議と痛みはなかった。その代わり、衝撃の反動で、私の意識は遥か頭上の灯台を飛び越え、どす黒く分厚い雲を貫き、さらにその上空の彼方へと飛んでいった。


 此処はどこだろう。私の周囲には、見覚えのない光景が広がっているが、どうやら大きな駅のホームに立っているようだ。ホームの上には沢山の人が行き来していて、私の横を通る人が、時折肩をぶつけてくる。しかし、こんなに人がいるにも関わらず、ホームの上は静寂に包まれており、行き交う人々の表情も、どこか陰鬱としていた。ホームを叩く靴音だけが聞こえてくるばかりで、話し声ひとつ聞こえてこない。酷く場違いな所にいるな。五月蠅く脈打つ私の体は、ホームの上で一人突出しているように感じた。

 突然ホームに電車が入ってきた。到着のアナウンスもなく、電車の騒音も聞こえて来なかった為、突如視界に入ってきた電車の影とその風圧に、私は少しばかり鼓動を弾ませた。電車が止まり、両開きの扉が開くと、周囲の陰鬱な人々は当たり前のように電車に乗り込んでいく。何のアナウンスも無いのがこの駅の日常の風景なのだろうか。

 電車にはホームにいた人の半分程が乗車した。ホームに残った人達は、反対側の線路で電車を待っているようだ。見渡してみると、大きなホームではあるが、やってくる電車は、今来た電車とその反対側へ向かう電車のみのようだ。私の後方には、上へ続く階段があった。そこからも続々と人が降りてきている。私も、あそこから降りてきたのだろうか。あの階段はどこに繋がっているのだろうか。

 不意に右手を掴まれた。冷たく小さな子供の手だ。もう何度も夢の中で掴まれた、あの手の感触だ。私の傍らには、案の定北口さをりの姿があった。私の腰程の背丈しかない彼女は、無垢な表情で私の事を見上げている。

 「一緒に行こう」

 彼女は口も動かさずにそう言うと、私の手を引き、ホームに停まったまま動こうとしない電車に向かって歩き出した。私は手を引かれるがままに着いて行く。私たちが動き出したのを見計らったように、電車の下から大きな機械が動き出したような音が鳴り始めた。出発の準備を始めたのだろうか。この電車は、私達の事を待っていたのだろうか。

 北口さをりに手を引かれ、ホームの端まで来た辺りで、急激に周囲の景色が白みがかってきた。目に見える景色が瞬く間にモノクロと化していき、握られた手の感覚が薄くなってきた。それと同時に、凍えるような寒気が私の体を包み始めた。ふと髪の毛がじとっと濡れていることに気付いた。周囲の景色は次第にフラッシュアウトしていき、仕舞いには真っ白な空間になってしまった。割と近くから、寄せては引いていく波の音が聞こえる。と、今度は周囲の景色が暗闇に一変した。相変わらず波の音はしているが、何も目に見えない。いや、私が目を閉じている為か。


 目を開けた私は、自分が砂浜に打ち上げられていることに気付いた。目を開けても暗闇であることに変わりはなかったが、仰向けに倒れていた私の頭上には、そびえ立つ絶壁が、黒いシルエットで浮かび上がっていた。私の左側には、少し突き出た格好の絶壁のシルエットが見える。崖の上には灯台の灯りも見える。度胸崖だ。そうだ、私は度胸崖の上から突き落とされたのだ。

 押し寄せる波が私の体を舐めた。恐ろしいほどに海水は冷たいが、幸いにも波はそれほど高くなく、横たわる私の顔に覆い被さる程ではなかった。私の全身を一通り舐めた波が、引き波となって私の下の砂を気持ち悪く浚っていく。

 くぐもった様に麻痺していた全身の感覚が、徐々に戻ってきた。それと同時に、両方の肩甲骨の辺りと、左の足首に鋭い痛みを感じた。骨折ではないだろうが、もしかしたらそれに近いぐらいに損傷してしまっているのかもしれない。私は身をよじり、痛みを堪えながらなんとか上体を起こした。すると、遥か頭上に見えていた灯台の明かりが、奥に引っ込んで見えなくなってしまった。いや違う。灯台は動いてなんかいない。あれは、私を突き落した北口武志だ。私が生きているのを知って、止めを刺しにここへ来るつもりなのだ。

 私はよろけながら立ち上がった。左の足首に痛みが走るが、ぐずぐずしていると北口武志に追いつかれてしまう。足を引き摺ってでも逃げないといけない。

 度胸崖の下に広がる砂浜には、上へと上がる階段が一ヶ所だけ備えられていた。その階段を上ると、六区に出ることができた筈だ。私のいる砂浜からなら、階段はすぐそこにあるが、度胸崖からでは、山道を大きく迂回しなければならない。しかし、足を引き摺っている私にとっては、暗闇の中薄らと前方に見えている階段に辿り着くことでさえ至難の業だ。このままでは追いつかれてしまう。

