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AZUKI TWILIGHT  作者: 壇希
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 船を降りる頃には、既に小雨は止んでいた。船内では吐きそうなほどに気分が悪かったが、晴れ渡った秋空の下、少しは気が紛れたように感じた。

 「金本陽子先生ですね」

 船着場から少し離れた場所にある自販機で缶コーヒーを買っていると、背後から声を掛けられた。振り返ると、五十代半ばくらいの痩せ型の女が、にこりと笑ってこちらに向かってお辞儀をした。

 「お待ちしておりました。わたし、野島診療所で看護婦をしております、野田敬子と申します」

 野田敬子は再び頭を下げた。野田とは、この島で最も多い苗字だ。私がまだこの島に住んでいた頃の診療所には、看護婦はいなかったように記憶しているが、二十年前には既に老人であった前の医師一人では、とても仕事が回らなくなったのだろう。

 「東京の上野先生の紹介で参りました。金本と申します。よろしくお願いします」

 「こんな若くて美人な先生に来てもらえるなんて、思ってもみなかったわ。この島では一番若い人でも四十代だからね。島の男達も飛び上がって喜ぶでしょうに」

 そう言いながら野田敬子は、私を先導するように歩き出した。港の入口に隣接している、港関係者用の駐車場には、「野島診療所」と側面に書かれた、ボロ臭いバンタイプの車が一台止まっていた。野田敬子は車の運転席に乗り込みながら、「ごめんなさいね。東京で暮らしておられた金本先生には、この島は恐ろしく不便でならないでしょう」と、後部座席に乗り込んだ私に向かって申し訳なさそうな表情を浮かべながら言った。

 「いえ。もともと自然が好きでしたから。それに、東京の大学病院での激務に疲れ果てていたこともあって、自然の中でゆっくり暮らしたいなぁなんて思ってたところに、上野先生からこの話を持ちかけられたんです。島暮らしは初めてですけど、慣れてしまえば東京よりもずっといいところですよ。きっと」

 私はとっさに嘘をついた。私が野島出身だということは、恐らく誰も気づかないだろう。父が死に、島を出てから母が再婚したために、私の苗字は野田から金本に変わっている。私がこの島にいたのは八歳までだ。面影を感じる人もいないだろう。この島の過去を知らない事にしておいた方が、私にとっても、この島の住民にとっても都合がいい。私が野田陽子だということが知れたら、私はこの島には居られないだろう。それに、私がこの島に戻ってきたのは、ほとんど強制だった。

 「そうね、自然の多さだったら東京にも負けはしないでしょうね。島に自生している、世界的にも希少な植物の研究に、毎年東京の大学の方が来られるくらいだから」

 「敬子さんはこの島の出身なんですか?」

 「もちろん。といっても戻ってきたのは五年ほど前ですけどね。苗字が、持って生まれた野田に戻ったのを機に、ね。ちょうど島では、老医師一人じゃ限界だなんて言われてた頃だったから、結婚前は本土の街で看護婦をやっていた経験を活かして、半分ボランティアみたいなものだけど。手土産もなしに出戻りじゃ肩身が狭いでしょ?」

 「そうだったんですね。……その、寺谷先生は一体どうされたんでしょう?」

 「さあ、としか言い様がないですね。突然の失踪でしたから。ただ、居なくなる前日の晩に、東京の上野という医師に連絡を取ってくれ、って突然言い始めてね。今日はもう遅いから、明日連絡してみますね、って言ってたら突然居なくなっちゃったんですよ。慌てて上野先生の連絡先を調べて、電話を掛けてみたら、かつての寺谷先生の教え子だって言うじゃありませんか。先生が突然居なくなった、って話したら、代わりの医者を派遣するからって話になって、その後の手続きもトントン拍子に進んで。そして、金本先生がいらしたって訳ですよ」

 寺谷先生というのは、私がこの島に生まれる前からついひと月前まで、この島で唯一の医師として野島の住民の健康を担ってきた人物だ。そしてその教え子の上野先生というのが、私の直属の上司であり、私を野島に連れ戻させた人物である。寺谷先生のことは微かにではあるが記憶に残っている。いつもニコニコと笑っていた。島に二人しか居ない子供である私とその親友を、自らの孫のように可愛がってくれた。私が島を出るときはとても悲しんでくれたし、あの時も、膝から崩れ落ちて泣いていた。私がいた当時で既に六十歳に近かったのだから、八十歳になった今でも現役を貫き通していたということになる。そんな老医師が突然失踪したのだ。

 「寺谷先生には奥さんはいらっしゃらないんですか?」

 「居たんですけどね、一昨年に亡くなられました。診療所のすぐ横にある二階建ての家が二人の住居だったんですけどね。奥さんが居なくなってからは、一人じゃ広すぎるとか言ってほとんど帰らずに、診療所の待合室で寝泊りをされていましたよ」

 「そうだったんですね……。寺谷先生の親類等には当たられたんですか?」

 「さあ。連絡の着く親戚には警察から確認が行ってるでしょうけど、なにせ年が年なんでね、先生の親戚も相当ご高齢な訳だし、連絡着かなくなってるのがほとんどじゃないですかね。先生夫婦には子供も居ませんでしたしね」

 私たちを乗せた車は、駐車場を出て三分も走らないうちに、私が勤務することになる野島診療所に到着した。二十年前となんら変わらない、緑の三角屋根が特徴的な平屋の建物だ。白く塗られた板張りの壁は、全体的に痛みが激しいようで、所々木が捲れ上がり木の地肌を露呈している。

 「港からなら歩いてきた方が早く着くぐらいのところなんですけどね。午前中に、外野の方へ訪問診療に出ていたものだから。本当なら先生が乗ってこられた船をお出迎えするつもりだったんですけれどもね。婆様の話し相手をしていたら抜け出せなくなってしまってね」

 「気になさらないでください。ちょうど、船酔いを覚ますのに港をぶらぶら歩いていたところだったので」

 私は待合用の長椅子に重い荷物を置きながら応えた。診療所の玄関を入ると、正面に向かって長い廊下が続いている。廊下の左側には待合用の長椅子が二本並び、廊下の突き当たったところが診察室になっている。廊下の右側には、宿直室のような畳二畳ほどの部屋があり、人が泊まれるようになっていたが、今は過去のカルテなどで埋め尽くされていると、野田敬子から説明を受けた。

 「診療所のすぐ裏手にニ階建ての空家があるから、金本先生はそこで寝泊まりしてね。比較的新しい家だし、定期的に私が掃除に行ってたから、住むに不便はないと思うけど」

 「ありがとうございます。あの……着替えぐらいしか持ってきてないんですけど、洗濯機とかはやっぱり本土に行かないと買えませんよね……?」

 「最新式という訳にはいかないけども、一応の家電は揃っているわ」

 「よかった。それがずっと気がかりだったんです」

 「仕方ないわよね。東京で生活していたのに、急に五百キロ以上離れた離島に飛ばされたんだもの。準備する時間もほとんどもらえなかったんでしょう?」

 「はい……。突然上野先生に呼び出されて、寺谷先生が失踪したことを説明されて、何のことだろうと思って聞いてたら、君にその先生の代わりになってもらうって、三日後の新幹線のチケットを渡されたんです」

 それを聞くと、野田敬子は笑いながら、

 「それはまた突然の災難だったのね。にしても強引よね。わざわざ東京からじゃなくても、本土の医師が定期的に巡診に来てくれるだけでも十分に事足りたのに。上野先生はよっぽど金本先生のことが可愛かったのかしらね?」

 野田敬子はニヤニヤしながら言った。言葉の真意がわからず、私がキョトンとしていると、野田敬子は更に笑いながら、

 「だってほら、昔から、可愛い子には旅をさせろって言うじゃないの」

 そう言いながら、野田敬子はコーヒーの入ったカップを二つお盆に乗せ、宿直室の扉をお尻で押し開けながら出てきた。どうやら給湯室も兼ねているらしい。長椅子に腰掛けていた私が、返答に困った顔をしていると、片方のカップを差し出しながら、

 「それか、よほどあなたのことが憎たらしかったかよね。でも、私は前者だと思うわ」

 「どうしてそう思うんですか?」

 「だって、自分の恩師の代わりを任せるんですもの。頼りになる人を送らないと、自分だけじゃなくて、恩師の顔にまで泥を塗ることになるのよ。だから信頼できる金本先生にお願いしたんだと思うわよ」

 そう言いながら、野田敬子は私の隣に腰掛け、湯気の立つコーヒーに息を吹きかけた。私は、上野に特段好かれていた訳でも嫌われていた訳でもない。親しくしていた訳でもなく、すれ違えば一言二言会話を交わす程度の間柄だった。患者からの信頼は、確かに薄いと自分でも感じていた。医師になりたてのひよっ子に、自分や家族の命を任せなければならないのだ。誰だって多少の不安は感じるだろう。それでも、大きなミスをしたことはなかったし、左遷されるような事をした覚えはなかった。私がこの島の出身だと言った覚えもない。何故、突然上野が私をこの島に寄こしたのか。私には皆目見当もつかなかった。 

