3
私は、真っ暗闇な空間に立っていた。視界がほとんど効かないせいで、奥行や高さがどれほどある空間なのか見当もつかなかったが、風の吹く音はすれども、体に風を感じることがないことから、外とは隔たれた空間にいることは確かなようだ。歩き回って探索するなんてことは、怖くて出来そうもない。鼻の先に何があるかもわからないような、それほどの暗闇なのだ。私は、恐る恐る両手を前の空間に差し出し、空中を掻き回した。両手は何に触れることもない。続いて、両手をゆっくりと後ろに回した。すると、すぐに冷たい壁が指先に触れた。どうやら、私は壁際に立っているらしい。だんだんと目が暗闇に慣れてきた。私の右側には、相変わらずの暗闇が広がっていて、何を見ることもできないが、左側に目を移すと、割と近くに壁のようなものがあるらしかった。右側の空間にはない、圧迫感を感じる。よく見ると、その壁らしきものに、白い紙が二枚、並べられて貼られていた。二枚とも、白い紙の真ん中に大きく、努力と書かれていた。見覚えのある字だ。
私はここが何処なのか理解した。それと同時に、空間が薄明るくなってきた。どうやら夜明けが来たようだ。私を取り囲んでいた暗闇が、夜明け独特の、青みがかった光景に様変わりしていく。左側に迫っていた、壁らしきものは、横長の掲示板だった。緑色をした地に、半紙が二枚貼り付けられている。努力と書かれた二枚の半紙の片隅には、それぞれ、北口さをり、野田陽子と汚い字で書かれていた。
私の前方から、眩しい朝の光が差し込んできた。白くキラキラした光が、木枠の大きな窓から入り込み、教室全体を先程よりもさらに明るくした。教室の中央には、二組の机と椅子が並べられている。どちらも児童用で、私は、その片方の机の上に腰掛けた。教室の正面の、汚い黒板の上には、「今月の目標! おはよう と さようなら を大きな声で!」と書かれた横長の紙が貼られている。壁に貼り付けてあるセロハンテープの劣化具合を見ると、もう何年も月間目標は変わっていないようだ。
どこか遠くから、船の汽笛の音が聞こえてきた。港の方から、風に運ばれてきたのだろう。おそらく、朝一番の本土へ向かう連絡船が鳴らしたものだろう。すると今度は、建物の中から子供の声が聞こえてきた。何か叫んでいる声、続いて大きな笑い声が聞こえた。廊下を走る音が近づいてきたかと思うと、教室の正面の引き戸が、勢いよく振動し、乱暴に開け放たれた。まず飛び込んできたのは、北口さをりだった。後を追うように、野田陽子が、幼い頃の私が飛び込んできた。野田陽子は、北口さをりに抱きつき、二人で床に倒れ込みながら大笑いしていた。
「昨日の寅さん見た?」
「見た見た! 面白かったよねー」
「いいなぁー、さをりもあんな人生送りたいなぁ」
寅さんというのは、あの当時テレビでやっていたドラマのことである。寅さんとは正式なタイトルではなかったのだが、主にそのドラマを観ていた二人の父親が、愛着を込めて寅さんと呼んでいたので、二人もそれを真似しているのである。ドラマの内容は、とても八歳児に理解できるようなものではなかったが、あの時は、大人と一緒に難しいドラマを観ていることが格好良くて、父親の隣に座っては、テレビ画面にかじりついていた記憶がある。比較的遅い時間に放送されていたように思うが、島の大らかさなのか、遅くまで起きていることについて、怒られた記憶はなかった。内容など、これっぽちも頭に入ってはいないのだが、ドラマが放送された次の日には、こうして昨日のドラマの感想を語り合うのが日課のようになっていた。
再び引き戸が開かれた。それまで教室を走り回っていた二人は、入ってきた女の姿を見るなり、顔を引きつらせ、押し黙ってしまった。入ってきた女は、教壇の中央に置かれた教卓の所まで来ると、怯えたように固まった二人を見据えた。黒い髪を腰まで伸ばした、この女が私たちの担任だった、塔野ユキ子だ。
「何をしているの、早く席に着きなさい」
塔乃ユキ子が冷たく言い放った。
「……はい」
二人は、手を繋ぎながら自分たちの席へ駆け寄り、それぞれの席へ着席した。
「担任の教師が立ってるのに、何勝手に着席してるの!」
塔乃ユキ子は、教卓を激しく叩いた。衝撃音が、広い教室に響き渡る。二人は、同時にビクッと身震いをした。
「私は、それぞれ所定の位置に戻りなさいといったのです。わかったら早く立つ!」
二人は、弾かれたように起立した。あまりに勢いよく立ったため、野田陽子の座っていた椅子がひっくり返ってしまった。
「学校の備品を何だと思っているの! 早く直しなさい!」
野田陽子は、泣きそうなのをグッと堪えるような表情で、椅子を起こした。隣にいた北口さをりが、怒られるのを承知の上で声をかけてくれた。
「北口さん、そんな子放っておきなさい。まったく、毎朝毎朝あいさつするだけでどれだけ時間かけたら気が済むんですか、野田さん。あなたみたいに出来の悪い子は初めてですよ」
「すみません……」
別に、この日は特別という訳もなく、私たちの教室では、これが朝の日常の光景だった。私たち二人は、とにかくこの塔乃ユキ子が嫌いだった。朝に限らず、授業中でも休み時間の間でさえも、気に入らないことがあると、とにかく私たち二人に当たり散らしていた。特に私への当てつけは酷く、私は、塔乃ユキ子に怒鳴られる度に目に涙を溜めていた。一方の北口さをりは、弱気な私とは違い、塔乃ユキ子に反抗する場面もあり、私ほどではないが、やはり塔乃ユキ子には好かれていなかった。私は、塔乃ユキ子の前ではいつも怯えており、北口さをりは、いつも冷ややかな目で塔乃ユキ子を見ていた。
二人は、ようやく着席することを許され、一時間目の授業が始まった。塔乃ユキ子の授業では、教師と生徒の会話はほとんどなかった。塔乃ユキ子がひたすらに黒板に文字を書いていき、私たち二人はそれを必死にノートに書き写していた。たまにどちらか一人を指名し、問題を出してくる。もし、塔乃ユキ子が満足のいく答えを出せないと、容赦なく罵声が飛んできた。私がこの島を出てから、本土の小学校で受けた授業は、当たり前であるが、教師と生徒がコミュニケーションをとりながら授業が進んでいくので、環境に慣れるまでに時間がかかった。教師への質問など、野島にいた頃は怖くてしようとも思わなかった。
淡々と授業は進み、一時間目が終わった。しかし、塔乃ユキ子は教室を出て行くことなく、教卓の椅子に座って休憩をすることが多かったので、二人には心休まる時間はなかった。もちろん、休み時間の間でも、教師と生徒のコミュニケーションは皆無に等しかった。 息苦しい雰囲気のまま、二時間目が始まり、塔乃ユキ子は私たちに背を向け、再び黒板に文字を書き始めた。三人で使うには勿体無いくらいに広い教室内には、塔乃ユキ子がチョークを走らせる音だけがひたすらに響いていた。私たちは、塔乃ユキ子が背を向けて文字を書いている間を利用して、手紙のやり取りで会話を楽しんでいた時もあったが、塔乃ユキ子に見つかり、二十分ほど絶叫された後に、手紙をビリビリに破かれてからは、授業中にコミュニケーションをとるのは諦めた。
二時間目が終わり、相変わらず教室内に会話が生まれないまま、三時間目が始まった。いつも通り、塔乃ユキ子は背を向け、黒板に文字を書き始めた。二人は、必死に鉛筆を動かしている。私は、古臭い木枠に縁取られた、大きな窓の外に目をやった。太陽は既に高く昇り、秋の高い空から、暖かい光を降り注がせている。野島小学校の校舎は平屋建てで、窓の外は小さな運動場になっている。窓のすぐ下の花壇では、確かトマトを育てていたはずだ。
「それではこの問題を、野田さん、答えなさい」
不意に教室内に、塔乃ユキ子の声が響いた。野田陽子は、名前を呼ばれると即座に立ち上がった。立ち上がるのが遅れると、塔乃ユキ子の逆鱗に触れることになるからである。
「えっと……、その……」
隣で北口さをりが、心配そうな眼差しを送っている。黒板には、汚い文字で掛け算の数式が書かれていた。私は、算数が苦手だった。しかし、それは本土の小学校に転校してから改善された。ここでは、わからないことがあっても、質問することは出来ない。それが苦手の原因だった。北口さをりが解き方を教えてくれたのだが、同じ八歳児なので、教え方にも限界があり、私は掛け算をなかなか理解できないでいた。
「どうしたんですか? 日本語も忘れちゃったんですか? 先生は、野田さんに、この問題を解きなさいと言ったんですよ!」
塔乃ユキ子が黒板を激しく叩いた。チョークの粉が舞い上がる。野田陽子は、すっかり萎縮してしまい、涙声を振り絞るように、
「……すみません、わかりません……」
「もう結構です。廊下に立ってなさい。早く行きなさい!」
私は今この場にいるが、もちろんその姿は塔乃ユキ子や幼い私たち二人には見えていない。もし見えていたなら、私は塔乃ユキ子に間違いなく掴みかかっていただろう。今の私は、昔の私とは違う。閉鎖的な島という空間で育った私は、人と関わる時、どうしても内気になってしまい、殻を作ってしまいがちだったが、北口さをりに出会い、本土の小学校で同年代の子供と接しているうちに、すっかり活発な性格へと変わってしまった。幼い私は、小刻みに体を震わせながら、それでも涙は溢さずにグッと堪えながら、トボトボと教室をあとにした。私は、この子にどうにか力を貸してやりたいが、どうすることもできなかった。
塔乃ユキ子は、野田陽子が出ていくのを見送ると、再び黙々と黒板に文字を書き始めた。以前なら、この後北口さをりに答えさせ、私に劣等感を浴びせていたのだが、一度、私を退室させたあと、北口さをりに答えさせた時、北口さをりは、わかりませんと即答し、私とともに教室を退室されたことがあってから、塔乃ユキ子は、私に惨めな思いをさせることを諦めたようだ。
野田陽子が居なくなった跡も、授業は淡々と続いた。北口さをりは、廊下に沿うように貼られた曇りガラスを、時々心配そうに見つめる。曇りガラスには、廊下に立っている野田陽子の後頭部が、ぼやけたシルエットで見えていた。私の記憶では、野田陽子は廊下でいつも泣いていたように思う。教室にいる北口さをりに悟られることのないよう、声を押し殺しながら。
「いつまでそこに立っているつもりですか。そうやっていつも廊下に立っているから、授業についてこれなくなるんですよ」
三時間目が終わり、廊下に立っていた野田陽子は教室内に呼び戻された。野田陽子に、隣に座る北口さをりがノートを見せてくれた。野田陽子は、小さくありがとうと言い、可愛い笑顔を浮かべながら、ノートを受け取った。その様子を、塔乃ユキ子は憎たらしそうに目を細めながら眺めていた。おそらくこの人は、二人の行動一つ一つが憎たらしく感じてしまうのだろう。
やがて4時間目が始まった。太陽は、既に空の真上にまで来ている。いつもどおり、授業は淡々と進むが、珍しく塔乃ユキ子が怒鳴り声を上げることのないまま授業が終わり、二人はほっと胸を撫でおろしていた。塔乃ユキ子は、教卓に広げられた授業の資料をまとめると、それを携え足早に教室を出ていった。
四時間目が終わり塔乃ユキ子が教室を出ていったということは、ここでは昼食の時間であることを意味していた。野島小学校には給食という制度はなく、二人はそれぞれ家から持ち寄ったお弁当を食べる。塔乃ユキ子がいないこの時間は、二人にとって最も気持ちの安らぐ時間であった。二人は机を向かい合わせに動かし、キャッキャと騒ぎながらお弁当を食べている。広い教室に、久しぶりに笑い声が響いた。
お弁当を食べ終えた二人は、今度は教室の中を走り回りだした。幼い二人にとっては、走ることが何よりも楽しいことなのだろう。二人は、授業で溜まった鬱憤を晴らすように、ひたすらに走りながら笑い転げていた。
「今日学校終わったら遊ぼうよ」
声をかけたのは北口さをりだった。
「いいよー、何して遊ぶの?」
「うーん、走ろう! 走りっこしよう!」
「さをりってばそればっか!」
そう言ってまた二人は笑い転げた。キーの高い笑い声が教室内にこだまする。我ながら、よく笑う子供だったらしい。そんな平和な二人を眺めていると、二人の笑い声を遮るように、突然塔乃ユキ子のヒステリックな叫び声が聞こえた。見てみると、教室の引き戸を半分ほど開け、塔乃ユキ子が顔を覗かせていた。
「教室は勉強をするところです。暴れたいのなら、表でやりなさい!」
塔乃ユキ子は引き戸を一気に開け放った。扉が壁に打ち付ける乱暴な音がしたのと同時に、二人は教室から追い出されてしまった。
「ほんとムカつくよねー」
北口さをりはそう言いながら、花壇に生っているトマトをひとつむしり取った。トマトは、弾けんばかりに赤く熟れていて、齧ると甘い果汁が口に広がるのが容易に想像できるような、そんなトマトだった。
「どっか転校してくれないかなぁ」
「先生にも転校ってあるのかな?」
北口さをりは、大きなトマトを齧りながら、うきうきとスキップを踏んでいる。野田陽子も、どこか嬉しげな表情をしている。二人は、どこに行くという相談をすることもなく、平屋の校舎の裏側へと、まっすぐに向かっていった。