 やっとの思いで六区へと続く階段に着いた私は、手摺に縋りつきながら一段一段上り始めた。この階段の先の六区には、野田敬子の家がある。彼女に匿ってもらう他、助かる道はない。

 いつの間にか、吹き荒れていた風は弱まっていた。依然として、夜空には無数の雲が浮いているが、それぞれが豪猪のように適度な距離を保ち、その隙間から時折月が顔を覗かせている。階段を上り終えた私の前には、月明かりに薄らと照らし出された六区の景色が広がっていた。これなら、懐中電灯を失った私でも歩けそうだ。

 田んぼと田んぼの間の、人一人がやっと通れるような畦道を通り、地獄崖へと続く舗装された一本道へと抜けた。野田敬子の家は、この一本道を挟んだ向かい側にある。もう目の前だ。しかし、一本道の先から聞こえた物音が私の足を止めた。道の先へと目を凝らしてみると、薄明かりの中、人影が右へ左へ、ゆらりゆらりと揺れている。北口武志だろうか。

 その人影は私に近づいてくることなく、その場で忙しなく動き回っているようだった。北口武志のように、体が発光している様子もない。暗闇に目が慣れてきた私は、次第にそれが何であるかを理解してきた。踊っているのだ。なんという踊りかはわからないが、ゆったりとしたテンポで、古臭い動きの踊りを男が踊っている。甘屋光男だ。腹から血を流し、白目を剥いた甘屋光男が一心不乱に踊っているのだ。甘屋光男が動く度に、足元の血溜まりを踏みつけ、ぴしゃりと気持ちの悪い音を立てていた。

 甘屋光男は私に襲い掛かってくるつもりはないようだ。それでも、踊り狂う死体の側を通る気にはなれない。私は、野田敬子の家の横に広がる、広い田んぼを突っ切り、野田敬子の家へと辿り着いた。野田敬子はもう眠りに就いているだろうか。ノックをしようと引き戸に手を伸ばすと、戸が内側から、体半分程開かれた。

 私の目の前には、開いた戸の隙間から、体を半分だけ見せた野田敬子がいた。眉を吊り上げ、目を大きく見開き、口は横にいっぱいに開けられていた。横長に開かれた口からは、食いしばった歯が見えており、唾液で濡れた歯が月明かりに照らされ、ぎらぎらと気味悪く光っていた。口の両端からは、気泡混じりの唾液が飛沫を飛ばしながら漏れ出ており、気持ちの悪い音を立てている。昨日の昼間に、老婆の家で聞いたあの音だ。

 野田敬子は、私と鼻先が触れんばかりの所で向かい合っているというのに、それ以上何をしてくる事もなかった。笑っているような、お道化ているような顔で、私に視線を合わせたまま微動だにする事もなかった。耐えられなくなった私は、半歩ほど後ずさった。認めたくはなかったが、やはり野田敬子はおかしくなっていたようだ。おそらく昨日の時点で、既に正気を失っていたのだろう。私の目の前にいる野田敬子は、もはや私の味方になってくれることはない。そう思うと、急に絶望が胸の奥底から湧き出してきた。私はこの島で一人なのだ。

 地獄崖の方から、何者かが一本道を走ってきた。甘屋光男かと思ったが、死体にしては足音に躍動感がある。私は、依然として戸の隙間から体を半分出している野田敬子を残し、彼女の家の物陰に身を潜め、様子を窺った。

 足音が徐々に近づいてくる。そして、私の正面の道を、体をぼんやりと光らせた男が横切った。北口武志だ。私の事を捜しているのだ。私は、野田敬子が声を上げるのではないかと気が気でなかったが、北口武志はこちらに気付くことなく、中野の中心へと走り去っていった。

 一先ずは切り抜けることができた。しかし、ここに隠れていてもいずれは見つかってしまう。その前に動き出さなければならない。中野の町中に潜み夜明けを待つか、山道の木々に身を潜めるか。私は後者を選んだ。中野の町中では、見通しが良すぎる気がしたからだ。北口武志の姿を逸早く見つけることができるということは、向こうにも私の姿が筒抜けということだ。それならば、暗闇の中視界が全く利かない空間に身を置くほうが、幾分か気を楽に保てるだろう。尤も、今の北口武志に人間の常識が通用するかどうかはわからないが。

 私は物音を立てないよう動き出した。玄関の前を通ると野田敬子と目が合ってしまうので、家の裏側を回り、隣接している広い田んぼを突っ切り、未だに踊り続けている甘屋光男を尻目に山道の入り口を目指した。