 島に呼び戻された。そんな考えが私の頭から離れなかった。不意に、あの時の忌まわしい光景が蘇ってきた。あの時に聞こえてきた、ガラスが割れる音や金属の鳴る音が入り 混じった様な、激しい嫌な音が内側から鼓膜を揺さぶる。猛烈な吐き気に襲われ、視界が左右にゆっくりと割れていく。体から熱を根こそぎ奪われたような寒気を感じ、小さく身震いした私は、思わず手に持っていたコーヒーカップを床に落としてしまった。カップの割れる音で我に返った私は、

 「すっ、すみません。すぐに掃除しなきゃ」と、長椅子から飛び上がり、なにか拭くものはないかと慌てて辺りを見回した。

 「いいのよいいのよ、金本先生は座ってて。長旅で疲れてたのね。ここは片付けておくから、金本先生は家に帰って少し休みなさい。荷物は後で持って行ってあげるから」

 野田敬子は優しくそう言うと、私の背中をゆっくりとさすってくれた。

 「顔色が悪いわ。大丈夫?」

 「はい、平気です。ご迷惑かけてすみません。船酔いしたみたいです。少し横になったらすぐに治りますので……。本当にすみません」

 「気にしないで。明日からは私たちが金本先生にお世話にならないとダメなんだから。家の鍵は刺さってると思うわ」

 野田敬子は私に優しくほほ笑みかけ、診療所の玄関まで付き添ってくれた。私は玄関を出ると、野田敬子に教えられた通り、診療所の裏側にふらつく足取りで向かった。

 診療所の建物をぐるりと回ると、ちょうど診察室の裏側に当たる所の向かいに、私の住居はあった。確かに、周りの民家よりも小奇麗で、今風の佇まいに見える。診療所の裏の壁には、ハシツツキが大きな巣を作っていた。形はツバメの巣に似ているが、大きさはそれよりもはるかに大きい。そんなハシツツキの巣の中でも、これはさらに大きい部類に入るだろう。診療所の白く塗られた板張りの壁を半分以上覆うように、巨大なハシツツキの巣が張り付いていた。土を固めたような巣の横穴から、ハシツツキの雛が顔を出している。一瞬親鳥かと見間違うほど、大きな顔をしているが、緑色の産毛が顔を覆っているところを見ると、まだ飛ぶこともできない時期だろう。この辺りには、雛の栄養となる餌が豊富にあるのだろう。

小洒落た赤色の玄関扉には、確かにリングチェーンの付いた鍵が刺さっていた。リングチェーンについている二つの鍵は、おそらく合鍵だろう。扉に刺さっている鍵とよく似た形をしている。鍵をひねると、がちゃりという気持ちの良い音がした。家の中は、廊下を挟んで右側に和室があり、左側にダイニングがあるという間取りだった。短い廊下の突き当りには、二階へ続く階段が佇んでいた。廊下から見上げてみると、どうやら一部屋しかないようだ。正面から見た家の外観は大きいが、どうやら奥行はないらしい。それでも、女の一人暮らしには広すぎるほどだ。ダイニングには、柔らかそうなソファがひとつ置いてあった。私は、台所でコップ一杯の水をゆっくり飲み干すと、そのソファに身体を投げ出した。体がソファに沈み、柔らかい感触が全身を包み込んだ。

 気にし過ぎだ、何も起こることはない。自分に言い聞かせた。私がこの島に戻ってきたのは偶然だ。過去のことなど何も関係ない。あれは全て夢だったのだ。確かに、夢のような出来事だった。全く現実離れしていて、人に話せば、鼻で笑われるような経験だった。おそらく、私も人からそんな話をされたら、鼻で笑ってしまうだろう。しかし、あの時の音や映像は、私の脳の中心にこびり付いていて、この二十年間片時も忘れることは出来なかった。授業を受けている時や買い物をしている時、何の前触れもなく現れ、あの時の空間に私を引きずり戻そうとするのだ。それでも今まで何の異状もなく生き延びてこれた。今更何か起こることもないだろう。起こることはないはずだ。

 ふと、瞼が半分以上下がってきていることに気づいた。窓からは、心地の良い昼下がりの陽日が差し込んで、私の体を温めている。頭がぼやけて視界が霞んできた。私は考えるのをやめ、ソファに横になった。肘置きに頭をもたれさせ、深く深呼吸した。視界には、黒くくすんだフローリングが陽日を浴びている。

 照らされ続けたフローリングの板が、熱を帯びて膨張したのか、軽い乾いた音を立てて家鳴りをした。と同時に、視界の床に、子供の白い裸足の足が見えた。歩いてきたというよりも、突然現れたような、ずっとそこにいたような、そんな感覚だった。私はすぐに飛び起きたが、もちろんそこには誰もいなかった。窓の外や廊下を探してみたが、物音一つ見つけることはできなかった。まだ鼓動が収まらない私の耳に、廊下に掛けられた柱時計の鐘の音が三度聞こえてきた。いつの間にか、二時間もうたた寝をしていたらしい。夢を見たんだ。現実ではない。私は自分に言い聞かせ、足速に自宅を出た。

 診療所の玄関扉を開けると、野田敬子が何処かへと向かう準備をしていた。

 「あら、少しは気分がよくなった?」

 野田敬子は私を見るなり明るい声でそう尋ねてきた。

 「ええ、お陰様で。ご心配かけてすみません。あの、これから何処かへ向かわれるんですか?」

 「これから外野の方に訪問診療にね。この島の半分は、寝たきりの老人みたいなものだからね。島のあちこちに出張しないといけないのよ。よかったら金本先生も来る?明日からは金本先生が診て回ることになるし」

 私は二つ返事で了解した。

 「これから行くのは、野田ヒサノさんていうおばあちゃんの所ね。外野の端っこにあるんだけど、何せ狭い島だから、二十分もあれば着くと思うわ」

 そう言いながら、野田敬子は車に診察道具を積み込んだ。私もそれを手伝いながら、

 「診療所の検査設備には限界があるし、やっぱり精密検査となると、本土の病院に行くことになるんですか?」

 「そうね。でも、寝たきりの老人に片道一時間の船旅はきついだろうし、入院させたくても、この島の老人はなかなか島外に出たがらないのよ。それで手遅れになるっていうのも過去に何度かあってね」

 「そうなんですね……」

 「それで、今年の初めからドクターヘリの運用が県で始まったのよ。まだこの島で運用されたことはないけどね」

 野田敬子は運転席に乗り込んだ。マフラーから黒煙を吐き散らし、エンジンが唸り声を上げる。私も助手席に乗り込んだ。シートが小刻みに不快に振動している。

 「マニュアルの運転には、未だに慣れないわ」

 そう言いながら、野田敬子はエンジンを大きく二、三度唸らせながら車を発進させた。

 「金本先生は怖い話とか好き?」

 「えっ?怖い話ですか?」

 「そう、この島に伝わる呪いの話。今から行く外野っていう地域は、大昔に祈祷師の一族が流れ着いて、そのまま住み着いたっていう伝説があるの。そして今の外野の住民は、その祈祷師の一族の子孫だっていうのよ。今もそのことを信じている人はお年寄りを中心にいるようだけどね」

 「祈祷師って言われてもイメージが湧かないんですけど、どういったことをしていたんですか?大漁を願うお祈りとか?」

 「まぁそんなところかな。私がまだ小さい頃は、外野の女が集まって雨乞いとかやったり、祭りの日には占いの館とか出したりしてたんだけどね。その女の人たちは、今では一人で立てないようなヨボヨボになっちゃったから、占いやってる場合じゃないんでしょうね」

 野田敬子は悲しそうに笑った。

 「なんで女の人なんですか?男の祈祷師はいなかったんですか?」

 「それがね、祈祷師の血を引けるのは女だけだって言い伝えがあるのよ。不思議なことにね。それでね、私がまだ五歳ぐらいの時にね、その外野の祈祷師の若い女が自殺しちゃったのよ」

 嫌な予感がした。私は、その呪いの話を知っているかもしれない。むしろ、当事者かもしれない。

 「どっ、どうして自殺したんですか?」

 「私も小さかったからねぇ、詳しくは知らないんだけど、男女関係のもつれらしいわね。その祈祷師の女が、中野に住んでいた妻子のある男と不倫したみたいでね。その妻が中心になってその祈祷師を激しく攻撃したのよ。もともとよく当たるって人気の祈祷師で、島中の男から色目使われるくらいの美人だったらしいからねぇ。同じ女として、嫉妬みたいなのもあったと思うんだけど。集団で罵声浴びせられたり、家に火付けられたりしてね。とうとうおかしくなっちゃって、野島の西の先端に地獄崖っていう崖があるんだけど、そこから身を投げて死んじゃったのよ」

 地獄崖というのは、中野の中心から西にまっすぐ行くとぶつかる、野島の西端である。南端に野山があり、北端に子山がある野島であるが、西側には山はない。その代わり、先端に行くにつれ徐々に高度が高く、土地が狭くなっていく。島を真上から見ると、漢字の山のようになる。その先端は切り立った崖になっていて、夕日の時刻になると真っ赤に照らし出され、燃え盛るように見えるその様は、地獄の業火に炙られたようになる。そのことから、この崖のことを皆地獄崖と呼んでいた。海面まではかなりの高さがあり、真下の海面には、いくつもの岩が顔を出しているから、あそこから飛び降りたら、おそらく生きては帰れないだろう。