「おはよーピーちゃん。元気にしてましたかー?」
北口さをりは、溢れそうな笑顔を向け、食べかけのトマトをピーちゃんに与えた。北口さをりにピーちゃんと呼ばれていたハシツツキの雛は、鋭く長いくちばしを、熟れたトマトに突き刺すように食べていた。
「ピーちゃん大きくなったよねー、もうすぐ飛べるんじゃないの?」
「まだまだだよ、私と陽子を乗せて飛べるくらいまで大きくなってもらわないと!」
二人が可愛がっていたハシツツキの雛は、既に飛び立てるであろう程にまで成長していたが、二人が毎日のように餌を運んできてくれるので、なかなか巣立ちをする気がない様子だった。死んでしまったのか、親鳥の姿も近くには見えなかった。普通なら、ハシツツキは警戒心が強いので、雛のいる巣に人間が近づくと、即座にどこからか飛んできて威嚇をするものなのだが。
「私たち乗せて飛べるかなー? ハシツツキはちっちゃいからね」
「陽子重いしね」
「言ったなー!」
二人はまたかけっこを始めた。足の速い北口さをりは、捕まることなく、けらけらと笑いながら野田陽子の手から身を躱している。楽しそうに走る二人が、突っ立って二人を眺めていた私の脇を走り抜けた。北口さをりを捕まえようと、手を大きく前に伸ばしていた野田陽子の指先に、私の髪が触れた。野田陽子は立ち止まり、不思議そうに私の方を見つめていた。
やがて時間が経つと、二人は手をとりながら教室へと戻った。教室には塔乃ユキ子の姿はなかった。二人は、誰に言われるでもなく、掃除ロッカーの中から箒を取り出すと、教室の掃除を始めた。塔乃ユキ子の筆圧が強いのか、黒板の下には折れたチョークや砕けたチョークが散乱している。部屋の隅々まで箒を走らせ、机の上は丁寧に水拭きをし、明日の朝の、塔乃ユキ子の導火線の火種になるようなものを全て取り除いていく。二十分ほど時間をかけて掃除を終えた二人は、それぞれの荷物をまとめると、当たり前のように教室を後にした。塔乃ユキ子が仕切るこのクラスには、ホームルームというものはなかった。
「それじゃあ、また後でね」
「うん! いつものところでね」
野田陽子の言ったいつものところというのは、あの頃の私たちの定番の待ち合わせ場所であった、駐在所のことである。二人の家の、ちょうど間にあった事や、子供好きな性格の甘屋光男は、子供たちにとって格好の遊び相手だった事などから、放課後には駐在所に集合するというのが、私たちのいつもの流れになっていた。
野田陽子は、校門を出ると自宅の方向へと駆け足で向かった。そのあとを追う私の目には、懐かしい中野の町並みが見えていた。今はすっかり人の姿は消えてしまったが、こうして見ると、私が子供の頃にはまだ多少の活気はあったようだ。やがて、野田陽子越しに懐かしい在りし日の我が家が見えてきた。廃墟となってしまった今とは見違えるほど綺麗に見えるのは、庭の手入れを毎日のように行なっていた母のおかげだろう。もう少し、実家の風景を眺めていたかったが、野田陽子は玄関に飛び込み、通学カバンを家の中へ放り投げると、踵を返してまた飛び出して行ってしまった。無理もない。野田陽子にとっては、これは毎日のように見ている風景なのだから。彼女にとっては、北口さをりと遊ぶことが全てなのだろう。
野田陽子が息を切らせながら駐在所についた時には、既に北口さをりの姿があり、なにか甘屋光男の話を真剣に聞いているような雰囲気だった。
「ごめん、遅くなった」
「遅いよー、早くここに座んな」
北口さをりは、私の顔を見るやいなや、自分の隣にある事務椅子を指差した。
「ねぇ、おっちゃん、さっきの話もっかい最初からお願い」
「まぁまぁ、そう慌てなさんなよ、お嬢ちゃん。陽子ちゃんこんにちわ。走ってきたのかい? 喉渇いたろう」
そう言って甘屋光男は、麦茶と湿気たせんべいを差し出してきた。
「ありがとうございます。それで、どんな面白い話を聞かせてくれるんですか?」
「慌てん坊だねえ、最近の若いのは。ちょっと待ちな。おっちゃんもさっき話したところだから喉が渇いちまった」
甘屋光男はコップに注がれた麦茶を飲み干すと、勿体振ったように話し始めた。
「お嬢ちゃんたちは、好きな男の子とかいるのかい?」
「いるわけないじゃん! この島おっさんばっかりだもん!」
野田陽子と北口さをりは、お互いの顔を見合わせ大笑いした。
「はっは、違いねえ。それじゃあ」
甘屋光男はひと呼吸間を置いて、声を小さく低くしながら、
「殺したい奴とかはいるかい?」
野田陽子が小さく身震いした。その表情からは笑顔が言え、真剣な表情に変わっている。幼い彼女にとっては、殺すという単語が、途方も無く大きいものに感じたのだろう。北口さをりは、話を聞くのが二度目だからか、その表情からは余裕が感じられた。
「だって……、そんなことしたら、おまわりさんに捕まっちゃうじゃん」
野田陽子がやっとの思いで言葉を絞り出した。
「そりゃそうだ。人を殺しちゃ俺たち警察が黙っちゃいねえ。しかしな、警察じゃどうにも手出しできないことだって、世の中にはあるんだ」
甘屋光男は、せんべいを半分ほどばりっと食べた。野田陽子が甘屋光男の言った言葉の意味を理解しようと悩んでいる。甘屋光男は麦茶でせんべいを流し込むと、
「そんな悩むことはねえよ、そんな難しいことじゃない。簡単なことよ。幽霊にお願いすればいいんだよ」
そう言うと、甘屋光男は口笛でおどろおどろしい音を出しながら、手で幽霊のポーズをした。
「……ゆっ、幽霊なんかいるわけないもん!」
「そんなことねえよ、幽霊さんだってこの島でちゃんと生活してるんだから。陽子ちゃんには見えていないのかい? ほらあそこ、あの山の頂辺に、ほら」
甘屋光男は、駐在所から外を指差した。その先には、青々と茂った野山がある。
「あの野山の頂辺から、女が恨めしそうにこっちを見てるのが、陽子ちゃんには見えないのかい?」
振り向いて野山を見つめる野田陽子が、だんだんと泣き出しそうな表情になってきた。それを見た北口さをりが、
「おっちゃん、言い過ぎ! あんな遠くからこんなとこ見えるわけないじゃん。大丈夫だからね、陽子」
「いやぁ、さをりちゃんには敵わねえな」
「嘘つき……」
野田陽子が泣きながら吐き捨てた。
「おどかして悪かった、許しておくれ。だがな、幽霊がいるってのは本当だ。二人がいい子にしていれば、悪さをすることはないし、二人のお願いを叶えてくれることだって、あるかもわからんよ」
「お願い叶えてくれるだってー! 陽子は何お願いする?」
「私は……、足が速くなりたいかな……」
野田陽子の答えに北口さをりは大げさに笑った。おそらく、泣いてしまった野田陽子の気持ちを盛り上げようとしているのだろう。そのおかげか、野田陽子の表情にも、明るい笑顔が戻ってきた。
「そうか、足が速くなりたいのか。それなら駆けっこが一番だな。さあ二人とも、おっちゃんからのお話はこれでおしまい。日が暮れるまで走り回っておいで!」
二人は歓声を上げながら駐在所を飛び出していった。私は、走り去る二人の背中を見ながら思った。なぜ甘屋光男は、こんな話をあんな幼い子供相手にしたのだろう。ただ怖がらせたかっただけなのだろうか。私の隣で、二人の背中を見つめる甘屋光男の表情からは、悪意のようなものは感じられない。おそらく、悪気はなかったのだろう。彼なりに、子供たちを楽しませようとしていたのだろう。
野田陽子と北口さをりは、中野の町中を走り抜け、田んぼが道の左右に広がる六区へと出た。北口さをりの後ろを走る野田陽子が、息を切らせながら、
「どこまで行くのー?」
「まだまだ行くよー、のろのろしてたら置いてっちゃうよー」
「ちょっと待ってよー」
二人は息を弾ませながら六区を突っ切り、地獄崖へと通じる山道を駆け抜けていった。島の先端である地獄崖まで着いた二人は、その場に座り込んだ。北口さをりが、肩で息をしながら、
「ここ、どこかわかる?」
「知ってるよ、地獄崖でしょ? お母さんたちが、危ないから子供だけでここに来ちゃダメって言ってたよ。見つかったら怒られちゃうよ」
「そんなつまんないこと言うなよー。大丈夫だよ、こんなとこに大人なんか来るわけないんだから、見つかりっこないよ」
「そうだけどさ……」
「ねえ陽子、ここで大昔に何が起きたか知ってる?」
北口さをりはニヤつきながら、目を大きく見開かせた顔を、野田陽子の顔にぐぐっと近づけた。
「えっ? 知らないけど……」
「さっき駐在のおっちゃんが言ってた幽霊ってさ、ここから飛び降りて死んじゃったんだってー!」
北口さをりは、おどろおどろしい声でそう言うと、わざとらしく手を両頬にあてて悲鳴を上げ、今走ってきた道を駆けていった。取り残された野田陽子は、震えながら辺りをキョロキョロと見回している。妨げられるものが何もない海上を走り、勢いを増した潮風が、地獄崖の断崖にぶち当たり、人間の呻き声のような音と共に吹き上がってくる。吹き上げられた猛烈な潮風が、私と野田陽子の髪を盛大にかき乱した。
「ちょっと待ってよー!」
野田陽子は、弾かれたように山道を駆け下りて行った。北口さをりは、山道を少し降りたところでこちらの様子を伺っていたようで、駆け下りてくる野田陽子の姿を確認するやいなや、笑いながら、再び野田陽子の前方を駆け出した。
二人は、しばらく山道を駆け下り、度胸崖との岐路まで戻ってくると、先頭を走る北口さをりは方向を変え、度胸崖のほうへと向かった。野田陽子も前方の北口さをりの背中を追う。そして、度胸崖の先端にいた北口さをりを、ようやく捕まえることができた。
「いきなり走り出さないでよー」
野田陽子は息を弾ませながら北口さをりの頬をつねった。
「ごめんごめん。いやー、陽子がどんな顔してビビるかなーと思って」
「ビビったよー。さっきの話、本当なの?」
「うん、駐在のおっちゃんが言ってた。べろんべろんに酔っ払った自治会長のじっちゃんから聞いたんだって」
どうやら北口さをりは、野田陽子が駐在所に到着する前に、色々と甘屋光男から聞いていたようだ。
「この後どうする?」
「もっと遊びたいなー、かくれんぼがしたい!」
「じゃあさ、学校でかくれんぼやろうよ」
「えっ? ダメだよ、また先生に怒られちゃうよ」
「大丈夫だよ、どうせ先生はもう帰っていないだろうし、ピーちゃんに晩御飯もあげないといけないしね」
塔乃ユキ子は、放課後の学校には立ち入り禁止だと、私たちに言い聞かせていた。しかし、私たちの授業が終わると、塔乃ユキ子がすぐに帰ってしまうのを北口さをりは知っていたようで、時々忍び込んではハシツツキの雛のピーちゃんの様子を見にいっていたようだ。
「ね?行こうよ」
「うーん……、よし、行こう! 隠れんぼしよう」
二人は、再び山道を駆け下りていった。太陽は、既に西側の空に傾いているが、まだ夕暮れと呼ぶには早い。あの二人の足なら、小学校まで行っても遊ぶ時間は十分に残されているだろう。
二人は、山道を下りきると、またたく間に六区を走り抜け、中野の中心に立っている小学校へと向かった。
「大丈夫かな? 先生まだいたりしないかな?」
「大丈夫だよ、陽子は心配性だなぁ」
北口さをりは、迷うことなく校舎の裏手へと向かうと、ずらりと並んだ窓の中ほどにある一枚に手をかけ、がらりと開けた。どうやら鍵が壊れていて掛からないらしい。無数の窓の中から、迷うことなくこの窓を選ぶあたり、北口さをりは、放課後の校舎の常連のようだ。
「さっ、まずどっちが鬼をやる?」
北口さをりは、まだオドオドと辺りを気にしている野田陽子に問いかけた。その野田陽子も、明るく堂々と振舞っている北口さをりに勇気づけられたのか、次第にかくれんぼに乗り気になってきた様子だった。
「そりゃあ、じゃんけんで決めないと」
二人はけらけらと笑いながらじゃんけんをした。負けたのは野田陽子だった。
「陽子はいつも弱いなぁ」
「いいもん、さをりはどうせどっかの教室のお掃除箱に隠れるんでしょ?」
「さあねー、今日はどこに隠れるかわからないよー」
私は、走ったり跳ねたりの運動は苦手だったが、物陰に隠れたり、逆に探したりするのは得意だった。北口さをりはその逆で、運動神経は良かったが、隠れたりするのは苦手なようで、いつもどこかの掃除道具入れのロッカーにばかり隠れていた。なので、北口さをりを探し出すのは簡単だった。
「ちゃんと目を瞑って五十秒数えるんだよ」
壁に向かって顔を押し当てている野田陽子の背中に向かって、北口さをりが走りながら叫んだ。野田陽子は、小声で数字をカウントしている。廊下を走る北口さをりの足音が小さくなっていき、どこかの教室の扉を開ける音が微かに聞こえた。壁に向かって数字を数えていた野田陽子が、にやりと笑みを浮かべた。北口さをりは、いつも通りどこかの部屋のロッカーに隠れたのだろう。
野田陽子のカウントがまもなく五十秒を迎えようとした時、突然、校舎の正面玄関の扉の鍵が開けられた。壁に向かっていた野田陽子は、飛び上がって驚き、慌てて玄関からの死角へと身を潜めた。入ってきたのは塔乃ユキ子だった。塔乃ユキ子は、身を潜めている野田陽子に気づくことなく、校舎の奥へと廊下を歩いて行った。