 背後の遥か向こうで物音が聞こえた気がしたが、気にせず先を急いだ。わざわざ目で見なくとも、音の正体は大体察しが付く。気にしているような余裕など私にはなかった。そして、遥か後方から、度胸崖で聞いたものと同じ、劈くような絶叫が聞こえた。既に山道に差し掛かっていた私は振り返り、北口武志との距離を確認した。北口武志は、一本道の向こう、踊る甘屋光男の死体の更にずっと向こうで叫んでいた。相当な距離がある。彼の体が発光していなければ、姿を確認することもできなかっただろう。それでも私に気付いたということは、やはり人間の常識等彼には当てはまらないようだ。

 北口武志が動いた。腕を大振りに前後に振り、その反動を利用して体を前方に倒し、左足を振り上げた。まるで一連の動作にスローモーションが掛かったように見えた。北口武志の左足が地面に着くのと同時に、私も前方を向き直し、山道を全力で駆け登り始めた。左の足首に悲鳴のような痛みが走ったが、足を止める訳にはいかない。左右から飛び出した小枝が顔面を叩き、頬に切れたような痛みが走ったが、気にしてはいられない。夜空では、いつの間にか月が完全にその姿を現していた。

 後方から聞こえる足音が徐々に近づいているような気がする。そんな気配が、跳び上がる程に脈打っている心臓と共鳴して、私に焦燥感を募らせていく。横の茂みに身を隠そうか。そんな考えが頭をよぎった。

 「おーい」

 突然頭上から男の声がした。聞き覚えのある声だ。

 「がんばれー、もうちょっとだぞー」

 見上げると、甘屋光男の顔をした、大きな鳥が私の頭上を周回している。いや、鳥の体をした、甘屋光男というべきか。

 「地獄崖から飛び降りろー。楽になれるぞー。がんばれー」

 私は無視して山道を走った。あんな幻覚に構っている暇はない。

 しかし、深手を負った私の足は軋み、次第に言う事を聞かなくなっていき、ついには何もない所で躓いてしまった。

 前に倒れこんだ私の、横倒しになった視界に、一匹の猫が映った。猫は、私の鼻先まで近づくと、捲し立てるように早口で、

 「死ぬときは上を向いていないとダメだからね。何なら私が最期まで付き添ってあげようか?」

 よく見ると、その猫は野田敬子の顔をしている。いや、野田敬子の体が猫になっているというべきか。私は、その気味の悪い猫を払い除け、軋む足に鞭打って立ち上がった。後方から聞こえる足音は、更に近づいている。先に進むしかない。

 前方に地獄崖が見えてきた。既に寺谷の死体は消えていた。本物の死体は診療所にあったのだ。あの死体も亡霊なのだから、消えていても不思議はない。私は地獄崖の先端に立ち、崖下を見下ろした。甘屋光男は、飛び降りたら楽になれると言っていた。もしそれが本当なら、疲弊しきった私の体は、目の前にある快楽に私の思考を無視して飛びつくだろう。しかし、そんな自ら敗北を認めるような真似はしたくない。徐々に足音が迫ってくる。私はこの足音の主と対峙しなければならない。負ける訳にはいかない。足音はもうすぐそこまで来ている。対峙しなければならない。

 もしかしたら、この足音は北口武志ではないのではないか。そんな考えが、ふと私の頭をよぎった。この足音は寺谷のもので、伝え忘れか何かがあって、また私の前に現れたのではないか。しかし、そんな私の妄想は、次の瞬間に私の目の前に現れた北口武志に吹き飛ばされた。

 北口武志は私の正面にいた。そして、両肘を後ろに振り上げると、一点に前を見つめ、助走の勢いを利用して、全身の力を込めるように、背中を突き飛ばした。口から飛び出さんばかりに、私の心臓が躍動した。


 べきっという、木の棒がへし折れる音が響いた。北口武志に突き飛ばされた案山子の足が折れたのだ。北口武志は、体勢を大きく崩した、所謂死に体の格好で、横の茂みに身を縮めていた私のほうを振り向いた。血走った目は、度胸崖で見たそれよりも、さらに大きく見開かれており、明らかに驚愕した表情をしていた。踏ん張ることができない北口武志は、助走の勢いに抗うことができず、体が宙を飛んでいるように見える。スローモーションを見ているような感覚だった。一泡吹かせてやった、という表現が正しいかどうかはわからないが、北口武志は一泡吹く間もなく、私とよく似た案山子とともに、地獄崖の下へと吸い込まれていった。

 私は全身の力が抜けていくのを感じた。身を縮めたまま立ち上がることができず、そのままの格好で横に倒れてしまった。興奮が途切れたせいか、痛みが全身から脳に這い上がってきた。

 勝った。これで全て終わったかどうかはわからないが、一先ず私は勝ったのだ。

 意識が遠退いてきた。本能的に、私は体を起こし意識を保とうとしたが、全身が軋むように痛み、起き上がることができない。大丈夫、北口武志はもういない。危機は去ったのだ。私は自分にそう言い聞かせ、遠退いて行く意識に抗うことなく、両瞼を閉じた。

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