 「……。それからどうなったんですか……?」

 「ここからは私もよく覚えているわ。その祈祷師が身を投げたって知らせを聞いてから二日後くらいからね、不倫相手の男とその家族が立て続けに苦しみだしたのよ。最初は、私と同じくらいの年の男の子だったわ。男たちの息子ね。私たちと一緒に遊んでいるときに突然倒れて痙攣しだして、慌てて私が家に連れて行ったら、その子のお母さんが家の中で泡吹いて踊ってたのよ」

 「……おっ、踊ってたんですか?」

 「言っとくけど本当よ。なんていう踊りかは知らないけど、苦しみもがいてるんじゃなかった。でも、顔は白目を剥いて口から泡吹いてるのよ。怖かったわよぉ」

 想像しただけでも寒気がする。

 「後ろからついてきてた私のお母さんが、これはナミ子の呪いだ、って騒ぎだして、子供たちはすぐに家に帰されて、外野の祈祷師の女たちがその不倫男の家に集まって、夜通し変なお祈りみたいなのが聞こえてたわ」

 「ナミ子っていうのが、その自殺した祈祷師ですか?」

 「そう、野田ナミ子。すごい美人だって評判だったんだけど、私は全然印象に残ってないのよねぇ。幼かったからだろうけど。それでね、一晩中祈祷師たちのお祈りは続いたんだけど、結局お母さんも男の子も明け方頃に死んじゃったのよ。しかもね、その日ずっと行方知れずになってたお父さん、不倫男のことね、なんと地獄崖の下で死んでるのが日が高くなったころに見つかったのよ。夜のうちに飛び込んだ可能性が高いって。たった一晩で、不倫男の一家が全員死んじゃったのよ」

 「……。それで呪いは終わったんですか?」

 「それで終わったらよかったんだけどね、その次の夜から、夜道をナミ子の亡霊が徘徊してるって噂が立ち始めたのよ。しかも、最初に見たって言い出した中野の男が、また泡吹きながら踊り始めたのよ。これは本格的にまずいって、島の長老みたいな人が本土から偉いお坊さんを連れてきて、ナミ子の供養というか、御祓いをしたのよ。そのおかげか、ナミ子の亡霊を見たっていう人はいなくなったんだけど、亡霊を見たって最初に言い始めた男は、結局三日持たずに死んじゃったわ。ナミ子を祓うことはできても、その呪いを解くことは出来なかったんでしょうねぇ」

 「……相当な恨みを持って死んでいったんでしょうね、ナミ子さんは」

 「ま、結論を言うと、この島にはそんな過去があるから、不倫なんかしたら途端に島から追い出されちゃうよ、だから不倫しちゃだめよ、っていう、新婚さんにばあさまが話す、この島の定番の昔話なのよ。実話だけどね。ま、金本先生にはその心配はないでしょうけどね。もうこの島には、年寄りしかいないから」

 「敬子さんもおばあさんにこの話を?」

 「私は、島から出てこの話とは無縁の土地の人と結婚したから。というよりも、私はこの昔話の登場人物だからね。私も年を取っちゃったねぇ」

 そういうと、野田敬子は豪快に笑った。

 「島民の女の髪がみんな短いのは、ナミ子の長い髪に似せない為って意味があるらしいよ。私も島に戻るときに、伸ばしてた髪をバッサリと切ったよ。ロングヘアなんかしてたら、婆様方になんて言われるか」

 私は、自分の肩までしかない栗色の髪を僅かに指で触った。私もそうだ。黒い長髪を見ると、嫌悪感とともに吐き気を催してしまう。二十年前に私が見たあれは、おそらくナミ子のなれの果てなのだろう。五十年前の偉いお坊さんは、ナミ子を祓ったのではなく、封じ込めたに過ぎなかったのだ。しかも、その封印は子どもが解くことのできるほど簡単なものだった。

 それでね、と野田敬子は一層声を小さく、低くして、囁くように、

 「これから行く家の主、野田ヒサノさん。もう九十近い人なんだけど、誰だかわかる?」

 「……まさか、ナミ子さんの……?」

 「ご名答! ヒサノさんの前では絶対に言わないでね。べらべら喋った私が言えることじゃないけど」

 「……」

 「まぁ、ヒサノさんも大分ボケちゃってるから、ナミ子のことなんかも忘れちゃってるかもしれないけどね。それでも、たまに思い出したように、ナミ子やぁって何にもない空間に向かって呼びかけるんだから、たまったもんじゃないわよねぇ」

 車が、舗装されていない急な坂を上り始めた。どうやら個人の敷地へ入ったらしい。車が左右に激しく揺れる。

 「はい、着いたわ。ここが野田ヒサノさんの家。ここではいつも、簡単な診察と、腕や足を動かすリハビリと、布団の交換なんかを行ってるわ。今日は二人いるから、いつもよりも手早く済みそうね」

 「……はい」

 「……ごめん。怖い話苦手だった?」

 「ちっ、違うんです。ただ、そのナミ子さんの家だと思うと気構えちゃって……」

 「そんなこと気にすることないわよ。ナミ子の呪いの話だって、戦前にあったことなんだから。あの時代はまだ神だの仏だのを本気で信仰してたから、一種の集団ヒステリーみたいになったのよ。現代じゃ在り得ないわ」

 「そっ、そうですよね。幽霊なんかいませんよね……」

 二十年前のあの時、野田敬子はちょうど島外に嫁いでいた時期だ。この島で起こったことは詳しく知らないのだろう。子供と大人が相次いで死んだ。その程度の情報しか教えられていないのだろう。島の住民から話すこともないだろうから、野田敬子が呪いの話に疎いのは、仕方のないことだった。

野田敬子は、バッグの中からリングチェーンに繋がれた鍵の束を取り出すと、その中から一つを選び、野田ヒサノの家の引き戸の鍵穴に差し込んだ。

 「金本先生にも、どれがどの家の鍵か覚えてもらわないとね。大丈夫、一週間も回れば嫌でも覚えるから」

 リングチェーンには二〇個以上の鍵が繋がっている。

 「そんなに訪問しないといけないんですね」

 「全島民合わせても百人くらいしか居ないんだけどね。島民の五分の一が寝たきり状態なのよ。そろそろ限界よねぇ」

 そう言いながら、野田敬子は引き戸をがらりと開けた。部屋の中は薄暗く、広く長い廊下の先は暗がりになっていて見ることができない。雨戸が締め切られているのか、空気はジメジメしているが、家の中は決して汚れている訳でも散らかっている訳でもない。広い板張りの廊下には、しっかりとワックスが掛けられており、怪しく黒光りしていた。

 「ヒサノさーん、こんにちわ」

 野田敬子が、診察道具の入った大きなバッグを肩に下げながら、迷うことなく広い廊下の先へ進んでいく。私も後を追いかけた。野田敬子は、廊下の左側にずらりと並んだ大きな襖の、一番奥の襖を勢いよく開け放った。襖の奥は、廊下よりもさらに暗く、ジメジメした雰囲気だった。

 野田敬子は、大きなバッグを下すと、部屋のカーテンをすべて開け始めた。続いて私も部屋に入った。薄暗い中でも、きれいな畳とどっしりと構えた立派な仏壇が見て取れる。野田敬子が雨戸を開けた。陽の光が差し込み、部屋の真ん中に敷かれた、金の鳳凰の刺繍が施された掛布団が照らし出された。陽の光を浴びて、鳳凰がキラキラと輝いて見える。その鳳凰に包まれるように、小さな白髪の老婆が横たわっていた。

「ヒサノさん、こんにちわ」

 雨戸を全て開け終えた野田敬子が、横たわる野田ヒサノの枕元にしゃがみ、呼びかけた。野田ヒサノは、眠っているのか微動だにしない。野田敬子が耳元で再度呼びかけた。すると、野田ヒサノの瞼がぴくりと反応し、まるで恐ろしい物を見る時のように、ゆっくりとその瞼をあけた。

 「ナミ子かい?」

 「やあねえ、先週もその前の週もお会いしたのに、また忘れちゃったんですかぁ?看護婦の敬子ですよ」

 野田ヒサノの声はしわがれていて、明るく大きな野田敬子の声にかき消されそうだった。

 「ヒサノさん、今日は東京から来た新しい先生を紹介するわね」

 野田敬子はそう言うと、後ろに立ったまま様子を見ていた私の方へ振り向き、自分の隣へと促した。私は頷き、野田敬子の隣に正座した。

 「この人が新しい島のお医者さん。これからは、この人が寺谷先生に代わってヒサノさんのお体を診てくれますからね」

 「はじめまして。東京からやってきました、金本陽子と申します。よろしくお願いします」  

 私は野田敬子に習って、野田ヒサノの耳元で、ゆっくりと大きな声で自己紹介した。初めは、私の顔を目を丸くして見ていた野田ヒサノであったが、やがて、にこりと笑みを浮かべると、こくりとお辞儀をした。私に向かって何かを言うように、口が微かに動いていたが、それは声にはなっていなかった。野田敬子に支えられながら、上半身をむくりと起き上がらせた野田ヒサノは、廊下に向かって、