「さをりに知らせなきゃ」
野田陽子が小さく呟いた。やがて、塔乃ユキ子の姿が見えなくなると、野田陽子は物陰から抜け出し、北口さをりを探しに校舎の奥へと向かった。しかし、叫んで呼びかけることはできないので、物音を立てないよう扉を開けながら、各部屋のロッカーを開けて回るしかできないようだ。いつもならすぐに北口さをりを見つけられるのだが、走ることができないので、見つけるのに時間がかかっていた。狭い校舎とはいえ、部屋の数は十個以上はある。それに、どこに塔乃ユキ子がいるかわからないのだ。野田陽子の目には、次第に涙が溜まってきた。
野田陽子が北口さをりを探しだしてから十分ほど経った頃、どこからか、獣の呻き声のような音が、校舎中に響きだした。野田陽子はびくりと身を縮め、物陰に隠れながら辺りの様子を伺っている。どうやら、その音は保健室から聞こえてくるようだ。野田陽子は何か迷っているような仕草をしていたが、意を決したように保健室の方へと、足音を忍ばせながら向かった。野田陽子は保健室以外の部屋をすべて調べており、北口さをりがいるとすれば、あの獣の声が聞こえる保健室以外に考えられなかったのである。保健室の扉は、僅かに隙間を開けており、中から明かりが漏れていた。野田陽子は、恐る恐る顔を近づけ、中の様子を伺った。私も、野田陽子の上から中の様子を盗み見た。
中からは、女の妖艶な声が聞こえ、ベッドの上には、一糸纏わぬ姿の塔乃ユキ子が、白く美しい背中をこちらに向けて、何かの上に馬乗りになっていた。ベッドの上には、野田陽子の父親であり、私の父親である野田信夫が横になっている。塔乃ユキ子は、私たちの父親の上で、何度も飛び跳ねては妖艶な喘ぎ声を漏らしていた。私の下で覗いていた野田陽子が突然走り出した。その足音が校舎中に響き渡ったが、腰を振るのに夢中になっている塔乃ユキ子には聞こえていないようだった。
野田陽子は、校舎を飛び出すと一度も立ち止まることなく自宅へと走り帰った。そして、寝室の押し入れに飛び込み、布団にくるまり小刻みに震えていた。幼いとはいえ、塔乃ユキ子と自分の父親が何をしていたのか、しっかりと理解できていたのだろう。暗い寝室に、六時を知らせるサイレンの音が聞こえてきた。窓の外はすっかり暗くなっており、野田陽子の気持ちを更に落ち込ませたようだ。
「すみません、北口ですが」
玄関から声が聞こえた。あの声は北口武志だ。母が台所から出てきて対応をしている。どうやら、北口さをりがまだ家に帰っていないらしい。野田陽子は、心配になったのか、押し入れから抜け出すと、玄関へと出て行った。
「あら、あんた帰ってたのかい」
母が驚いたような表情を見せた。
「陽子ちゃん、さをり何処で遊んでたか知らないかい?」
「さをりなら、まだ学校に……」
そう言いかけたところで、今度は私たちの父が帰ってきた。今しがたまで、小学校にいたとは微塵も感じさせないような素振りだった。おそらく母は、ずっと仕事で港にいたと思っているのだろう。
「お父さん」
外から北口さをりの声が聞こえた。北口さをりは、家から少し離れたところに立っていた。
「さをり、どこで遊んでたんだ? 心配したぞ」
「ごめんなさい、少し道に迷っちゃって」
「すみません、ご心配をおかけしました」
北口武志は玄関先で母と野田陽子に礼を言うと、北口さをりと手を繋いで帰路に着いた。去り際に北口さをりが手を振りながら、
「また明日遊ぼうね」
「……うん!」
野田陽子は、北口さをりの笑顔に少し元気づけられた様子だった。その後、家の中ではいつもと変わらぬ団欒の風景が繰り広げられた。野田陽子も、努めていつもと変わらぬ素振りをしているようだった。夜が更け、野田陽子は布団に入ったが、なかなか寝付けないようで、何度も寝返りをうっては、目を強く瞑り、夕方に見た光景を忘れようとしていた。
やがて東の空が白くなってきた。野田陽子は布団から出ると、寝ぼけ眼のまま朝食を食べに台所へと向かった。この日は休日で、小学校は休みなのだが、この頃の私は、休日でもいつも小学校に向かう時間に家を出て、朝から北口さをりと遊んでいた。この日も野田陽子は八時前に家を後にした。
「昨日はゴメンね……。隠れんぼの途中だったのに先に帰っちゃって……」
野田陽子は昨日の夕方のことを北口さをりに詫びた。
「いいよ、気にしなくて」
「昨日はどこに隠れてたの? 全然見つけられなかったよ」
「えっ……? えっと……、校舎の外に隠れてたの。先生が入ってくるのが見えたから、見つかったらまずいと思って」
「なんだぁ、外にいたのかぁ。どおりで見つからないわけだよ」
「ごめんね、心配かけちゃって」
北口さをりは視線を左右に激しく揺さぶっている。明らかに動揺をしているようだった。彼女は本当に校舎の外にいたのだろうか。
「元気ないね、どうしたの?」
北口さをりが野田陽子に問いかけた。確かに野田陽子には、昨日のような明るさがないように思えた。昨日の終わり頃に、色々と見てしまったのだからそれも無理はないのだが、元気がないのは、北口さをりも同じだった。
「そんな事ないよ、私は元気だよ」
野田陽子のカラ元気な笑顔に、北口さをりも微笑み返した。二人の虚しい笑顔からは、昨日の面影は感じられなかった。
「ねえ陽子、昨日の駐在のおっちゃんの話、覚えてる?」
「え……、野山の幽霊の話? そりゃあ、覚えてるけど……」
野田陽子の表情が一瞬曇ったように見えた。あまり思い出したくない話題なのだろう。
「今から野山に登ってさ、私たちのお願い叶えてもらおうよ」
「えー、嫌だよ、怖いよ。だいたい、野山にはマムシが出るんだよ。子供だけで入っちゃ危ないんだよ」
「大丈夫だよ、寅次郎を番犬に連れていくからさ」
寅次郎というのは、北口さをりの家で飼われていた中型の犬の名前である。二人の間で話題になっていたテレビドラマの登場人物にちなんで、二人で付けた愛称であった。
「でも……、何をお願いするの?」
「決まってるじゃん。先生に転校してもらうんだよ」
北口さをりはそう言うと、野田陽子の手を引っ張って走り出した。
「ちょっと、どこに行くのー?」
「寅次郎迎えに行くんだよ。子供だけじゃ危ないんでしょー?」
北口さをりは、家に着くと玄関先に繋がれていた寅次郎の鎖を外した。寅次郎は飛び跳ねて喜び、息の上がっている二人を引きずりながら走り出した。
「ねえ、本当に行くの?」
「当たり前じゃん。塔乃先生には転校してもらって、もっと優しい先生に来てもらおうね」
「……うん」
「どうしたの、元気ないじゃん」
「だって……、怖いもん……」
「大丈夫だって、絶対うまくいくって」
もし塔乃ユキ子が本当に転校してくれるのなら、父と別れさせることができるかもしれない。幼い私は、そんなことを考えていたように思う。
「うまくいくかなぁ」
「絶対大丈夫だよ! ……陽子を悲しませるやつは、みんな消えちゃえばいいんだよ」
「え? 何か言った?」
「なんでもなーい!」
北口さをりは、野山の頂上へと続く山道を、寅次郎とともに駆け上っていった。その後ろを、野田陽子が何かを叫びながら追いかけている。二人とも、昨日の元気を少しは取り戻したように思えた。
二人は寅次郎とともに野山を駆け上り、途中何度か休憩を挟みながら、二時間ほどかけて頂上へと到達した。
「お墓って、これのことかな……?」
「これしかそれっぽい物ないしね。なんか思ってたよりも小さいね。もっとごってりとした物があると思ってた」
「……なんて書いてあるか読めないね」
野山の頂上には、小さな墓石と祠がひっそりと佇んでいた。両方とも、中野の町を見下ろすように建てられている。幼い私には、墓石に何と書かれているのか、さっぱりわからなかったが、今改めて見てみると、達筆な字ではっきりと、野田ナミ子ノ墓と彫られていた。墓石には苔がむし、その周りを囲う木の囲いのようなものは、黒く腐ってその残骸が地面に散らばっていたが、祠の方は、黒ずんではいるものの、その扉は隙間なくきっちりと閉ざされており、大人が一抱えで持てるような大きさのそれは、頑丈そうな雰囲気を醸し出していた。
「祠ってこれのことかな?」
「なんのこと?」
「駐在のおっちゃんが教えてくれたの。祠の扉を開けることができた人だけが、お願いを叶えてもらえるって」
「……」
恐怖心のせいか、野田陽子は沈黙してしまった。さすがの北口さをりの表情も緊張しているようだ。北口さをりが祠の扉に手をかけようとした時、今まで大人しかった寅次郎が突然吠え出した。祠に向かって、牙をむき出しにして吠え立てている。あまりに突然の事だったので、思わず二人は飛び上がってしまった。北口さをりの手から、鎖の先端が放り投げられたが、寅次郎はその場を動こうとせず、ひたすらに祠に向かって吠え立てていた。
「このバカ犬! 静かにしろ!」
「……ねえ、やっぱりやめといた方が……」
「ここまで来て何言ってんの! さっ、陽子はそっち側の扉持って、二人で引っ張るよ!」
野田陽子は、渋々といった様子で、片方の扉の取っ手に手をかけた。寅次郎はなおも吠え立てている。
「せーので引っ張るよ。いい?」
「……うん」
二人は息を合わせ、同時に扉を力いっぱい引っ張った。木の扉は、一瞬ギギっという音を立てたが、二人がいくら引っ張ってもピクリとも動かない。表側には、閂のようなものは見受けられないが、内側になにか細工がしてあるのだろうか。
「なにこれ……? 全然開かないじゃん」
北口さをりが息を荒げながら愚痴をこぼした。
「何か、内側から引っ張られてる感じがするね」
野田陽子が、さも気味悪げなものを見るような表情で、祠を一瞥した。
「もう一回引っ張るよ。陽子、準備して」
北口さをりが扉に再度手をかけた時、それまで吠えていた寅次郎が北口さをりの足首に噛み付いた。
「痛い! ちょっと、何するのよ、このバカ犬!」
北口さをりは寅次郎を振り払おうとしたが、足首に噛み付いた寅次郎はなかなか離れようとしない。その姿は、噛み付いているというよりも、北口さをりを祠から引き離そうとしているように見えた。傍らに立っていた野田陽子が、慌てて寅次郎を引き離しにかかった。寅次郎の首輪に繋がっている鎖を引っ張ると、寅次郎の血走った目が野田陽子を見据えた。野田陽子が怖気付いて鎖を離した次の瞬間には、寅次郎に飛びかかられて押し倒されてしまった。野田陽子が悲鳴を上げながら、馬乗りになっている寅次郎を振り払おうとしていると、どこからか、バキッという木の板が割れるような乾いた音が聞こえた。それと同時に、あれほど興奮して暴れていた寅次郎が、ぴたりと動きを止めた。
野山から見えていた景色が途端に一変した。木々の緑や海の青い光が、瞬く間に灰色に変色していく。周囲のあらゆる所から聞こえていた小鳥のさえずりが、海に沈んだようにくぐもっていき、やがて聞こえなくなった。遥か海の彼方から吹いていた潮風が、何かに怯えるように静まり返った。野田陽子に馬乗りになっていた寅次郎が、小刻みに震えだしたかと思うと、文字通り尻尾を巻いて一目散に山道を駆け下りていった。
「……開いた……」
私の目には、白黒テレビのような世界が映し出されていた。その白黒の視界には、完全に開かれた祠の観音扉と、その前に立ち尽くす北口さをりが写っていた。北口さをりの後方には、尻餅を付きながら、目を真ん丸に見開いて怯えている野田陽子の姿があった。
祠の中を覗いてみると、それほど奥行きがあるはずないにもかかわらず、中は真っ暗で何も見えなかった。開かれた扉の裏側には、両扉を繋ぎ留めるような細工は見受けられなかった。では、何が扉をあんなにも固く閉ざしていたのだろう。あの木の板が割れるような音はなんだったのだろう。
時間が永遠に止まったような感覚だったが、徐々に視界に景色の色が戻ってきた。遠くの方からは波の音が聞こえ、小鳥のさえずりも戻ってきた。はっと我に返ったように野田陽子が、
「まずいよ、早く扉閉めようよ」
野田陽子は開かれた観音扉を閉めようとしたが、手を離すと、ひとりでに両扉が開いてしまう。
「さっきまであんなに固かったのに……」
「成功したんだよ! 私たちのお願いが通じたんだよ!」
北口さをりが興奮した様子で捲し立てている。
「今から学校の様子見に行こうよ! 先生がちゃんと転校するか、確認しに行こう!」
そう言うと、北口さをりは山道を駆け下りていった。野田陽子は不安そうな顔で一度祠を振り返ったが、すぐに北口さをりの後を追って駆け出していった。私は、もう一度祠の中をよく見てみた。暗闇の奥には、薄い木札のようなものが壁面に貼り付けてある。木札にはなにか呪文のようなものが書かれていたが、その木札は真っ二つに割れていた。
二人は野山を下りきると、お昼ご飯を食べることも忘れて小学校へと向かった。塔乃ユキ子は、休日にはいつも午後から出勤していた。つまり、今の時間なら小学校にいるはずだ。