 「ナミ子やあ、お客さんだよ。早うお茶入れて持ってきな」

 「ヒサノさん、お気遣いなく。さ、今日は金本先生がリハビリをしてくれますからね。隣の部屋まで頑張って歩きましょう。寝たきり婆さんばかりやってちゃ、足が腐っちゃいますよ」

 野田敬子が野田ヒサノの腰に手を回すと、野田ヒサノは野田敬子に寄りかかるようにして立ち上がった。野田ヒサノは、弱々しく歩きながらもキョロキョロと辺りを見回していた。野田ナミ子の姿を探しているのだろうか。野田ヒサノは、十メートルもない隣の部屋までをゆっくりと歩き、野田敬子に促されるように、部屋にあった大きめの椅子に腰掛けた。

 「じゃ、金本先生は久野さんの手足運動と聴診をお願いね。このひと月、特に体調とかに異常は見られてないけど、私の目だけじゃ限界があるから」

 「わかりました。手足運動はどのくらい行えばいいですか?」

 「だいたいいつも二十分くらいね。手の運動に十分と、足の運動に十分。ヒサノさんの体力のこともあるしね」

 野田敬子はそう言うと、野田ヒサノが寝ていた布団をたたみ始めた。

 「鳳凰もたまには日光浴しないとね」

 そう言いながら野田敬子は、鳳凰を抱えて庭へと出て行った。開け放たれた窓からは、心地の良い風が吹き込んでいる。埃の舞う室内を見渡すと、仏壇横の壁に、先祖のものであろう遺影写真が飾られているのが見えた。一番手前には、初老の男の写真が飾ってある。おそらく、ヒサノの旦那の写真だろう。その一つ奥に、若い女の写真があった。白黒のその写真は、端が茶色く変色しており、相当古くから飾られているものだとわかる。この女が野田ナミ子なのだろうか。おそらくそうだろう。昔のカメラでは、瞳の光まで捉えることができなかったのか、目が黒く窪んだように見える。口をへの字に閉じ、晴れ着であろう着物姿で正面から撮られたこの写真は、成人式か何かの時のものだろう。この写真を撮った時は、まさか遺影写真になろうとは思ってもなかっただろう。それとも、祈祷師であった野田ナミ子には、自分の未来も見通せていたのだろうか。

 「それでは、まず聴診器当てさせてもらいますね」

 私は、野田ヒサノの正面にしゃがみ、服の下から野田ヒサノの胸に聴診器を当てた。弱々しくも、はっきりと野田ヒサノの生命の息吹が伝わってくる。心臓の鼓動も、呼吸の音も、特に異常は感じられない。私は聴診器を耳から外し、野田ヒサノの耳元で、

 「大丈夫、ヒサノさんはとってもお元気ですよ」

 野田ヒサノは嬉しそうに笑った。

 「これから手と足の運動しましょうね。私がお手伝いしますから」

 私がそう言うと、野田ヒサノは両手を差し出してきた。私はその手を取り、野田敬子に渡されたマニュアル通りに動かしていく。野田ヒサノは、終始リラックスしたような表情を浮かべていた。週に一度、この時にしか体を動かす機会がないのだろう。簡単な伸縮運動の繰り返しでも、体を動かすことはストレスの発散になる。野田敬子に言われたとおり、十分ほど手の運動をした後に、足の運動を始めた。野田ヒサノは、先ほど同様に心地よい顔をしている。すると、野田ヒサノがしわがれた声で歌を口ずさみ始めた。それは、子供を寝かしつけるような、ゆったりとしたリズムの歌だった。古臭いその旋律には、どこか優しい匂いがした。私が子供の頃にも、この歌を聞いた覚えがある。その時も、祖母のしわがれた声が歌っていた。野島に伝わる子守唄なのだろうか。

 野田ヒサノの歌が突然途切れた。そして、疲れた、と呟くと、私の肩に掴まりながらヨロヨロと立ち上がった。どうやら、もと居た仏間に戻りたいらしい。足の運動は、まだ五分ほどしか行っていなかったが、野田ヒサノに無理をさせる訳にはいかない。私は野田ヒサノの手を取り、ゆっくりと付き添った。

 仏間の真ん中には、鳳凰の代わりに、朱色をした立派な布団が一組み敷かれていた。私は、野田ヒサノを抱き抱えるようにその布団に寝かせた。痩せ細った老婆とはいえ、慣れない女の腕力では息が上がってしまう。私は大きく息を吸い込み、呼吸を整えた。

 背中に冷たい風が吹いた。私の背後の、野田敬子が開け放った窓から風が入り込んだらしい。風が冷たくなってきた。私は立ち上がり、口を開けた窓を締めにかかった。外に野田敬子の姿はなかった。家のどこかにいるのだろうか。再び、先ほどよりも強い風が入り込んできた。その風を遮るように、私は窓を締めた。

 部屋が暗い。野田ヒサノのカルテを書かなければならないが、野田ヒサノを一人にする訳には行かない。私は、部屋の中央にぶら下がっている電灯の紐を引っ張った。埃を被った半透明の傘が照らし出される。広い部屋に不釣り合いな小さな電灯では、部屋の隅の暗がりまで取り除くことはできないが、それでも先程よりはましになった。野田敬子が戻ってくる気配はまだない。

 「海のお魚と遊ぶ子は、可愛い可愛い林檎の子、野島の夕陽に負けぬよな、真っ赤な真っ赤なほっぺの子」

 呟くように、囁くように、野田ヒサノがしわがれた声で歌った。歌というよりも、詩に近かった。野田ヒサノは、自分の真上に垂れ下がっている、輪っか状の蛍光灯を見つめながら歌っていた。虚ろな目をしている。睡魔が襲ってきているのだろう。薄暗い明かりが、黄土色をした壁を不気味に照らす室内で、野田ヒサノのしわがれた声が単調な旋律を奏でていた。

 「ぱたぱた飛ぶ鳥追いかける、走るあなたを見ていると、声に出ずとも心の中で、こんなに早くなったのね」

 部屋の中は、異様に静まり返っていた。野田ヒサノの歌声の他には、私がカルテを書く筆音と、電流が蛍光灯を流れるわずかな音しか聞こえない。空気が冷えたせいか、ピリピリと張り詰めたように感じる。野田敬子の行方は、未だにわからない。

 「あなたは優しい幸福の子、あなたの側にはいつの日も、笑ったお顔がついてくる、茶色いお顔や白い顔、どの顔もみんな笑ってる」

 「眠るあなたのまあるいお顔、そっと撫ぜると小さなおてて、なんの夢を見てるのかしら、私の親指捕まえた。小さな小さな小さなおてて、そおっと包んで耳を澄ますと、小さな小さな笑い声。よくよくよくよく見てみると、六つの指が、笑ってる」

 野田ヒサノの歌声に混じって、ぼたぼた、という重たい水が畳に落ちるような音が聞こえてきた。私が驚いてカルテから顔を上げた途端に、鼓膜を劈くような耳鳴りが走った。私の視界から色が消え失せ、先程までいた部屋が、まるで別の世界に来たような感覚に襲われた。仏壇の横の、黄土色をしていた壁から、黒く濁った汚水が流れ落ちている。その汚水を辿って、上へと視線を這わせていくと、野田ナミ子の遺影写真に行き着いた。野田ナミ子の目から、鼻から、口から、まるで生きているかのように、汚水が音を立てて溢れ出ている。大きく開かれた口からは、水飛沫を上げて汚水が噴き出している。宙に放たれた汚水が競い合うように畳を叩き、ぼたぼたぼたと協奏曲を奏でている。

「祭囃子に花添える、綺麗なあなたのご登場、踊るあなたの襟縁からは、艶やかな肌が見え隠れ。甘い柘榴を携えた、あなたが向かうは地獄崖、紅い夕陽に照らされた、ここで私は死にました」

 野田ヒサノの歌に呼応するように、噴き出す汚水がその勢いを増した。降り注ぐ汚水は、野田ヒサノの布団を濡らし、その水飛沫は私の顔を湿らせる。

 風もないのに部屋の電灯が揺れ始めた。大きく揺れる度に、部屋の隅や天井や私の顔を照らし出す。私の体は凍ったように凝り固まり、野田ナミ子の遺影から視線を逸らすことができない。低い呻き声が聞こえてきた。それは、部屋の壁から天井から畳から私の背後の窓から、あらゆる所から聞こえてくる。あるいは、私の耳元でしか聞こえてなかったのかもしれない。呻き声が私の脳内をぐるぐると回り、そのように聞こえたのかもしれない。 野田ナミ子の遺影が、カタカタと音を立てて揺れ始めた。絶叫をした顔からは、相変わらず汚水が噴き出している。いや、絶叫しているのではない。目尻に不気味な皺を寄せ、口を大きく開けて笑っているのだ。揺れる額縁が立てるその音は、野田ナミ子の笑い声だったのだ。涙を流しながら、鼻水を垂れ流しなら、口から汚水をまき散らしながら、野田ナミ子は大笑いしているのだ。

 額縁の揺れがだんだんと大きくなってきた。そして、ガタっという大きな音と共に、宙へと吹き飛んだ。硝子の割れる鋭い音がした。野田ナミ子の遺影が飾られていた場所には、丸い穴がポッカリと空いていた。その穴から白い顔がこちらを覗いている。塔乃ユキ子だ。

 