「見つからないように、そっとだからね」
北口さをりが声を潜めて野田陽子に注意を促した。二人は、正面玄関から校舎に入ろうと試みたが、正面玄関には鍵がかかっていて入ることができなかった。二人は校舎の裏手に回り、昨日侵入した、鍵の壊れた窓から校舎内に侵入した。気配を消すことに神経を集中させていた二人は気づかなかったようだが、二人の通り道にある大きなハシツツキの巣の下には、北口さをりにピーちゃんと呼ばれていたハシツツキの雛が落ちていた。二人は気づくことなく、横たわる雛の横を忍び足で通過していったが、この雛が死んでいるのは、一見して明らかだった。雛の身体には外傷などは見受けられず、何かを叫ぶように、嘴を大きく開けて絶命していた。
校舎内に入った二人は、忍び足で姿勢を低くしながら職員室の方へと向かった。もうすぐで職員室に着くというところで、突然野田陽子が立ち止まってしまった。
「……? どうしたの、早く来なよ」
「……うっ、うん」
野田陽子の脳裏には、昨日見た光景が蘇っているのだろう。目前に迫った職員室の扉は、僅かに開いていて中の光が漏れていた。昨日の夕方に私たちが見た光景と同じだ。
「……大丈夫だから」
北口さをりは野田陽子を励ました。おそらく彼女は、昨日野田陽子が何処にいて何を見たのかを知っているのだろう。昨日は校舎の外に隠れていたというのは、幼いなりに野田陽子を気遣った嘘なのだろう。
二人は職員室の扉の前まで来ると、息を一層潜めて開いた隙間を覗き込んだ。私も二人の上から覗き込んだ。狭い職員室の中には、塔乃ユキ子の姿はなかった。一つしかない事務机の上は書類で散らかっていて、コーヒーカップが湯気を立てていた。
「何が見えるんですか?」
突然背後から声がした。二人はとっさに逃げようと走り出したが、二人とも首根っこを掴まれて逃げることができなかった。
「ここで何をしているんですか? 放課後や休日の校舎には入るなって、あれほど注意してたでしょ!」
塔乃ユキ子は二人の首元を引っ張りながら歩き出した。ほとんど引きずられるように歩く二人は、痛いと何度も叫んでいたが、塔乃ユキ子は聞く耳を持とうとしなかった。やがて二人の教室の前まで来ると、塔乃ユキ子は教室の引き戸を足で強引に蹴り開け、二人を教室内へと放り投げた。激しく尻餅をついた野田陽子はわあわあと泣いていたが、北口さをりは塔乃ユキ子を睨みつけながら野田陽子の頭を撫でていた。塔乃ユキ子は、引き戸を力任せに閉めた。そのせいで、扉のすりガラスの一部が割れてしまった。
「いつまで泣いてるの! 二人ともそこに並びなさい!」
塔乃ユキ子が怒鳴ったが、二人は動こうとしない。塔乃ユキ子は、言う事を聞かずに野田陽子に寄り添っている北口さをりと、なかなか泣き止まずにへたりこんでいる野田陽子の首根っこを掴み、教卓の前に乱暴に立たせた。
「いったい何をしていたんですか? 野田さん、答えなさい」
野田陽子はしゃくり上げるばかりで答えようとしない。無理もない。塔乃ユキ子が転校する様子を見に来た等とは言えないだろう。
「北口さん、いったい学校で何をしていたんですか?」
「……、遊んでただけです」
塔乃ユキ子が教卓を激しく叩いた。教卓の上に置かれた一輪挿しの花瓶が衝撃で落下し、割れた音に二人がびくりと身を縮こませた。
「遊んでただけじゃないでしょ! 入ってはいけないというのがわからないの? いつもああやって私の様子を見ながら、私の目を盗んで遊んでいたんでしょ!」
再び塔乃ユキ子が教卓を叩いた。
「なんで学校で遊んじゃダメなんですか? 私たちの学校なのに」
北口さをりが反論をした。途端に、塔乃ユキ子の目が更に釣り上がった。
「学校はあなたたちの物じゃありません! 生意気な口を聞くんじゃない!」
塔乃ユキ子は北口さをりの頬を平手で強く打った。頬を赤く腫らした北口さをりは、泣き出しそうになるのをぐっと堪えた。いま自分が泣いてしまえば、野田陽子を更に不安にさせてしまうと思ったのだろう。
「……、死んじゃえばいいのに……」
「……? なんですって?」
塔乃ユキ子がわなわなと体を震わせた。私は、教室の空気が不穏なものに変わったのを感じた。北口さをりや塔乃ユキ子によるものではない、何か、もっと不吉なものによる影響のようだ。教室の扉の方から、耐え難い胸騒ぎのようなものが押し寄せている。私は思わず扉へ目をやった。すると、割れたすりガラスの僅かな隙間を、白い服を着た、黒髪の長髪の女らしき姿が横切った。凄まじい不吉な予感に、私は思わず後ずさりしてしまった。北口さをりも、扉を見つめているようだ。彼女も何か感じ取ったのだろうか。
突然、教室の引き戸が開けられた。強くもなく弱くもなく、普通に誰か入ってくるように、がらりと音を立てて開いた。塔乃ユキ子は振り返ったが、そこには誰もいない。私も振り返ってみたが、先程の女らしき姿はどこにもなかった。
不意に、二人の子供の悲鳴が上がった。視線を戻した私の目に飛び込んできたのは、扉を見つめる塔乃ユキ子の背後に立つ、長髪の女の姿だった。女の纏っている白い死装束は、薄汚れていて所々黄ばんでいる。黒く長い髪は、よくとかれており、毛先も綺麗に整えられていた。青白いその顔は、無表情としか言い様がない表情をしているが、目だけは大きく力強く見開き、塔乃ユキ子の背中を、まさに凝視していた。この顔には見覚えがある。間違いなく、野田ヒサノの家で見た野田ナミ子だ。
振り返った塔乃ユキ子が声もなく崩れ落ちた。腰が砕けたようで、唸り声のような微かな声を漏らしながら後ずさりしている。二人の子供は弾かれたように扉に向かったが、二人が部屋を出る前に、引き戸がひとりでに力強く閉まってしまった。二人は泣きながら開けようとしたが、扉はぴくりとも動かなかった。ガラスの割れるような音や、金属の擦れるような音が教室中に響き渡ってきた。まるで近くで戦争が始まったかと思うような破裂音も立て続けに聞こえる。堪らなくなった二人は、引き戸を開けるのを諦め、教室の後方へと避難し、二人で泣きながら、がたがたと震え合っていた。腰の砕けた塔乃ユキ子は、目の前に立つ野田ナミ子を見上げながら、相変わらず唸り声のようなものを漏らしている。塔乃ユキ子の短いスカートの周りには、水溜りが出来ていた。
野田ナミ子が、足を摺るようにずずっと塔乃ユキ子に詰め寄った。動いた拍子に、野田ナミ子の目から血の涙がこぼれ落ちた。真っ赤な一筋の血が、野田ナミ子の真っ青な頬を伝う。塔乃ユキ子は、ようやく声を出せたようで、野田陽子達を怒鳴るときの、何倍も大きな声で絶叫した。その声を聞いた北口さをりが、倒れていた勉強椅子のところまで駆け寄り、椅子を掴むと、校庭に面した窓ガラスへ向けて力いっぱい放り投げた。窓ガラスは大きな音を立てて砕け、北口さをりは、へたりこんで動けないでいる野田陽子の腕を無理やり引っ張り、教室の外へと脱出した。
「陽子、早くお家へ帰りな! お父さんとお母さんに言って、みんなで島から逃げるんだよ!」
「さをりは? 嫌だよ、一緒にいようよ」
「私もお父さん連れて逃げるからさ! 港でまた会おう」
二人は、それぞれの家へと全力で走って帰っていった。走る野田陽子の遥か頭上には、どす黒い大きな雲がじわりじわりとその面積を広げていた。この雲は並みの雨雲じゃない。島育ちの私は、ひと目でそう直感した。
野田陽子が家に着いた時には、既にパラパラと雨が降り始めていた。大嵐の前の、ひどくジメジメした空気が顔に纏わり付いてくる。家の中では、既に父も帰宅していて、両親揃って防災無線に聞き入っていた。野田陽子は、島から逃げようと両親を懸命に説得していたが、もちろん聞き入れてはもらえなかった。防災無線からは、嵐に備えて、明日の連絡船の運行は全て取りやめることが伝えられていた。明日は漁にも出られないな。父はそんなことをぼやいていた。
野田陽子は、絶望した面持ちで寝室へと入っていった。おそらく、北口さをりの家でも同じような光景が繰り広げられていただろう。窓には既に猛烈な雨が横殴りに叩きつけられていた。強烈な風に煽られている木の陰が、街灯の明かりで部屋全体に映し出されている。時々轟く雷が、部屋の中を一瞬眩しいほどに明るくする。その度に、部屋の隅にあのおぞましい女の姿があるのではないかと、戦々恐々としてしまう。雷が轟くたびに身を縮めている野田陽子も、おそらく同じ心境なのだろう。布団にくるまりながら、目だけはしきりにぎょろぎょろと動かし、辺りの様子を警戒しているようだった。結局夜が明けるまで、野田陽子は眠ることはなかった。
陽が昇ってからも、外の様子に変わりはなかった。どす黒く分厚い雲が空を覆い、野島と野田陽子の胸に暗い闇を落としていた。寝室の外からは、テレビの音が聞こえている。この嵐では、港に行くこともできないだろうから、今日は父はずっと家にいるはずだ。そのことが野田陽子にとって唯一の救いだった。昼も随分と過ぎた頃になって、ようやく嵐が弱まってきた。結局、一度も食事を取らなかった野田陽子は、陽が傾き、雨も上がった頃に、力尽きたのか泣き腫らした瞳を閉じて眠ってしまった。
私は、寝ている野田陽子の隣で、北口さをりのことを考えていた。彼女は、私たちの父親と塔乃ユキ子が絡み合っていたあの時、保健室の掃除道具入れのロッカーの中に隠れていたのではないか。そして、絡み合う二人の姿や扉の外からその様子を盗み見ていた野田陽子の姿を、ロッカーの中から見ていたのではないか。彼女は、私のことを、野田陽子のことを本当によく思ってくれていた。だからこそ、野田陽子のことを深く悲しませた塔乃ユキ子のことが、殺してしまいたいくらい憎かったのだろう。そして、ロッカーの中に隠れて二人の情事を見たあの時から、彼女にとっては私たちの父親の野田信夫も、野田陽子を悲しませる憎い存在になったのだろう。塔乃ユキ子に対する二人の共通の呪いは、そこで微妙なすれ違いをしていたようだ。
窓の外が白けてきた。昨日の夜明けとは打って変わって、小鳥のさえずりが聞こえるような爽やかな朝だった。寝室の外が慌ただしくなった。どうやら、父が港へと仕事に向かう準備を始めたようだ。野田陽子には、まだ起きる気配がない。
「陽子! いる?」
突然玄関から、北口さをりの声が聞こえた。その声を聞くやいなや、それまで死んだように眠っていた野田陽子が飛び起きた。
「お父さんが港に行ったの。今から漁に出る気だよ。説得して、みんなで島から逃げよう!」
「わかった、私も行く!」
そう言うと、野田陽子は北口さをりの後を寝巻き姿のまま追いかけた。
港では、海の男たちがまさに今から海へと出ようとしている姿があった。漁船のエンジンの調子を整え、大きな網などの漁道具を船に積み込んでいる。その男達に混じって、二人の父親も作業をしていた。昨日の雨雲に覆われた空とは比べ物にならない、広く高い秋空の下、二日ぶりに漁に出られるためか、二人の表情も晴れ渡っているようだった。空の高いところには海鳥たちが飛び交い、静かな水面の下では、無数の魚の背中がキラキラと朝の光を反射させていた。まるで、平和な海を楽しむように、群れをなして優雅に泳いでいる。
港の小さな船着場では、一昨日より停泊していた連絡船が、出航の準備を進めていた。既に乗客は乗船しているようで、船の操縦士であろう男が、船着場の隅っこに設けられた灰皿のところで煙草を吹かしている。あの一服が終わると出航するのだろう。
「お父さん!」
北口さをりが父に向かって叫んだ。北口武志は、北口さをりの姿を見つけると驚いたような困ったような表情を浮かべながら近づいてきた。その隣には私の父もついてきている。
「こんな所でどうしたんだ? 学校は行かなくてもいいのか?」
「それどころじゃないんだよ! 早く島を出ようよ! みんな死んじゃうよ!」
北口さをりは泣きながら訴えた。北口武志は、泣き出した愛娘の姿に、困った表情を一層色濃くさせた。
「そうだよ! みんなあの女に殺されちゃうよ! だから早く逃げようよお父さん!」
野田陽子も、北口さをりに続いて泣きながら訴えた。しかし、泣き喚く二人の思いは届いていないようで、二人の父親は困惑の表情を強めるだけだった。私の頭上で、海鳥が悲しく一鳴きした。
「そんなこと言ったって、なぁ」
北口武志は、隣にいる私の父親と、後方でこちらの様子を伺っている漁師仲間たちの顔を交互に見た。海の男たちは、先程までそれぞれに喋ったりしていたが、今は皆、一様に興味深そうにこちらの様子を眺めている。
「そうだぞ、陽子。もうお父さん達仕事に出なきゃダメなんだから。ほかの漁師さんにも迷惑がかかるんだから、もうよしなさい」
野島の玄関口とはいえ、十隻にも満たない漁船が停泊しているだけでいっぱいいっぱいのような小さな港だ。皆見知った顔の漁師仲間とはいえ、生活がかかっているのだから迷惑はかけられない。
「だって……死んじゃうかもしれないのに……」
港の空気の流れが変わった。頭上で飛び交っていた海鳥の鳴き声が遠のくように消えていった。冬の様相へと衣替えを始めていた景色に不似合いな、生暖かい風が吹いた。海の男たちも異変を感じたのか、こちらの様子を眺めていた海の男たちも、そわそわと辺りを気にし始めた。