 あの時、私は港にいた。私の前では、北口さをりがその父親に向かって駄々を捏ねている。北口さをりの父親は漁師だ。漁に行って欲しくないと、父親の膝にすがってわあわあと泣いていた。北口さをりの父親の隣には、私の父親もいた。北口さをりの父親は、私の父に向かって困ったような表情を浮かべていた。北口さをりは、私と違って漁に出る父を困らせるようなことはこれまでなかった。だから余計に困惑したのだろう。私も父のもとへ駆け寄った。

 「早く島を出ようよ! みんな死んじゃうよ!」

 北口さをりが叫ぶように訴えた。そうだよ、と、私も強く同意した。私たち二人は、先日の晩に恐ろしい光景を目にしているのだ。一刻も早く島から離れたい。あの時の私の頭は、その考えで支配されていた。おそらく、北口さをりも同様だったろう。

 「そんなこと言ったって、なぁ」

 「そうだぞ、陽子。もうお父さん達仕事に出なきゃダメなんだから。ほかの漁師さんにも迷惑がかかるんだから、もうよしなさい」

 私の父も、北口さをりの父も、娘の訴えを聞こうとはしなかった。港の入口から、笑い声が聞こえてきた。タバコ屋でいつも井戸端会議をしているおばさんたちだ。傍から見れば、漁に向かう父親に甘える微笑ましい光景に見えたのだろう。

 海の向こうで海鳥が一鳴きした。私が海のほうへ振り向くと、季節外れの生暖かい風が、私の頬を伝う涙を乾かした。

 船着場に止まっていた連絡船が汽笛を鳴らした。出航の合図だ。朝一番の、本土へ向かう連絡船が、出航すべく準備を始めた。モーターの乾いた音と共に、碇を繋ぐ鎖が海中から巻き上げられていく。金属同士がぶつかる音が続き、やがて、ひどくゆっくりと碇が迫り上がってきた。私も北口さをりも二人の父親も、なぜか固唾を呑んでその様子を見ていた。皆一様に、不吉な予感を感じ取ったのかもしれない。

 やがて、碇が完全に姿を現した時、北口さをりが悲鳴を上げて倒れた。父親二人は、何かを叫んだ。何か言ったのかもしれないが、私には絶叫にしか聞こえなかった。私は、恐怖を感じることもできなかった。碇から視線を逸らすこともできず、ただ目を大きく見開き、口をパクパクさせていた。

 鎖を巻き上げていたモーターが止まった。碇は完全に巻き上げられ、船の傍らにぶら下がっていた。その碇に、塔乃ユキ子が張り付けられていた。ちょうど、十字架に張り付けられたキリストの像を逆さにした形で、両手は左右に大きく広げられ、伸ばされた両足は揃えて縛られていた。遠目にも白目を剥いているのがわかった。塔乃ユキ子の目や鼻や口からは、大量の海水が流れ落ちていた。随分と前から沈められていたのだろう。私は膝から崩れ落ちた。もはや逃げ出そうとする気力も湧かなかった。殺される。幼いながらにも、そう強く感じた。

 港の入口から女の悲鳴が上がった。井戸端会議をしていたおばさん達も、事態に気づいたらしい。私は、今更になって体がガタガタと震え始めた。そして、自分がした行いを強く悔いた。これが夢ならばいいのに。そう強く願った。しかし、無情にもその夢は、二十年の歳月が流れた今に至っても覚める様子はない。


 「ヒサノさーん、お粥ができたわよ」

 野田敬子が襖を開けて入ってきた。手に持つ盆には白い茶碗が載っており、白い湯気が立っていた。はっと我に返った私は、思わず部屋の中を、野田ナミ子の遺影を確認した。畳には水滴はおろかシミすら残っておらず、野田ナミ子の遺影もちゃんと壁に掛かってある。口を結び正面を見据えたその表情は、とても笑っているようには見えなかった。

 「どうしたの?きょとんとして」

 野田敬子が、野田ヒサノを起こして座らせながら、問いかけてきた。今までのは全て幻覚だったのだろうか。

 「いえ……、何でもありません。敬子さんは台所にいらしたんですか?」

 「ええ、お粥を作ってたの。毎週通ってるからね、何がどこにあるのか自分の家のようにわかるのよ。まあ、私の家はこんなに立派じゃないけどね」

 野田敬子はレンゲで少量の粥を掬い、丁寧に冷ましてから野田ヒサノの口に運んだ。野田ヒサノはそれを口に含むと、ゆっくりと時間をかけて咀嚼した。野田敬子は、野田ヒサノが飲み込んだのを確認すると、再びレンゲで粥を掬い、冷ましにかかった。

 「どうだった? ヒサノさんの体調は? 問題なかった?」

 「はい、心音にも呼吸音にも特に異常は見られませんでした。運動の途中でヒサノさんが疲れちゃって、途中で切り上げましたけど」

 「それでいいよ。無理は禁物だからね。動きたいだけ動いて、寝たいだけ寝る。人間にはそれが一番なんだよ」

 野田敬子は優しい笑みを浮かべながら、野田ヒサノに粥を食べさせていた。ゆっくりと自分のペースに合わせて運ばれてくる粥を、野田ヒサノも嫌がることなく次々と口に運んでいく。その表情からは、安心や信頼と言った言葉が読み取れた。

 先程まで野田ヒサノが歌っていたあの歌は、一体なんなのだろう。野田ヒサノが愛娘を詠んだ詩にも聞こえたが、進むにつれ異様な歌詞へと変わっていったように思う。特に最後などは、野田ナミ子が身投げしたことを歌っていたではないか。野田ナミ子のことで、野田ヒサノもだいぶ精神を痛めていたのかもしれない。

 野田ヒサノは、野田敬子が作った粥を半分ほど残し、もう眠い、と野田敬子に訴えた。

 「あらあら、いつもの半分しか食べてないじゃないですか。まあいいわ、今日は新しい先生が来て緊張してるんですものね」

 野田敬子はそういうと、野田ヒサノを再び布団に横にさせた。横になるやいなや、野田ヒサノは目を閉じた。

 「疲れちゃったのね。ヒサノさんはああ見えて結構人見知りだから」

 「早く慣れてもらえるように頑張ります」

 「毎週来てたらあっという間に慣れるわよ。患者さんに信頼されるのが、お医者さんにとって一番大事なことだけど、金本先生は優しい顔してるから心配ないわね」

 診療所のバンのトランクに重いバッグを載せながら、野田敬子は私をそう評した。東京の病院では、なかなか患者からの信頼を得られなかった私にとっては、少々過大評価のような気がした。

 私が車に乗りこもうとすると、どこからか小太鼓のようなものを叩く音が聞こえてきた。その音は、一つではなく複数の小太鼓を叩いているようであった。野田敬子も小太鼓の音に気付いているようで、音のする方へと、どこか冷たい視線を送っていた。私が音の出所を探って辺りを見回していると、二人の老婆が並んで歩いているのが見えた。老婆は二人とも手に撥と小太鼓を持っていた。撥のほうは、中ほどで二股に分かれており、もう片方の手に持った紐にぶら下がっている小太鼓を叩くと、二つの音が重なり合うように聞こえる。二人の老婆は、野田ヒサノの家の敷地に隣接する道を歩いており、野田ヒサノの家の前を通過する時になると、撥で小太鼓を叩くテンポを突然早めた。

 「あれ、何してるかわかる?」

 老婆たちに冷たい視線を送っていた野田敬子が聞いてきた。

 「さあ、何か太鼓のようなものを叩いてるように見えましたけど」

 「あれね、この島に大昔から伝わる風習なのよ。寝たきりの老人や、病気で床に伏してる人の家の近くを通る時に、ああやって小太鼓ポンポン叩きながら通るの」

 「何でそんなことするんですか?」

 「寝たきりの老人や病気の人がいる家の側には、あの世からの迎えが潜んでるって考えられてて、その迎えに対して、自分はまだ生きてるぞ、道連れにするなって知らせてるらしいわ。まったく、馬鹿馬鹿しいにも程がある風習よね。最近じゃ、もう集落のそこらへんでポンポンポンポン。煩いったらありゃしない」

 そう吐き捨てた野田敬子の表情には、はっきりと怒りの感情が浮き出ていた。野田ヒサノのような寝たきりの老人の家を回り、親身になってその健康の世話をしている野田敬子にとっては、根拠もなく死期が近いことを周りに知らしめているような、あの小太鼓の音が嫌味に聞こえて仕方がないのだろう。

 「行こうか」

 そう言うと、野田敬子はバンの運転席に乗り込み、エンジンをかけた。私が助手席に乗ったのを確認すると、車はゆっくりと進み始めた。野田ヒサノの家へ続く急な坂を降り、車が舗装された道へと出ると、野田敬子は中野方面へとアクセルを踏み込んだ。車が走り出すと、すぐに先ほどの老婆二人を追い越した。もう小太鼓を叩いている様子はない。追い抜きざまに、老婆たちの表情を盗み見た。二人とも、だらんと口を開けており、虚ろな目には光が灯っていなかった。とぼとぼと歩くその姿は、まるで廃人のようだった。