船の汽笛が小さな港に鳴り響いた。まもなく連絡船が出航するようだ。船に取り付けられている、碇を繋ぐ鎖を巻き取るためのモーターが唸り始めた。太い鉄の棒が回転し鎖を巻き上げ、海底に沈んだ碇が引き上げられていく。誰もなにも言おうとしない。言葉を発することができないような、重苦しい空気が小さな港に立ち込めていた。
やがてゆっくりと碇が迫り上がってきた。その様子をじっと見ていた北口さをりが、それまでの沈黙を破って悲鳴を上げた。野田陽子は、ただ目を見開き呆然と立ち尽くしていた。二人の父やその漁師仲間たちは口々に何かを叫んでいる。先程までの静けさが嘘のように、小さな港は騒然とした。
碇には塔乃ユキ子が逆さまの格好で張り付けにされていた。完全に巻き上げられた碇は、船の傍らにぶら下がっており、時折強く吹く風に煽られゆらゆらと揺れていた。白目を剥いた塔乃ユキ子の顔からは、穴という穴から海水が溢れ出ていた。いつも露出の多い服装をしていて、短いスカートを履いていた記憶しかない彼女だったが、今目の前にいる彼女は、なにか白い着物のようなものを纏っているようだ。よく見てみると、それは真っ白な死装束だった。純白の衣装を纏い、逆さ釣りにされた塔乃ユキ子は、その細い体のどこに入っていたのかという程の大量の海水を、半開きの口からごぼごぼと垂れ流していた。
塔乃ユキ子を張り付けた船が、その異変に気づくことなく動き始めた。父とその漁師仲間たちが慌てて船を静止にかかる。北口武志は、倒れた北口さをりに寄り添っていた。どうやら北口さをりは失神してしまったらしい。北口武志はぐったりした愛娘を抱え、野島診療所へと走っていった。野田陽子がその場にへたりこんだ。港の入口の方から女の悲鳴が上がった。いつもタバコ屋の前で井戸端会議をしているおばさんたちのようだ。
父たちが緊急停止した連絡船の甲板に飛び乗り、碇に張り付けられている塔乃ユキ子を引き上げようとしている。もういい加減溢れ出る海水は止まっていたが、体を揺さぶられた拍子に、塔乃ユキ子の白目を剥いた左目から、血の涙が一滴溢れた。
気が付くと外は白けてきていた。十分に明るくなってから辺りを見渡すと、そこは私にとってとても馴染み深い場所であることが分かった。幼いころに足しげく通っていた、北口さをりの部屋だ。幼い私は、畳の部屋で両親とともに寝起きしていた自分とは違い、自分だけの、しかもフローリングの部屋をあてがわれている北口さをりの事が羨ましかった。そんな幼い私の思いを知ってか、北口さをりはよくこの部屋に私を招いてくれた。まるで二人の部屋であるかのように、部屋の隅のスペースを私の為に空けてくれたりしていた。幼い私にとっては、自分の家よりも落ち着ける空間だった。そんな思い出の詰まった部屋に私は立っていた。野田陽子の姿は見えない。どうやら私一人のようだ。ベッドの上には、今しがたまで人が入っていたように布団が無造作に捻じれている。北口さをりはどこに行ったのだろう。
「さをり、大丈夫か?」
扉の外から北口武志の声がした。どうやら、北口さをりの体調を気にしているようだ。昨日見た光景を考えれば、無理もないだろう。北口さをりは、診療所に運ばれたあとに自自宅に戻っていたらしい。
「さをり、まだ寝てるか?」
再度北口武志が扉の向こうから声をかけてきた。しかし、ベッドの上に北口さをりの姿はない。
入るぞ、という声とともに北口武志が部屋に入ってきた。しかし、部屋の中に愛娘の姿はない。北口武志はベッドの上のねじれた布団を払い除けたりして娘の姿を探していたが、ベッドの上にはもちろん、その下にも姿はなかった。部屋の中には、ベッドの下か押し入れぐらいしか隠れられるような場所はない。北口武志が部屋の中を探しているということは、部屋から出ていったということもないのだろう。
「さをり、いるのか?」
北口武志が扉の閉まった押し入れに向かって問いかけた。しかし、帰ってくる言葉はなく、嫌な静けさが存在感を大きくするばかりだ。
北口武志が押し入れに歩み寄り、扉をがらりと開け放った。途端に北口武志は叫び、泣き崩れた。北口さをりの名前を叫んだようだが、悲鳴のような、雄叫びのような彼の泣き声にそれはかき消された。彼の目の前には、上半身を何重にも捻られた北口さをりの姿が横たわっていた。既に事切れているのは一目瞭然の有様だ。その顔は、何かを絶叫するように口を縦長にいっぱいに開き、白目を剥いた目は上へと大きく釣り上がっていた。まるで凄まじい力で上下に引っ張られたような、青黒く変色した北口さをりの顔はそんな形相をしていた。
北口武志が情けない泣き声を漏らしながら、北口さをりの体を解こうと掴みかかっている。しかし、何重にも捻られた体は固く絞り上げられており、北口武志の力でもびくともしないようだった。くるくると捻られ、上半身が細長く伸びたその姿は、私の脳裏に蛇の交尾を連想させた。
北口武志の悲痛な泣き声を聞いた隣のおばさんが血相を変えて部屋に飛び込んできた。押入れの前で泣き崩れる北口武志に駆け寄ったおばさんは、次の瞬間には目をひん剥いて卒倒していた。部屋の外に集まっていた他の隣人たちも、その様子を見てただ事ではないと感じたのだろう。誰も部屋に入ろうとせず、北口武志の泣き声と、倒れたおばさんの口から流れ出る泡が弾ける音に聞き耳を立てていた。
周囲の場面が変わった。すでに陽は高く昇っているようで、私の周りは一面の海になっていた。私はどうやら小さな漁船の上にいるらしかった。波が船の下の海面を通る度に船が揺られ、私の胸に不快な吐き気をもたらす。甲板の上では、私の父が仕掛けた罠を回収する作業をしていた。船の周りの海面には、いくつかのオレンジ色をしたブイが浮き沈みしている。
父が幾つめかの仕掛けを引き上げた。仕掛けには数匹の小ぶりの魚が掛かっていた。皆一様に、苦しそうに口で荒い息をしている。父はその魚たちを一匹一匹針から丁寧に外しながら、物悲しげに深くため息をついた。いつも一緒に船に乗っていた北口武志は、愛娘の死からまだ立ち直ることができていないようだ。父は、手にした魚を水槽へと放り込み、再びため息をついた。
私たちの頭上で海鳥が鳴いた。見上げてみると、一羽の海鳥がぐるぐると私たちの頭上を周回している。釣り上げた魚を狙っているのだろうか。しかし、周囲には他の海鳥の姿はなく、その一羽だけがぐるぐると回り、私たちに向けて懸命に鳴いているようだった。その姿は、まるで何かを警告しているようだった。父が、海鳥の存在に気づいたのか、迷惑そうに眉間に皺を寄せながら頭上を見上げた。
「うるさいよ!」
父の怒鳴り声が届いたのか、海鳥はぴたりと動きを止めた。推力を失った海鳥は滑空しながら急降下し、再び浮き上がることなく船の傍らの海面へと墜落した。海中に沈んだ海鳥の体は、何かに首を掴まれ引き込まれるように、長い首を下にして海底へと沈んでいった。父は墜落した海鳥に驚いていた様子だったが、直ぐに気を取り直し、次の仕掛けのポイントへと船を移動させた。
船をブイに寄せ、父が海面に浮かぶブイを手繰り寄せようと船から身を乗り出すと、父の真下の海面から大きな泡が、ボコッという音を立てて湧き出てきた。父は一瞬身を引っ込めたが、すぐにまたブイを手繰り寄せ、仕掛けを引き上げ始めた。引き上げ始めるとすぐに魚が掛かっていたが、その魚は何故か黒く腐ったような色をしている。すでに死んでいるのか、ピクリとも動く気配はない。父が魚を手に取り、不思議そうに見つめていると、再び海面に大きな泡が湧き出てきた。今度は途切れることなく、無数の泡が暗い海底からぼこぼこと上がっている。父が立ち上がり海底を覗き込んだ。大きな泡はなおも出続けている。海底を見つめる父の表情はこわばっていた。
不意に、父の背後の海面から何かが飛び出してきた。何かは、父の背中に抱きつくと、両腕を父の首に回し、体重をかけ父の体を大きく仰け反らせた。父の背中にしがみついているのは、教室で見たときと同じ死装束を纏った野田ナミ子だった。突然の事に声も出せない父は、何とか踏ん張りながら首にまとわりついた腕を解こうと、野田ナミ子の青い腕を掴んだ。野田ナミ子は父の顔の隣にぴたりと顔を寄せつけ、大きく見開いた目を横にいっぱいに寄せ、父の目を覗き見た。野田ナミ子と目があった父は、ぐふっと口から苦しそうに息を漏らし、体をよろめかせた。野田ナミ子がさらに体重をかけると、父の体は背後に引き倒された。野田ナミ子と引き倒された父の体は、甲板に叩きつけられることなく、私の予想に反して甲板をすり抜け消えてしまった。船の下からドボンという音が聞こえた。船のすぐ横の海面からは、苦しそうな泡が二、三度湧き出てきたが、すぐに途絶えてしまった。そのあとは、本当に静かな海だった。
あれから何日が経ったのだろう。私は、辛気臭い葬儀の場にいた。私の生家には、近所の人や島外に住んでいる遠縁の親類や父の漁師仲間たちが押し寄せ、狭い仏間にすし詰めになっていた。仏壇の前には、大柄だった父が入っているであろう大きな柩が安置され、その前で母が泣き崩れていた。泣き崩れる母の隣には、茫然自失といった様子の野田陽子の姿があった。もはや流れる涙も枯渇してしまったようで、項垂れながら、光の無い目で父の入った柩をただ見つめていた。
やがて、お坊さんが部屋に入ってきた。つい先日に行われた、北口さをりの葬儀の時と同じ人だ。お坊さんは、あの時と同じように柩の前で仰々しく合掌をすると、険しい表情を浮かべながら柩の窓に手をかけた。一瞬躊躇するような間を入れて窓を開けたお坊さんは、途端に力の抜けた表情になった。北口さをりの時と比べ、父は普通の姿をしていたからだろう。確かに、傍から見れば普通の水死体だが、野田ナミ子に殺されたことに変わりはない。
私は、お坊さんの読経が始まると、最前列の端っこに座った。最前列の中央には、泣き続ける母と死んだような目をしている野田陽子の姿がある。その対照的な二人の姿は、参列者の涙を誘うようで、私の隣に座っている近所のおばさんも、しきりに可哀想に、と呟きながら嗚咽を漏らしていた。おそらく、野田陽子が涙も出ないくらいに悲しみに打ちひしがれていると感じたのだろう。しかし、今の野田陽子を支配してるのは、悲しみというよりも絶望の方が大きいだろう。
不意に、どこからか水が湧き出てくるような音が聞こえてきた。私は辺りを見回したが、水が漏れているような様子は見受けられない。参列者が並んでいる後方からは、すすり泣く声が聞こえてくるばかりだ。仕方なく視線を下に戻すと、畳に水溜りができているのに気づいた。隣の座布団の下から水がとくとくと湧き出ているのだ。
顔を上げた私の隣に正座していたのは、こちらを凝視している野田ナミ子だった。私が驚きの声を上げる前に、野田ナミ子は私に掴みかかってきた。私を押し倒した野田ナミ子は、その青い手で私の首を絞め上げてくる。参列者が一斉に私の方を向いた。その目は、皆一様に黒く窪んでいる。それは、野田ヒサノの部屋で見た野田ナミ子の遺影そのものだった。目に見える物の輪郭がぼやけてきた。目の前にいる野田ナミ子の輪郭でさえも、細かい粒子状に崩れていく。野田ナミ子越しに見えている父の柩の蓋が、大きな音ともに上に弾け飛んだ。柩の中から、黒く汚れた水が凄い勢いで溢れ出てきた。溢れ出た汚水が畳を伝い、お坊さんや参列者たちの座る座布団を湿らせていく。ふと、お坊さんの首が無くなっていることに気づいた。首は、お坊さんのすぐ傍らに落ちていた。お坊さんは、木魚の代わりに自分の坊主頭を、撥でリズミカルに叩いていた。
野田ナミ子が、私の首を絞める力を強めてきた。そして、ぐぐっと私に耳元に顔を寄せ、女の声とは到底思えない、地獄の底から絞り上げるような低い声で、私の鼓膜を振動させた。
紅い夕日に照らされた
ここで私は死にました
彼岸花が野淵を彩る
今日の太陽は紅く熟れ
私の頬を染め上げます
けれども私が逝く先の
地獄の業火はなお紅い
焼き尽くされた私の体は
もはや骨すら残りません
思い出や喜びや悲しみや
心に残るあなたの顔さえ焼き払い
呪いだけが残ります
人とは悲しい宿命です
呪い呪われまた呪い
最期は地獄に落ちるのです
あゝ夕陽が燃えている
もっともっと燃え上がれ
哀れな人々を照らし出せ
地獄の業火で焼き尽くせ
私の目の前に、紅い光景が広がった。一人の女が、ひたすらに山道を登っている。途中で道端に咲いている彼岸花を見つけると、逃すことなく摘み取り、大きな紅い花束をこさえていた。その足取りは軽く、先ほど耳元で囁かれた遺書ともいえる詩を、抑揚をつけて口ずさんでいる。その表情には笑顔が見られた。
やがて、景色が開けた。崖っぷちに出たらしい。紛れもない、地獄崖の上から見た光景だ。女はスキップを踏むように崖の際まで歩み寄ると、彼岸花の花束を海に向かって放り投げた。花束は空中でバラバラになり、崖の下の海面に紅い絨毯を敷いた。女は、一瞬の躊躇もなく、その絨毯へ向かって飛び込んだ。
遥か海の彼方では、紅い夕陽が水平線の向こう側へ沈もうとしていた。心なしか、夕陽が笑っているように見えた。
「……先生、先生」
はっと目を覚ますと、私は野島診療所の診察室にいた。どうやら事務机に頬杖をつき居眠りをしていたらしい。時計の針はもうすぐ十二時を指そうとしていた。まもなく診療時間が終わる。今日も来院患者が来ることはなかった。野田敬子は訪問診療に向かう準備を始めている。私も手伝おうと腰を上げたが、やんわりと断られた。
「先生は昼食をとっていてください。準備が整い次第すぐに出発しますから」
あいにく、今は食事が喉を通りそうにない。しかし、他にやることのない私は手持ち無沙汰になり、仕方なく元いた事務椅子に再び腰を下ろした。
嫌な夢を見てしまった。ここ最近は見ることもなかったのだが、野島に帰ってきた影響か、いつもよりも嫌に鮮明に見てしまった。私が夢の中で感じた匂いや温度は妙に現実味を帯びていて、目が覚めた今も、つい先ほどまで漂っていたかのように、父の葬儀の場で漂っていた線香の匂いが鼻の奥に残っている。
私の視界の隅に、事務机の上に置かれた卓上サイズの鏡が映った。その鏡に映っている私の首筋に、ほんのうっすらと、手で首を絞められたような跡が残っている。私が首を撫でると、それは跡形もなく消えていた。何だ、気のせいか。私は自分を納得させた。
紅い夕陽に照らされた、ここで私は死にました。野田ナミ子が、自らの最期を詠ったのだろうか。詩の最後には、野島の住民に対するであろう恨み節が詠まれていた。野田ナミ子は死んだ後もその恨みを忘れることなく、怨霊となってこの島に君臨し続けている。その呪いは止まるところを知らないようだ。逃れる術はないのだろうか。
一体、誰が扉を開けたのだろう。そして、いったい誰が呪われているのだろう。その誰かを助けることはできないのだろうか。もし助けることができななら、私に掛けられた呪いを解く方法も見つかるかもしれないというのに。何か、手がかりはないものだろうか。
時計が機械的な音楽を奏でた。どうやら十二時になったらしい。このまま椅子に座っていても、考えが煮詰まるだけだ。私は思い直し、業務日誌をつけようと事務机の横長の引き出しを開けた。すると、引き出しの中には業務日誌とともに、青色のノートが入っていた。寺谷が付けていた、祠の観察日誌だ。昨日の晩にここで読んだまま引き出しに入れっぱなしになっていたらしい。
呪いに関する手がかりがなにか掴めるとしたら、このノートしかないのかもしれない。私はパラパラとノートをめくってみた。ノートは半分ほどしか使われておらず、後半は空白のページが続いていた。しかし、パラパラと次々に過ぎていく空白のページに、一瞬文字のようなものが見えた。慌ててページを戻っていくと、ノートの最後から数ページ戻った所に、走り書きで、地獄崖、と書かれていた。書かれていたのはたったそれだけで、他の空白のページにも何も書かれていない。
かなり慌てて書かれたようなその字体からは、誰が書いたものであるか予想するのは難しかった。おそらくこのノートの持ち主である寺谷が書いたのだろうが、私には寺谷が私に対して送ったメッセージに見えて仕方なかった。地獄崖。かつて、野田ナミ子がその命を自ら絶った地である。そこに何か手がかりがあるのだろうか。
「行きましょう、先生」
診療所の玄関から、野田敬子の声が聞こえた。どうやら訪問診療へ向かう準備が整ったらしい。私は、書き終えた業務日誌と寺谷が付けていた日誌を引き出しに押し戻し、すでにエンジンの掛かっているバンに小走りに向かった。
「紅い夕陽に照らされた、ここで私は死にました」
運転している野田敬子が聞き覚えのある詩を口ずさんでいる。夢で聞いた、野田ナミ子の遺言の詩だ。なぜ野田敬子がこの詩を知っているのだろう。そういえば、野田ヒサノもこの詩をうわ言のように歌っていた。野田敬子はそれを覚えたのだろうか。
「けれども私が逝く先の、地獄の業火はなお紅い……先生、天国に行く方法を知っていますか?」
私たちが乗った車が、並んで歩く二人組の老婆を追い抜いた。二人とも、くの字に腰を曲げ、腰の後ろで両手を組んだ格好をしている。来ている服も同じような色なので、一見すると同じ人間がダブって見えているように思えた。そんな二人の老婆を目で追っていた私に、野田敬子が唐突な質問をしてきた。どこかで聞いたような内容だ。私が返答できずに黙っていると、そんな私の返答など待っていなかったかのように、独り言のように野田敬子は続けた。
「死ぬ時に、上を向いていれば天国へ行けるそうですよ。逆に、地面を向いて死んでしまったら地獄へ落ちるそうですよ。地獄は、私たちの足元にあるんですね。天国よりも、身近な存在なんですね」
野田敬子は嬉しそうに静かな声で一方的に話した。車の前方には、腰をくの字に曲げた老婆が歩いている。先ほどの二人組の老婆と同じ、青いじんべえを羽織っている。しわくちゃの両手を腰に回し、トボトボと道の傍を歩いている。
「地獄の人たちは、鬼にしごかれながら何を思っているんでしょうね。打ちひしがれて、骨だけになった体で寝っ転がりながら、さぞ恨めしい目で私たちのことを見ているんでしょうね」
「……ど、どこでその話聞いたんですか? 私の昔の知り合いも同じような話を知ってましたよ」
「先生のことはなんでも知っていますよ。五十年以上も生きてるんですから」
私たちが乗る車が腰の曲がった老婆を追い越した。前方には既に次の老婆が見えている。先ほどまでの老婆と同じように、腰をくの字に曲げ、しわくちゃの両手を腰で組み、青いじんべえを羽織っている。私の中に、研修医の頃に感じた感覚が蘇ってくるのを感じた。内科の研修医をしていた頃の、あの感覚が。
「今日はやけに人が多いですね。先生が戻ってきたことを、島が歓迎しているみたい」
野田敬子は、前方をトボトボ歩く老婆を追い抜くことなく、狭い十字路を右に曲がり、急な坂道をアクセルを踏み込んで登り始めた。登り始めてほどなくすると、訪問先の家に到着した。エンジンを切り、煩いエンジン音が止むと、周囲の静かな音が耳に入ってくる。遠くの方から聞こえるさざ波の音に混じって、小太鼓を叩く音が微かに聞こえる。どこかで誰かが叩いているのだろう。
「ぽん、ぽん」
私の隣を歩く野田敬子が、小太鼓の音に合わせるように小さな声で口ずさんでいる。家の玄関先に着くと、ふふっと笑い、なんの断りを入れることもなく、ガラリと玄関扉を開けた。
大きな家の和室には、一人の小さな老婆が横になっていた。電気はついているが薄暗く、畳や壁を黄色く照らし出している。野田ヒサノの家ほどではないが、大きな仏壇がどっしりと私たちを迎えてくれた。仏壇の横の壁には、先祖のものであろう遺影写真が並べられている。写真の目がみんなこちらを向いているように思えるのは、おそらく気のせいだろう。
部屋に入ると、野田敬子は肩から下げた大きなバッグを下ろし、さっさと隣の部屋に行ってしまった。隣はどうやら台所のようだ。野田ヒサノの時のように、粥を作るのだろう。私は老婆の上半身を起こすと、携えた鞄の中から聴診器を取り出し、小さな老婆の体の診察を始めた。
「はい、息を大きく吸ってください」
私の呼びかけに反応し、老婆の胸が膨らんだ。老婆の胸に当てた聴診器を通して、老婆の呼吸音が私の耳に入ってくる。その音には、僅かな濁りも感じられない。
「はい、大丈夫ですよ」
聴診器を外し、たくしあげていた老婆の服を下ろすと、老婆は私の方へと顔を向け、しぼんだ瞼をぐにゃりと開いた。瞼の奥では、光のない眼球が二つ、じっと私を見据えている。その眼球が、突然ぐるりと外側を向いた。同時に外側に向けられた黒目が、小刻みに上下に動いている。私は、あっと声を上げ老婆から離れた。私の支えがなくなった老婆の上半身は、そのまま布団へばたんと倒れた。その目には、しぼんだ瞼が再び蓋をしていた。
「さあ、お粥を食べましょうね」
野田敬子が、両手でお盆を持ちながら部屋に戻ってきた。そして老婆の傍らに腰を下ろし、老婆を再び起き上がらせると、粥を食べさせ始めた。
私は鞄から筆記具を取り出し、老婆のカルテをつけた。先程の老婆の目はなんだったのだろう。人間の目は、普通だったらあの様には動かないはずだ。もしかしたら、何かの病気のサインかもしれない。私は、粥を咀嚼している老婆の顔をよく観察してみた。老婆は口を動かすのに夢中で、瞼を半分ほど閉じているためよく見えないが、今は特に異常はないようだ。
それよりも、さらに奇妙な点に気づいた。老婆は、野田敬子が差し出したレンゲを口に含み、レンゲの粥を掬い取り咀嚼しているのだが、野田敬子が次々と差し出すレンゲには、何ものっていないのだ。野田敬子は老婆の口に空のレンゲを差し出し、老婆は空気を咀嚼しているのだ。野田敬子は時折レンゲに息を吹きかけ、何かを冷ますような仕草をしている。空気をひたすらに咀嚼している老婆の目からは、生気が欠片も感じられなかった。
私は気付かれないように視線をカルテに戻し、続きを書き始めた。あれは野田敬子のやり方なのだ。私が口出しすべきではない。この島には、野田敬子以外に私の味方はいないのだ。彼女を信じるしかない。
カルテを書き終え、私は視線を老婆に戻した。いつの間にか老婆は食事を終え、再び布団に横になっていた。何故か私の方を見て怯えたような表情をしている。どうかしたの、と声をかけようとしたが、老婆が私の隣を見て怯えていることに気づいて思い止まった。横目で隣を確認すると、正座している野田敬子の足が視界の端に映った。いつの間にか、私の隣に座っていたのだ。何か、空気が漏れるような音が聞こえる。歯を食いしばり、口を横にいっぱいに広げながら息を吐いた時に、口の両端から出るような、唾液が絡んだ空気の漏れる音。おそらく、老婆は野田敬子の顔を見て怯えているのだろう。野田敬子は一体どんな表情をしているのだろう。
「先生、そろそろ行きましょう」
空気の漏れる音が止んだのと同時に、野田敬子の声がした。私は、ようやく野田敬子の顔を見ることができた。その表情は至って普通なのだが、口の両端には、うっすらと唾液の跡が残っていた。老婆は再び眠りについたらしい。微かな寝息が聞こえていた。今のは野田敬子なりの老人を寝かしつける方法なのだろう。そうに違いない。
帰る支度をし、カルテを片付けていると、先ほど書いたカルテに、書いた覚えのない文字があるのに気づいた。地獄崖。そこには、私の文字で確かにそう書かれていた。無意識のうちに書いたのだろうか。寺谷のノートに書かれていた走り書きのことが、よほど忘れられないのだろう。地獄崖に行けば、何かわかるのだろうか。寺谷が待っているのだろうか。彼は、私の味方なのだろうか。
私が車に乗りこんだのを確認すると、野田敬子は車を発進させた。車は、急な坂道をゆっくりと降り、元来た道を診療所へと戻っていく。来るときには、何人もの老婆とすれ違ったが、今は後にも先にも人っ子一人いない道が続いている。無理もない。少ない島民の大半が足腰の弱った老人なのだ。出歩く機会も限られているだろう。今のこの光景の方が、普段通りなのだろう。
帰りの車内では、野田敬子は一言も話すことはなかった。ひたすらにうっすらと笑みを浮かべ、誰もいない前方を見つめながら黙々と車を運転していた。沈黙に耐え切れず、何か話しかけようかとも思ったが、何かこの沈黙を破るべきではないような、そんな気配を感じ、結局診療所に着くまで車内に一言も会話が生まれることはなかった。
「先生、では私はこれで」
訪問診療の道具を片付け終えると、野田敬子は早々に家路に着いてしまった。昨日よりも一時間も早い退社だ。まあ、このまま診療所に残っていても、特にすることもないので問題はないのだが。
私は寺谷が書いた日誌を取り出し、地獄崖と走り書きされていたページを開いた。一体何のために寺谷はこれを書いたのだろう。寺谷は地獄崖で何を見たのだろうか。寺谷が失踪した理由も、そこに行けばわかるのだろうか。何の道、私の元にはこれ以外に手掛かりはないのだ。気は進まないが、実際にそこに出向かなければ事態の進展はないだろう。幸いなことに陽はまだ高い位置にいる。幼い頃にはえらく長い道程に感じたが、大人の足なら、急げば陽が落ちる前に行って戻ってくることができるだろう。
私は一度自宅に戻り、動きやすいジーンズとスニーカーに履き替え、徐々に冷たくなってきた外気を考慮して上着を一枚羽織った。自宅の玄関のすぐ横には、いつの間にか数輪の彼岸花が咲いていた。今朝はこんなものあっただろうか。頭に湧いてきた疑念を払拭した私は、その彼岸花を抜き取り、輪ゴムで束にした。かつて野田ナミ子が自らの死に場所に撒いた花と同じ、真っ紅な彼岸花。花束一つで呪いが解けるとは思わないが、手向ければ多少なりとも慰めにはなるだろう。尤も、野田ナミ子の魂は地獄がけにはおらず、野山の祠に入っているのであるが。そしてその祠も今は空っぽになっている。野田ナミ子は何処にいるのだろうか。