 「敬子さん、ナミ子さんってどんな人だったんですか?」

 「どうしたのよー、怖い話は苦手じゃなかったの?」

 「いや、その、なんだか興味が湧いてきちゃって」

 「そうねえ、何せ五十年前のことだからねえ、私も五歳くらいだったから。面影くらいは思い出せるんだけどねえ」

 私たちが乗る車が、海岸沿いの道に出た。海の遥か向こうに見える太陽は、もうすでに傾き始めていた。

 「当時はまだ夜這いとか普通にやってた時代でね。さっき行ったナミ子の家には、夜な夜な男の行列が出来たって、爺ちゃんが何かの時に言ってたっけねえ。当時は別に若い女が少なかったって訳じゃないけど、若い女の中で群を抜いて色っぽかったんだろうねえ」

 「お祭りの時に踊ったりしてました?」

 「よく知ってるわねえ。ヒサノさんから聞いたの?そうねえ、言われて思い出したわ。野島中の女が順番に演物をして、昼から始まった祭りも陽が傾き始めて、さあそろそろお開きねって時に、万を持してって感じで出てきてね。ちらほら帰り始めていた観客も舞台で舞うナミ子に釘づけになっちゃって。私も見とれてたわ。綺麗にお化粧して、髪を結って、綺麗な着物を着て。確かに、あの時のナミ子は美人だったわね」

 野田ヒサノの家の仏間に飾られた、野田ナミ子の遺影は、その時に撮られたものだろうか。

 「それから1年くらい経った頃ね、ナミ子が自殺したのは。ちょうど、今ぐらいの季節だったかなあ。お祭りの時にも、その不倫した男が見に来てたから、ナミ子の魅力に取り憑かれたんでしょうねえ」

 「祭りで舞を舞ってた頃がナミ子さんの全盛期だったんですね……」

 「ナミ子が二十五歳だったかしらねえ。若さに大人っぽさが加わる、女として一番魅力のある年頃だからね」

 「ナミ子さんの不倫が叩かれてた時は、やっぱりお母さんのヒサノさんも精神的に辛かったんでしょうねえ」

 「そりゃねえ。でも、ヒサノさんは娘のしたことだからって、中野の不倫相手の家まで毎日足を運んでね。相手の奥さんに何度も何度も頭を下げていたのを覚えているわ。それでも、その奥さんは許さなかったんだけどね。挙句に家に放火までされて、当の娘は自殺しちゃうし。その頃のヒサノさんを見ちゃってるからね、ヒサノさんにはどうしても親身になっちゃうのよ。せめて、老後ぐらいは平穏に暮らさせてあげたいってね」

 私は無言で頷き、野田敬子に同意を示した。窓の外に視線を移すと、車道の道淵に彼岸花が咲いているのが見えた。今はお彼岸だ。野田ナミ子も帰ってきているのだろうか。そう考えるとゾッとした。

 「もうお彼岸ねえ。ちゃんとご先祖様にお供え物してる?」

 私の心中を察したように、野田敬子が前を向いたまま問いかけてきた。私も視線を前に移すと、車道の両側に、無数の彼岸花が咲いていた。

 「たっ……、たぶん実家でちゃんとお供えしてると思うので大丈夫です……」

 「そんなもんよねえ、私も同じだよ。まあ私の場合は自分の家が実家だけど。両親はもう逝っちゃったしねえ。帰ってきてるのか知らないけど、私も仕事が忙しいから、なかなか構ってあげられないのよねえ」

 車が軽く揺れた。舗装されているとはいえ、老朽化が進んだ路面には、小さな凹凸が無数にある。父も帰ってきているだろうか。私は、ふとそんなことを考えた。塔乃ユキ子も帰ってきているのだろうか。だとしたら、北口さをりも……。私は、昼間に自宅で見た小さな足を思い出した。私に会いに来てくれたのか、それとも眠気まなこで見た幻覚だったのか。おそらく幻覚だろう。北口さをりはきっと私のことを恨んでいる。私はこの島から逃げられたのだから。生き延びることができたのだから。そんな私に会いに来てくれる訳はないだろう。

 東の空が紅くなってきた。太陽はすでにその下半分ほどを水平線に隠している。野島の夕陽は紅いことで有名だ。夕陽が沈む間際の、ほんの数分に最もその紅味を増す。その瞬間を撮ろうと、全国からカメラを携えた観光客がやって来る。その色は、赤ではなく、紅と表現されることが多い。沈む寸前の、ほんの一欠片になった太陽は、煮詰めた小豆のような色をしている。何故こんなに紅いのかは知らない。私が生まれた時から、そのずっと前から変わらないのだろう。紅い夕陽に照らされた、ここで私は死にました。野田ナミ子も、この夕陽を見ながら身を投げたのだろうか。

「お疲れ様でした、今日の業務はこれで終了よ。明日も明後日も明々後日も、こんな感じの一日になると思うわ」

 私たちを乗せたバンが診療所の駐車場に停った。既に太陽は完全に隠れ、半透明な暗がりが中野の町に覆い被さっていた。まもなく、本格的な暗闇が訪れるのだろう。

 私達が診療所の中へと診察道具を運び入れていると、ヘッドライトを煌々と焚いた一台の自転車が、港方面からふらふらと走ってくるのが見えた。

 「あら、駐在さん。こんばんわ」

 野田敬子が診療所の玄関から顔を覗かせ、白い自転車に跨る男に声をかけた。男は自転車を降りると、診療所の方へ自転車を押しながら向かってきた。最初は暗くて分からなかったが、診療所の常夜灯に照らし出された男の顔には見覚えがあった。二十年前と比べると、当たり前ではあるが随分と老け込んだように見える。

 「これはこれは、誰かと思えば美人のナースさんじゃないですか。仕事終わりですか?」

 「ええ、今日はこれでおしまい。すっかり日が短くなってきましたねえ」

 「全くですなあ。おや、こちらのべっぴんさんは? もしかして、新しく野島に来てくれるっていう、お医者さん?」

 「そうよ、若くて美人でしょう。金本先生よ。東京の病院からはるばる来てくれたんだから、セクハラしないでくださいよ。金本先生には、長くこの島に居てもらわないとダメなんだから」

 この男の名前は、たしか甘屋光男といった。変わった名前なので二十年経っても記憶から消えることはなかった。私が野島に住んでいた頃から警官をしていて、島で唯一の駐在さんだった。明るく素っ頓狂な性格は、あの頃と変わっていないようだ。

 塔乃ユキ子が死に、北口さをりが死に、そして私の父が死んだあたりで、この男は突然島から出って言った。元々島の人間ではなかったので、本土に異動になったのだと島の大人は言っていたが、私は逃げたのだと思った。しかし、妬ましいなどという感情は一切湧くことはなく、島から逃れられたことを羨ましくさえ思っていた。結局、私も甘屋光男の後を追う形で、島から出ることに運良く成功した。もし、あのまま島に留まっていたなら、私も甘屋光男も、塔乃ユキ子らのようになっていただろう。この男もまた、私と同様に野田ナミ子の呪い伝説の当事者の一人だ。

 「どうも、よろしくお願いします」

 私は、甘屋光男が私の正体に気づくのではないかと、戦々恐々としていた。私は、この島に来て初めて知っている人に会ったのだ。日中にも何人かの島民とすれ違うことがあったが、皆一様に年老いており、見覚えのある人はいなかった。しかし、島で唯一の警察官というものは、子どもの心にも印象を強く残すものらしく、先ほど顔を見ただけで、すぐに当時の記憶が脳裏に蘇ってきた。甘屋光男も、私の面影を覚えているならば、顔を見ただけで気づかれるかもしれない。

 しかし、甘屋光男だけにならば、正体を悟られても問題はないかもしれない。甘屋光男もまた、私と同様に不本意でこの島に送られてきた身であろうから、境遇は今の私と全く同じだ。まさか自分から進んでこの島に戻ってきた訳もないだろう。もし私の正体に気づいても、甘屋光男なら無下には扱ったりしないだろう。

 「どうも、はじめまして。元警察官の甘屋と申します。以前にこの島で駐在をしておりましてね、ここ最近この島のおまわりさんが不在で交番が空っぽだってんで、退職してからはボランティアの駐在として、もっかいこの島にやってきてんですよ。それにしても、いやー、若いうえにべっぴんさんときたもんだ! 看護婦さんもいい先生引っ張ってきたもんだよ、まったく。老いぼれ漁師共も跳んで喜んどるだろうに」

 「やあねえ、連れてきたのは私じゃありませんよ。寺谷先生の教え子の先生が紹介してくださったのよ」

 「いやー、こんな地方の孤島なんか疾うの昔に忘れられてるもんだと思ってたけど、まだまだ捨てたもんじゃないね、これからだね!」

 甘屋光男は私に初めましてと言った。そのあとの言動も、初対面の人の相手をしているように聞こえる。甘屋光男は私の正体に気づいていないのだろうか。それとも、気を利かせて気づいていない振りをしているのだろうか。それにしても、甘屋光男は警察を退職した後に、自分の意志でこの島に来たと言った。そんなはずはないだろう。二十年前に島を逃げた男が、何故今更になって戻ってくる必要があるというのか。この島には、過去以外何もないというのに。