左右に田んぼが広がっている六区の道を抜けると、地獄崖に続くでこぼことした山道が口を開けていた。ここまで早足できた私の息は軽く上がっていたが、明かりのない真っ暗な山道を下ることを考えると足を休めてはいられない。昨日の晩には度胸崖との分岐点まで登ったが、地獄崖へ向かうにはそこから更に険しい道を登らなければならないのだ。
昨日来た時には暗くて分からなかったが、地面をくり貫いたような山道の両側には、山の地肌を隠すように草木が生えており、私の進路を伸ばした草枝で邪魔している。相当長い間人の手が入っていないのだろう。歩く度に足元の草が私の足首を撫で、前方を塞いでいる小枝を払い除ける度に、ペキペキと小枝のへし折れる音がする。周囲の木々の枝が頭上にアーチ状の屋根を敷いている為、じめじめと薄暗い道が延々と続いている。私の足元は、今にも蛇が飛び出してきそうな程鬱蒼としているが、先程山道に入ってから、何故か動物の気配を感じない。小動物の足音や鳥の囀りなどが全く聞こえないのだ。風に揺られた葉の擦れる音だけが私を囲んでいる。孤独に響く、私の荒い息遣いが周囲の淋しさを実感させた。
程なくして、度胸崖との分岐点に辿り着いた。山道は左右に分かれて続いており、右を行けば度胸崖に出ることができる。そして、左に進めば地獄崖だ。心なしか、左に続く山道は、さらに鬱蒼としていて心細く感じた。
私は、左の道を突き進んだ。躊躇している暇はない。こんな気味の悪い、ただでさえ暗い山道を、陽が落ちてから歩きたくはない。しかし、進むにつれ足元や周囲を覆う草木は量を増し、私の足に容赦なく絡みついてくる。私はその絡みついてくる草を蹴散らしながら懸命に前へと進んだ。
紅い夕陽に照らされた、ここで私は死にました。無意識のうちに、私は野田ナミ子の遺言の詩を口ずさんでいた。すぐ我に返り、前方を見ると、そこには開けた光景が広がっていた。夢の中で見たものと同じ、地獄崖の光景だ。夢の中では、夕陽に照らされ燃えるような光景が野田ナミ子越しに見えていたが、今はまだ夕陽の時間には早いようだ。
木々のトンネルを抜けると、途端に波の音や潮の香りが押し寄せてきた。森の中にいる時には、微塵も感じることができなかったのに。私は、地獄崖の周辺を散策してみたが、なにせ足場が悪く、長い草に覆われていて足元も見えない。柵なども設けられていないので、足の置き場を間違えると崖の下へと滑落してしまう。自由に歩ける範囲が限られているので、手掛かりなど探しようがなかった。一目でここには何もないとわかるような狭い場所だった。
私は地獄崖の先端に立ち、真下の海面を覗いた。地獄崖の先端は突き出た格好をしていて、飛び降りても岩肌にぶつかることはないだろう。その変わり、遥か眼下の海面には無数の岩が突き出ており、島の周辺はかなりの浅瀬で、岩で出来た海底が崖の上からでも見える程だ。飛び降りれば、確実に死ぬだろう。
寺谷はここで何を知ったのだろうか。私に何かを伝えたかったのではないのか。私の思い過ごしだったのだろうか。ここから見えるのは、海が水平線の向こう側まで続く虚しい景色だけだ。呪いを解く鍵も希望の光も見えない。私は、眼下に広がる海へと、彼岸花の花束を放り投げた。花束は吸い込まれるように落ちていき、音もなく海面に着水した。崖の上から見ると、花束は海面に浮かぶ赤い点にしか見えなかった。
急に辺りが紅くなってきた。正面を見ると、太陽は既に水平線の向こう側へその姿を隠し始めている。先程まではあんなに明るかったのに、日没はもう目前に迫っていた。夕陽が私の体を紅く染め上げていく。風が出てきたのか、夢の中で聞いたものと同じ唸り声が、地獄崖の底から響いてきた。潮風が崖にぶつかり、唸り声とともに猛烈に吹き上がってくるのだ。早く帰らなければ。私は踵を返し、早足で山道を下り始めた。
ほとんど走るように山道を下り、途中何度か転びそうになりながらも、なんとか明るいうちに度胸崖との分岐点まで戻ってくることができた。頭上を見上げてみると、既に野島灯台が稼働し始めている。私は上がる息を抑え、山道を下る足を速めた。
周囲が薄暗くなってきた頃に、ようやく私は森を抜け六区の舗装された道に戻ってくることができた。と言っても、周囲に田んぼしかないこの道にも、灯りが設置されている訳ではないが、鬱蒼とした薄気味悪い山道と比べると別世界のように思える。
「せんせい。……先生、先生」
薄暗く見通しの効かない前方から声が聞こえた。先生とは私のことを呼んでいるのだろうか。おそらくそうだろう。野島小学校は既に閉校しているので、この島で先生と呼ばれるのは私ぐらいしかいない。私は目を細め声の主を探した。
「先生、先生」
抑揚のない声で、一定の間隔を開けて声が聞こえる。この声には聞き覚えがある。野田敬子の声だ。声の出処がわからないまましばらく道を歩いていると、前方に人の姿が見えた。白い服を着ているので、薄暗い中でもぼうっと浮き上がったように見える。さらに近づくと、顔が確認できた。野田敬子だ。
「先生、先生」
しかし、野田敬子は私に向かってではなく、道の横に広がっている広い田んぼに向かって、相変わらずの抑揚のない声で声を掛け続けている。
「……敬子さん?」
「……あら、先生。そちらにいらっしゃったんですか」
そう言いながら野田敬子は再び田んぼを振り返った。辺りはどんどんと暗くなっていき、既に視界のほとんどが暗闇に覆われているのだが、その暗闇の中、田んぼの真ん中に人影があるのが見えた。長い髪が風に靡いている。髪が暗闇と同色な為よくは分からないが、どうやら私たちに背中を向けているらしい。
「先生に似てたから……」
「……案山子ですかね?」
その小柄で痩せ型の案山子は、地味な色の上着を羽織っていた。なるほど、確かに暗闇の中で見ると、私の姿に一瞬見えなくもない。背格好が似ているからだろうが、鬘や上着や体型まで与えられた案山子は、気味悪い事この上なかった。あそこまで精密に作りこまれているのだから、その正面の見た目も気にはなったが、確認する勇気は私にはなかった。
「それじゃあ、私はこれで」
そう言い残し、野田敬子は案山子のいる田んぼを挟んだ向こう側の家に帰っていった。昨日の晩にこの辺で唯一明かりのついていた家だ。やはりあそこが野田敬子の家だったのだ。私は野田敬子が家に入るのを見送ってから、田んぼの真ん中に佇んでいる案山子が視界に入らないように家路を急いだ。
中野の中心に戻ってきた頃には、既に陽はどっぷりと暮れていた。真っ黒な闇が野島を覆い尽くしているようだ。私は自宅には戻らず、診療所へと向かった。寺谷が残した日誌を、もう一度よく見直す為である。何か手掛かりを見落としているかもしれない。一見しただけでは気づかないような小さな手掛かりでも、今の私には大きな助けになるかもしれない。
診療所の玄関を開けると、私は明かりもつけずに宿直室へと向かった。畳の上に重ねられたダンボールの中から、寺谷と側面に書かれたものを引っ張りだし、診察室の事務机へと持ち込んだ。ダンボールの中には、祠の観察記録が書かれた数十冊のノートが無造作に押し込まれている。私は、それを古いものから順に、一ページずつ確認していった。少しでも引っかかる所があれば、それが手掛かりに繋がるかもしれない。
しかし、数十冊に渡る観察日誌には、殆どのページに、今日も異常は見受けられない、としか書かれていなかった。ごく稀に、その季節の野山の描写などが、事細かに書かれていることがあるが、それが手掛かりに繋がるとは思えなかった。それ以外は、本当に内容のないつまらないものだった。
全てのノートを読み終え、私が疲れた目を擦りながら時計を確認すると、既に夜の九時を回っていた。約三時間ほどを費やしてノートを隈無く調べ上げたが、これといった成果を上げることはできなかった。やはり、一番新しいノートの空白のページに走り書きされた、地獄崖の三文字が引っかかる。そのことを再確認させられただけだった。しかし、地獄崖に実際に足を運んでも、何の手掛かりも掴むことはできなかった。何故なのか。もしかしたら、タイミングがあるのだろうか。まだ、其処に行くべき時期ではないのだろうか。
寺谷のノートを全てダンボールに戻し、事務机に置いてあった飲みかけのコーヒーを流しに捨てた。ダンボールを宿直室に片付けるのは明日でも構わないだろう。どうせ、明日の朝に私が出勤するまで、誰が入ってくることもないのだから。それよりも、今日は疲れてしまった。自宅に帰って休む方が先決だ。
部屋の明かりを消す前に、私は東京の上野の自宅に再度電話をかけてみた。静まり返った部屋の中に、私の耳と受話器の隙間から漏れるコールの音だけが響き渡る。上野の家では、これの何倍も大きなコールが鳴り響いているはずだが、一向に応答する気配はない。既に数分が過ぎ、数十回のコールが鳴っているはずである。やはり留守なのだろうか。
診察室の窓が、がたがたと揺れ始めた。どうやら風が強くなってきたらしい。揺れる窓の外からは、風の吹き鳴らす音が聞こえている。また窓が強く揺れた。それと同時に、机の上に重なっていた書類が宙を舞った。どこからか、風が吹き込んでいるようだ。心なしか、部屋の温度も下がったように感じる。小さく身震いした私は、諦めて帰ろうと、相変わらずコールし続けている受話器から耳を離した。電話に受話器を置く直前に、受話器の向こうから波音が聞こえた気がしたのは、私の空耳か、風の気紛れな悪戯だろう。
診察室の明かりを消し、診療所の玄関を出ると、外には猛烈な風が吹き荒んでいた。嵐の前触れだろうか。縦横無尽に行き交う風が、下手くそな笛の音色を奏でている。私は、風に煽られ顔に絡みつく、自分の髪を払い除けながら、診療所の真裏の自宅へと急いだ。どこからか、何かを打ち付けるような激しい音が聞こえてきた。猛烈な風に、材木か何かが飛ばされたのだろう。港には廃材やら何やらが積み上げられている。この調子では、明日の連絡船は欠航かもしれない。
自宅の玄関に入ると、ようやく私は猛烈に吹き付ける風から解放された。家の外壁が、吹き荒ぶ風から私を守ってくれている。時折家がぎしぎしと音を立てて揺れるのは、強い風に煽られているからだろうか。もしそうだとしたら、明日の朝まで、建っていられるだろうか。
食事を摂る間もなく、私はソファに横になった。肘掛けに首を預けると、自然と瞼が落ちてきた。目に相当疲労が溜まっていたのだろう。瞼の奥がじんわりと熱を帯びているように感じる。こうなるともう目を開けることはできない。荒れ狂う風の息吹を聞きながら、私の意識が徐々に薄れていくのを感じた。
どれくらい時間が経っただろうか。私が目を覚ますと、既に窓からは日光が差していた。時間は分からないが、太陽は既に結構高い位置まで登っているようだ。私は欠伸を手で押さえながらゆっくりと起き上がった。何故か寝坊したことに対する焦りはなかった。今日は診療所に出勤しなくていいような、そんな気がしていた。
何を思ったのか、私は部屋から廊下へと向かった。廊下へ足を一歩踏み出そうとした時、何かが私の行く手を塞いだ。下を見ると、私の腰辺りに、小さな女児の頭がある。どうやら、部屋から廊下へ出たすぐの所に立っていたらしい。寝呆けた頭で見落としていたのだろうか。私は思わず、ごめんなさい、と一歩下がってしまった。その女児は、俯きつっ立ったまま微動だにしない。
一歩下がったところで、ようやく頭が回転しだした。いくら寝呆けた頭でも、目の前にいる子供を見落とす訳はないだろう。それに、ここは私の家だ。この子はどうやって入ったのか。ましてや、この島には子供はいない。この子は一体どこから来たのだろう。
俯き微動だにしない女児と、それを見つめる私の間で徐々に緊張が高まっていく。そして、無意識になのか意識的になのか、私の口からごく自然に言葉が漏れた。
「……さをり?」
途端に女児が頭をがばっと持ち上げた。その生気のない青白い顔は、紛れもない北口さをりだった。北口さをりは、私を一秒ほど眺めた後、無言で玄関へと廊下を走り出した。慌てて後を追い、玄関を飛び出したが、北口さをりは既に遥か向こうの曲がり角を曲がっていた。急いでスニーカーを引っ掛け、その後を追った。
曲がり角を曲がると、その先にある港へと続く道を走る北口さをりの後ろ姿が見えた。
「待って!」
私は大声でその後ろ姿に声を掛け、息を弾ませながら後を追いかけた。北口さをりは、港へと続く角を曲がり、再び姿が見えなくなってしまった。遅れて私が港へ着いた時には、既に北口さをりの姿はなくなっていた。その代わり、見覚えのある、懐かしい二人の姿があった。塔乃ユキ子と私の父だ。
二人は、私の記憶しているままの、私が子供の頃に見ていた二人の姿で立っていた。しかし、その色がどうもおかしい。顔色などではなく、体全体の色が、二人ともコンクリートのような色をしているのだ。もう少し近づいてみてみると、その肌までもコンクリートのような質感になっている。表面にブツブツと気泡のような黒い穴が無数に空いており、触らなくてもザラザラとした触感が伝わってくるほど、その表面はでこぼことしていた。項垂れたままピクリとも動かないその姿は、この二人は本当にコンクリートで出来た石像なのではないかと疑わせた。しかし、二人が石像でないことは明らかだった。私の耳には、先程からぼそぼそと話す二人の声が聞こえているのだ。