 「それよりも、駐在さん、金本先生ったら野田ナミ子の呪い伝説に興味があるらしくってよ」

 野田敬子がわざとらしく声を潜め、おどろおどろしく言った。甘屋光男は顔色ひとつ変えることなく、

 「いやー、命知らずとはこのことだねぇ。女子にしちゃあ肝が座ってやがる。よし、この老いぼれが一つ怖い昔話をしてやろう。今は亡きこの島の長老様に聞いた話なんだがね」

 そう言って甘屋光男は、野島に伝わる祈祷師伝説の話を始めた。内容は、外野へ向かう車内で野田敬子から聞いた話となんら変わりはなかった。続いて野田ナミ子の話が始まった。これもまた、野田敬子から聞いた内容と大して変わりはなかった。話の途中に野田敬子の顔を覗き見ると、「まぁ聞いといてやってよ」という和んだような表情をしていた。

 「どうだ、怖いだろ? その野田ナミ子の墓が、なんと中野の隣にある野山の頂辺にあるんだよ」

 「え? 何その話? ナミ子の墓の話なんか知らなかったわ。嘘? 野山にあるの?」

 「そうそう。噂によれば、夜な夜なナミ子の亡霊が山を下ってきては、中野の家々を恨めしそうに覗いて回るとか回らないとか……」

 二十年前にも私は、北口さをりと共に甘屋光男からこの話を聞いた。祈祷師伝説や野田ナミ子の生涯のくだりは、聞いたのかもしれないが記憶には残っていなかった。しかし、野田ナミ子の墓の場所と、呪いの掛け方はしっかりと覚えていた。小学校低学年の判断力も乏しい二人の女児に、甘屋光男は死の呪いを伝授したのだ。私たちに罪がないとは言わない。しかし、甘屋光男はあの時の惨劇を目の当たりにしているにもかかわらず、何事もなかったかのように、初対面の私にまた死の呪いを伝授しようとしていた。私は甘屋光男という男を、軽蔑せずにはいられなかった。

 「それでな、その野田ナミ子の墓には祠があるんだ。普段は扉がしっかりと閉ざされていて、開けようとしてもびくとも動かないんだが、強い呪いを秘めた者はその扉を開けることができるんだってよ。そして、その呪いをナミ子が叶えてくれるって話だ」

 「そんな呪いだなんて、祈祷師じゃあるまいし。誰でもできるもんじゃないでしょうに」

 すかさず野田敬子が反論をした。

 「呪いったってそんな大それたもんじゃねえよ。別に恨みじゃなくとも、例えば誰かに恋焦がれ、強く想うそれもまた呪いだ。そういった強い何かを持った奴だけが、扉を開けナミ子にその呪いを叶えてもらえるって訳よ。ただな、呪いを叶えてもらった奴は、ナミ子に命を持ってかれちまうんだよ。お命と引き換えに、恋を実らせる。どうだい、ロマンが詰まってるだろ?」

 確かにナミ子は呪いを叶えてくれた。しかし、呪いは留まることを知らずに、私の大切なものを次々と道連れにした。あの時私の目の前に現れた野田ナミ子の姿からは、ロマンなど微塵も感じられなかった。あの化け物は、絶望以外持ち合わせてなんかいなかった。

 「死んじゃったら元も子もないでしょうに。あら、金本先生どうしたの? 黙りこくっちゃって」

 「……えっ、いえ、その呪いを実際に行なった人っているのかなって思っちゃって」

 「どうなのよ、駐在さん?」

 「さあねえ。俺の知る限りじゃあ、知らないかなぁ」

 私は、この男のことを心底嫌いになった。私が、背負った罪に押し潰されそうになりながら生きてきたこの二十年間、この男は何も考えることなくのうのうと生きてきたのかと思うと、腹わたが煮えくり返る思いだった。野田敬子と甘屋光男は、その後もしばらく会話を続けていたが、私の耳にはほとんど何も入ってこなっかった。煮えたぎった腹わたを冷ますため、夜風の音に耳を澄ましていた。

 「それでは、何か困ったことがあったら、いつでも駐在所まで来てくださいな」

 そう言うと、甘屋光男は自転車に跨り、フラフラと走り去っていった。いい加減私の腹の虫も治まってきたが、それでもあの男を頼ろうなどという考えは微塵も起こらなかった。

 野田敬子は、荷物をすべて運び終えた私に向かって、

 「お喋りだけど、別に悪い人じゃないから。これからもよろしく頼むわね」

 「ええ。診療所のご近所さんですもんね」

 私の答えに満足したのか、にこりと綺麗な笑みを浮かべ、野田敬子は帰り支度を始めた。

 「私は平日の八時から五時までが勤務時間でございますので、今日はこれにてドロンさせていただきます。東京とは勝手が違って、色々と不便かもしれないけど、ここは東京と違って時間の流れがゆっくりだから。ゆっくりと順応していったらいいわ」

 「はい。すみません、初日から色々とご迷惑をおかけしちゃって……」

 「迷惑だなんて、全然思ってないわよ。私もいつか先生に厄介になる身なんだから。その時はよろしくね」

 「はっ、はい。……敬子さんの家はどこにあるんですか?」

 「私の家? 私の家はね、六区にあるのよ。って言ってもわからないわね。中野は一区から六区まで分かれていて、六区は中野の西側の端っこ、田んぼを越えた向こう側はそのまま地獄崖に続いてるわ」

 「車で来てるんですか?」

 「まさか、歩いて十分、チャリで五分よ。父の形見のデカくて重い自転車で、毎朝出勤してますよ」

 「そうなんですね。また今度お邪魔させていただきます」

 「いつでも大歓迎よ。ご馳走作って待ってるわ」

 野田敬子は、診療所の壁に沿うように停めてあった、白い大きな自転車に跨ると、私に笑顔で手を振り、大きなペダルを重そうに漕ぎながら、もうすっかり暗くなった道の向こうへと消えていった。

 冷たい夜の潮風が吹いた。怒りの熱が冷め切った私の体は、いつの間にか温かいコーヒーを求めていた。私は診療所へ戻り、コーヒーを沸かしながら、まだ診察室を見ていなかったことに気がついた。給湯室兼宿直室を出て右、玄関からまっすぐ行くとぶつかる両開きの扉が診察室になっている。

 湯気の立つコーヒーを片手に扉を開けると、アルコールの匂いが微かに鼻を突いた。壁に張り付いているスイッチを入れると、即座に部屋が明るくなった。部屋は思っていたよりも狭く、横長の長方形の右奥に、椅子が二脚と大きめの事務机があった。扉の左側は、キャスター付きのパーテーションで仕切られており、その奥には診察用のベッドと血圧の測定器などが置かれていた。扉の右側手前には、舌圧子などの医療器具がステンレス製の台に並べられていた。器具は時代遅れな形をしている物が多いが、どれもよく手入れされていて、蛍光灯の光を反射して銀色に光っている。そして、扉を入った正面の壁には、なぜか大きな本棚が二つ、横並びに立っていた。この本棚が、問診してからベッドへ移動する際の動線を塞いでいるように思える。本棚を置くスペースなら他にもあるのだが、この異様に存在感のある本棚が、狭い部屋を更に窮屈に感じさせていた。

 ふと、私は研修医だった頃のことを思い出した。私が研修に入っていた大学病院の診察室は、この部屋の倍はあろうかという広い部屋だったが、ここにはない高度な検査器具などで溢れていて、ここよりも狭く窮屈な感じだった。入れ替わりに次々と入ってくる患者を診ているうちに、皆同じ顔をしているような錯覚に陥った。訴えてくる症状も似たようなものばかりで、同じ人間が、診察室の出たり入ったりを繰り返しているのではないかと、本気で考えたりもした。一人として同じ症状の人はいない、と、ある内科の医師は言ったが、私にはその違いを見極めることはでできなかった。だから、私は内科が苦手だった。

 私は、熱いコーヒーを一口飲み、大きな事務机に向かって座ってみた。私が動くたびに、板張りの床がギシギシと音を立てる。この机の正面が、私の家の向かい、大きなハシツツキの巣があった壁になっている。事務机の横長の引き出しを開けてみると、業務日誌が出てきた。おそらく、寺谷が毎日つけていたものだろう。内容を見てみると、寺谷が失踪する以前から、もう久しく来院患者はいなかったようだ。もっぱら訪問診療が主な仕事だったのだろう。診療所の外にある案内看板には、診察時間は午前八時から十二時までとなっていた。しかし、野田敬子は午前中にも訪問診療に出ていたようだ。寺谷がいた頃は、診療所での業務と訪問診療を、二手に分かれて行なっていたのだろうか。おそらく、そうでもしないと手が回らなかったのだろう。

 どこからか、突然サイレンの音が鳴り始めた。十八時を知らせるサイレンだ。これも、二十年前と変わることのない、この島のお馴染みの光景だ。診療所の外へ出てみると、スピーカーが近くに立っているのか、空気の振動を感じ取れるほどにサイレンの音が聞こえていた。十秒ほど鳴り続けたサイレンは、徐々にその勢いを弱め、ひどくくぐもった低い音を漏らしながら萎んでいった。