「モウネナサイ、ヨウコ……モウネナサイ、ヨウコ……」
「ハヤクセキニツキナサイ……ハヤクセキニツキナサイ……」
二人とも、まるで機械仕掛けのように同じ言葉を繰り返している。俯いているからか、二人の声はどちらも暗く沈んでいるが、紛れもない塔野ユキ子と父の声だ。
しばらくすると、二人の無機質な声は止んだ。そして、少しの沈黙の後、二人の体が突然ぐるりと私の方を向いた。その動きは、オルゴールに取り付けられた陶器の人形のように、本当に機械的なものだった。二人は俯いたまま、ゆっくりと前進し私との距離を縮めてくる。堪らなくなった私は後方へ逃げようとしたが、右手を誰かに掴まれてしまった。その手は小さく冷たい子供の手だったが、象のように力強く重かった。勢いをつけて引っ張っても腕がピンと伸びるばかりで、私は引き戻される格好になってしまった。
私の腰元には、再び北口さをりの頭があった。北口さをりは光の無い目で私を見上げると、
「イッショニイコウ」
機械のような北口さをりの声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には北口さをりの顔が、その奥側へと吸い込まれてしまった。まるで内側から掃除機で吸い込んだように、顔の真ん中辺りに凝縮されてすっぽりと。しかし、吸い込まれたのは頭の正面側だけのようで、私の視線の先には、北口さをりの輪郭に縁取られた漆黒の空間が広がっていた。その暗闇の奥底に、ポツリと、先程吸い込まれた北口さをりの顔が浮かんだ。そして、遥か頭上にいる私の顔を見上げ、
「キテ」
その声を聞き終える前に、私の体は北口さをりの顔の中に吸い込まれてしまった。
突然の出来事に、思わず目を固く閉じてしまった私は、しばらく経ってからそろりと目を開けた。そこは、漆黒の空間などではなく、どこかの畳敷きの部屋の中のようだった。辺りを見回したが、北口さをりの姿はない。その代わり、見覚えのある老婆が部屋の真ん中で、豪華な布団に横になっていた。野田ヒサノだ。
野田ヒサノは、目を見開き歯を食いしばりながら虫のような息をしていた。息を吸うたびに苦しそうな声を漏らし、その息を吐くことが出来ないでいるようだ。そして、その見上げた目線の先には、野田ナミ子がいた。野田ナミ子は野田ヒサノの枕元に立ち、野田ヒサノの顔を見下ろしていた。黒く長い髪がだらりと落ちており、その表情を見ることはできない。私が動けないでいると、野田ヒサノの息が一段と苦しそうになった。そして、横目で私の方を向いた。その目からは、助けを求める彼女の叫びが、明白に伝わってきた。
野田ヒサノの視線を追うように、野田ナミ子が俯いたままこちらを振り向いた。青い顔にかかった長い髪の隙間からは、こちらを見つめる大きな二つの黒目と、その周りを囲む白目がはっきりと見えた。
叫び声を上げながら私は飛び起きた。慌てて辺りを見回したが、そこはいつもどおりの
(といっても二日しか生活していないのだが)我が家だった。時計を見ると、夜中の一時を回ったところだった。ひどく寝汗をかいていて、夜の冷たい空気に冷やされ、容赦なく私の体温を奪ってくる。
今のは夢だったのか。それにしては情景があまりにもリアルに頭に残っている。なぜ、野田ヒサノのもとに野田ナミ子が現れたのか。まさか、新たに呪いを掛けられていたのは野田ヒサノだったというのか。
いったい誰が何のために、あんな老婆を呪ったというのか。しかし、野田ヒサノのもとに野田ナミ子が現れた事こそ、彼女が呪われている事の最もな裏付けだろう。尤も、野田ナミ子が現れた事も、全て私の夢だった可能性もあるのだが。
野田ヒサノの無事を、この目で確認せずにはいられない。もし、全て私の夢だったのならばそれでよし、本当に彼女が呪われているのであれば、どうにかして助け出してあげなければならない。もし、呪われた彼女を助けることが出来たのならば、それは自分自身に掛けられた呪いを解く大きな手掛かりになるのは間違いない。彼女を助けることは、自分を助けることにも繋がるのだ。
私は上着を羽織ると、自宅を飛び出し診療所へ走った。診療所の扉を開け、車のキーと最低限必要な物が入ったカバンをひったくり、診療所の車へと飛び乗った。マニュアル車の運転をしたことはないが、中型のバイクならば以前所有していたことがある。感覚はあれと同じと思えばいい。
エンジンをスタートさせ、勢いよくアクセルを踏み込んだ。しかし、気が急いていたせいか、クラッチも勢いよく繋げてしまい、車は車体を大きく揺らしてエンストしてしまった。すぐにキーを回し、再度エンジンは動き出したが、セルモーターから、何かが焼き切れるような恐ろしい音が聞こえた。
大丈夫、エンジンが掛かったのだから問題はない。車は潰れても、また新しいのを買えばいい。今は野田ヒサノのもとへ急ぐのが先決だ。
今度はエンストしないよう、慎重にクラッチを繋げ、夜の野島を、外野に向かって走り出した。
前方の暗闇をヘッドライトが照らし、かろうじて道が何処にあるのかはわかるが、明かりに照らされていない空間には、全くの闇が広がっている。かなり風が強く、時折車体が横に揺さぶられる程だ。途中、地面の凹凸に勢いよく突っ込んでしまい、二、三度車体を地面に叩きつけてしまったが、なんとか野田ヒサノの家まで辿り着くことができた。
家の中には明かりは見受けられなかった。眠っているのだろうか。やはり、私の思い過ごしだったのだろうか。玄関の引き戸に手を掛けると、鍵が掛かっていないのか、力なくするすると開いてしまった。そっと中の様子に耳を澄ましてみると、夢の中で聞いた、野田ヒサノの苦しそうな息遣いが微かに聞こえた。私は玄関を開け放ち、土足のまま家へと上がり込んだ。
「ヒサノさん! 大丈夫ですか?」
私は大声で呼びかけながら、野田ヒサノが眠っているであろう和室の麩を開けた。そこには、口から血を流し畳を這いながら、こちらに手を伸ばしている野田ヒサノの姿があった。
「ヒサノさん!」
駆け寄った私は、野田ヒサノの背後に人影があるのに気づいた。それは、長い髪を振り乱し、鬼の形相をした野田ナミ子の姿だった。
私は悲鳴を上げ尻餅をついてしまったが、次の瞬間には野田ナミ子の姿は忽然と消えていた。広い和室には、野田ヒサノの苦しそうな息遣いが響いているだけだ。
私は倒れている野田ヒサノに駆け寄り、その上体を起こした。原因は判らないが、ひどく体が痙攣している。体温もかなり低くなっている。一刻を争う容態なのは間違いない。
大丈夫、落ち着け。私は自分に言い聞かせた。しかし、手持ちの道具では成す術がないし、診療所に連れて行ったところで、出来ることは限られている。どうすれば良いか。
「……そうだ!」
私は野田敬子との会話を思い出した。この島には、ドクターヘリが来るのだ。すぐに私は野田ヒサノの家の電話へと向かったが、受話器の向こうは無音の世界で、ダイヤルを回しても何の音沙汰もない。見ると、電話回線が引っこ抜かれていた。慌てて挿し直しても状況は変わらない。回線が切られているのか。
私は受話器を放り投げ、防災無線機へと飛びついた。この島には、全ての家に市から配布された防災無線機がある。これを使えば、本土の市役所へと直接連絡することができる。
「……はい、市役所当直ですが?」
数コールなった後、担当者らしき人物が応答した。
「私、野島で医師をしている金本と言います。今、野島で急病人が発生しました。至急ドクターヘリの手配をお願いします」
「……えっ? はっ? えっと……」
「何してるの! 一刻を争う状況なのよ! 急いで!」
市の担当者は、まさかドクターヘリの出動要請が掛かってくるとは思ってもみなかったのか、かなり狼狽えた様子だった。野田ヒサノの住所を伝えると、担当者は、わかりました、すぐに手配します、と応えてはくれたが、無線を切る直前まで、終始納得のいかないような受け答えをしていた。
私は無線を切ると、野田ヒサノに寄り添い、少しでも呼吸をしやすいよう、上体を起こし、口元に着いた血を拭き取った。野田ヒサノは力なく私の顔を見上げ、濁った目で私を見つめながら、私の手を握った。私はその手を握り返し、大丈夫だから、と声をかけた。
程なくして、ヘリの轟音が近づいてきた。この強風の中、飛び立てないのではないかと心配していたが、無事迎えに来ることができたようだ。しかし、これから本土の病院に着くまでは油断できない。彼女を死なせる訳には行かない。
担架でヘリに収容された野田ヒサノに続いて、私もヘリに乗り込んだ。彼女の命は私が預かっているのだ。彼女の容態が安定するまでは、側を離れる訳には行かない。
私は、再びこの島に足を踏み入れたあの時のように、港の外れにある自販機で缶コーヒーを購入した。そのまま自販機の後ろの壁へと体を預け、苦い無糖のコーヒーを一口啜った。このコンクリートの壁は、何の建物なのだろう。二階建になっているのだろうか、この島の建造物にしては身長が高いように見える。手入れされていないのか、私がもたれている壁はジメジメしていて、所々苔が生していた。
心地の良い潮風が吹いた。昨晩とは打って変わって、ほとんど雲のない気持ちの良い空だ。際限なく降り注ぐ朝の陽射しは、それを遮る物がないため、港のアスファルトの地面や私の体を温め続けてくれる。ほとんど寝ていない私の目には、少々眩しすぎるほどだ。
今朝方近くになって、野田ヒサノの体調はようやく安定した。ほとんど意識はない状態だが、私が病院を出るころには、寝ているのと大差ない程にまで持ち直してくれた。この調子でいけば心配はいらないだろう。
私は野田ヒサノを救う事ができたのだろうか。野田ナミ子は、今日の晩にも彼女のもとへ現れるのだろうか。もし現れたなら、その時はもう助けることができないかもしれないしかし、彼女は一度野田ナミ子の呪いに打ち勝ったのだ。彼女は今本土の病院に入院している。ここよりもはるかに整った環境だ。今度も負けることはないだろう。
野田ナミ子の呪いに打ち勝つことができる。ひたすらに呪いから逃れることばかりを考えていた私にとって、これは大きな励みになった。逃げるばかりが選択肢でない、対峙することもできるのだ。
晴れ渡った空の高い所で、海鳥が一鳴きした。今日の港はやけに静かだ。いつも閑散としているが、今日は特にひどく感じる。先程から全く人の出入りが見受けられないのだ。たまには静かな港もいいじゃないか。私はそう思い直した。人でごった返しているよりも、このほうが落ち着いていられるではないか。人の数が少ないのは、今に始まったことじゃない。
海鳥がもう一度鳴いた。途端に、それまでこの空のように晴れ渡っていた私の気持ちに、どす黒い雲が差した。僅かながらに見えていた希望の光が、雲に遮られて徐々に薄く暗くなっていくのを感じた。私の中に漲っていた、野田ナミ子に打ち勝つ勇気が、それよりも遥かに大きな恐怖や不安といったものに押し潰されていった。先程までの自信など嘘のように、私の心は小刻みに震えだした。
海鳥が力なく泣いた。それと同時に、朝一番の連絡船が汽笛を鳴らした。出港の合図だろう。誰もいない港に、汽笛の甲高い音が虚しく響いた。私の心臓が高鳴っている。何か不吉なものを感じる。無性にここから逃げ出したい衝動に駆られる。眠気のせいだ。疲れているからだ。私は自分に必死に言い聞かせた。しかし、私の目は船着き場に停泊している連絡船に釘付けになっていた。恐怖に対峙する為ではない。恐怖から逃れる為である。
船に取り付けられている、碇を巻き上げるためのモーターが回り始めた。金属同士がぶつかる音とともに、碇を繋ぐ鎖が、大きな鉄の棒に巻き上げられていく。私は震えていた。この後に何が起こるか、既に脳裏に描かれているのである。もちろんそんなものは、疲れた私の脳が見せる幻想である。この後の事実を実際に目で確かめるまでは、何が起こるかなど誰にもわからない。しかし、私は強く確信を持っていた。悲しく、虚しく、恐ろしい確信を。
次第に碇が姿を現し始めた。碇と鎖の繋目には、人間の足首が縛り付けられている。やはり。私は、絶叫しそうになるのを必死に堪えながら、事の顛末を見守った。徐々に迫り上がってきた碇には、塔乃ユキ子と同じ格好で男が張り付けられていた。この男には見覚えがある。他でもない、私を野島に送った男、上野だ。
モーター音が止んだ。碇は完全に引き上げられ、船の傍らにぶら下がっている。それに張り付けられている上野は、塔乃ユキ子同様に顔の穴という穴から海水をごぼごぼと吐き出していた。船が動き出す気配はなかった。船頭が異常に気付いたのだろうか。人のいない港には悲鳴が上がることもなく、先程同様に静かな時間が流れていた。