 私の胸に、懐かしい色が広がった。北口さをりと私は、毎日このサイレンが聞こえるまで遊びまわっていた。引っ込み思案で臆病者だった私とは対照的に、積極的で男勝りな性格の北口さをりは、よく私の手を引いて、島中を連れ回してくれた。ほとんど無色の、島の記憶の中で、鮮やかな色を放っているのは、北口さをりとの記憶ばかりだ。嫌な思い出ばかりじゃない、楽しかった思い出も僅かに残っている。そう思うと、自分の生家が無性に見たくなってきた。北口さをりとは、お互いの家でもよく遊んだ覚えがある。思い出が詰まっているとは言い難いが、自分が生まれ育った家である。その家が今どうなっているのか。気がつくと私は、上着を羽織り、診療所の玄関を出ていた。

 私の生家は、診療所から五分ほどの、中野の中心にあった。中心といっても、何か店が並んでいる訳でもなく、ほかの地域となんら変わらない町並みである。私の母は、綺麗好きで花を育てるのがうまかった。狭い庭では、彩り豊かな花々が、競い合って背比べをしていた。そのおかげで、私の家は近所でも評判だったようだ。よく近所のおばさんが、母に花の苗などをもらいにやってきていた。そんな私の生家は今、窓ガラスはすべて割れ、玄関扉までも外れかかった、お化け屋敷のような外観で私の前に佇んでいた。おそらく、私と母が引っ越してから、誰の手入れも受けていないのだろう。そんな外観でも、幼い頃に見ていた光景を、外れかかった玄関扉の向こう側に見ることができた。中身の時間は止まったまま、骨組みだけがどんどんと年を取っているような、そんな感じがした。

 どこか物悲しさを感じた私は、北口さをりの家の方向へと、自然と足を進めていた。毎週のように遊びに行っていた北口さをりの家は、今でもしっかりと記憶に残っている。夜の暗闇であまり見えないが、私の家から北口さをりの家に向かう道中の風景も、あの頃となんら変わりはないようだ。

 北口さをりの家は父子家庭の二人暮らしだった。漁師である父親は、深夜のうちから漁に出ることも多かったので、北口さをりは毎朝自分で身支度を整え、小学校に登校していた。私の家族と北口さをりの家族は仲が良く、私の母がよく北口さをりの様子を見に行ったりしていた。北口さをりの一家は、元々本土の大きな街で生活を送っていたが、母親が病死し、どういうわけか母親の出里である野島に親子二人でやってきたのだ。出里といっても、その母親の両親は既に他界しており、北口親子には帰ってきても頼るツテがなかった。しかし、同い年で同じ一人っ子でもあった私と北口さをりは、初めて会った時から意気投合し、すぐに家族ぐるみでの付き合いになった。代々漁師をやっていた私の父の紹介で、北口さをりの父も漁師となったのである。

 そんな北口親子は、空家になっていた亡き母の生家に住んでいた。私は、二十年前に島を出てから、一度も島の近状などについて話を聞くことがなかった。北口さをりの父は、今でもこの島に住んでいるのだろうか。私のことを、野田陽子のことを覚えているのだろうか。

 北口さをりの家は、暗くひっそりと静まり返っていた。道路に面した庭には、腰の高さほどの草が生い茂っている。暗い家の中からは、人の気配は感じられなかったが、門柱には、北口の表札が下がっている。放置されているのか、まだここに住んでいるのか。どちらにしても、北口さをりの父に会うのは気が引けた。北口さをりは、私のせいで死んだようなものだ。北口さをりの父はそのことを知らないだろうが、それでも、私には合わせる顔がなかった。

 診療所に戻る道中、五十代くらいの男とすれ違った。間違いなく、北口さをりの父、北口武志だった。背中に鋭い緊張が走った。すれ違いざま、私は無言で会釈をした。北口武志はそれに応えて軽く頭を下げるだけで、何事もなく通り過ぎていった。おそらく私とは気づいていないのだろう。北口武志もまた、私の記憶の中の姿と比べ、随分と老け込んだ姿になっていた。北口さをりの死後も、この島で、あの家で生活を続けていたのだ。この二十年間、彼は何を思って生きてきたのだろう。私は、北口武志の背中を振り返った。ひどく黒い靄がかかったように見えるその背中は、北口さをりの葬儀の時に見た、俯き小刻みに震えるそれを思い出させた。

 

 その日の北口さをりの家は、いつも遊んでいた家とは全くの別の家のように感じた。白黒の縦縞の幕が、家を囲むように張り巡らされており、風でバタバタとはためいていた。黒い幕が張られた長机には、近所で顔なじみのおじさんたちが座り、次々と出される香典の整理に追われていた。

 「だってねぇ、まだ八歳だったんでしょ? お父さんもたまらないでしょうねぇ……」

 「それに、あんな殺され方しちゃあねえ……」

 「ちょっと、お父さんに聞こえちゃうわよ。それに、殺されたって決まったわけじゃないんだから……」

 かづきと呼ばれる、受付をしている近所のおじさんたちの奥様連中が、ひそひそと声を潜めながら話していた。北口さをりは、普通の死に方ではなかった。もっとも、私はその姿を見てはいない。こういったかづきの人たちや、近所の大人が話しているのを聞いただけだ。それでも、その異常さを想像するには十分だった。北口さをりの死体は、私の想像の中で形となり、この二十年間、もう何度も私の夢の中に現れた。

 部屋へ上がった私は、畳に並べられた座布団をひとつ取り、壁際に母と並んで座った。仕切りの襖が全て取り払われ、大きな空間となったこの畳の部屋は、私と北口さをりが、いつもおままごとに使っていた部屋だった。今は、壁一面に純白の幕が張りめぐらされ、何か神聖な雰囲気を漂わせている。

 柩の中を見せてもらうことはできなかった。北口さをりの柩の周りには、親戚であろう人たちが集まっており、各々で泣いたり、話し合ったり、溜息をつくなどしていた。その中には、北口武志の姿もあった。深く項垂れた北口武志を、親戚の人たちが、背中をさすったりして励ましていた。よく見知った間柄とはいえ、とても話しかけに行ける雰囲気ではなかった。

 部屋がそろそろ満員になってきた頃に、お坊さんがやってきた。お坊さんは、犇めくように座っている人たちの間を抜けながら、なんとか柩の前までたどり着くと、仰々しく合掌をしてから、柩の窓を開けた。途端にお坊さんは目を見開き、顔を軽く後ろに仰け反らせた。話には聞いていたが、想像の上を行っていた。柩の窓を閉め、喪主である北口武志に挨拶をしているお坊さんの、バツの悪そうな表情がそう物語っていた。

 程なくして、読経が始まった。座布団に座る大人たちは、皆一様に下を向き、お坊さんと一緒に念仏を唱える者もいれば、隣同士でヒソヒソと会話をする者もいた。広い畳の部屋にずらりと並んだ参列者の一番前、お坊さんのすぐ後ろに北口武志は座っていた。がくりと落とした肩を震わせながら泣いているのが、部屋の片隅に追いやられた私からでも確認することができた。

 柩の奥には、木製のこじんまりとした祭壇が組まれていた。中野の自治会場の倉庫で埃を被っていたものだ。祭壇の両脇には、菊や百合をふんだんに使った供花が飾られており、祭壇の中央には、とびきりの笑顔の北口さをりの写真が置かれていた。私と二人で、小学校の入学式の際に撮ったものだった。北口さをりだけが写真から切り取られ、黒縁の、白黒のリボンがつけられた額の中に収まっていた。

 参列者の中には、寺谷の姿もあった。日頃から私たち二人を可愛がっていた寺谷もまた、北口武志同様に肩を震わせていた。もちろん幼い私も泣いていた。北口さをりの死に加えて、次は自分かもしれないという恐怖が、幼い私の悲しみをさらに膨れ上がらせていた。私は、この時が人生で初めての葬式だったが、この後、すぐに二度目の葬式を経験することになる。

 やがて読経が終わり、参列者たちは皆腰を上げ、近所の男たちがいそいそと出棺の準備を始めた。家の門のところには、柩を入れることのできる大きな車が着けられた。玄関から門までの十メートルほどの間に、導線香と呼ばれる、線香を束にして竹串の先端に刺したものが三本並べられた。死者を導くためという、この島の古くからの習わしだ。そして、お坊さんと北口武志に導かれるように、男達に担がれた小さな柩が家から出てきた。そのまま車の荷台へ乗せられると、大勢の参列者に見守られながら、車の扉は閉められた。

 北口武志は、参列者にお礼の挨拶を済ませると、隅っこで小さくなっていた私のもとへ歩み寄り、

 「一緒に来てやってくれないか? さをりも、陽子ちゃんがいないと安心して天国へ行けないと思うからさ」

 「……はい、連れてってください……」

 私は、大粒の涙を流しながら言葉を振り絞った。北口武志は、参列者に深々と頭を下げ、柩の積まれた車に乗りこんだ。私も、北口武志の動きを真似し、一つ後ろの座席へ続いた。車の外で、何かの割れる音が聞こえた。窓の外を見てみると、燃えたぎる藁の中で、北口さをりが愛用していた茶碗が割れていた。そして、クラクションの音が島中に響き渡り、北口さをりは家を後にした。

 「陽子ちゃんは、おおきくなったら何になりたいの?」

 本土に向かう船上で、北口武志はそう訪ねてきた。

 「えっと……、お医者さん」

 これは、北口さをりとお揃いの夢だった。北口さをりは、自分の母親が死んだ原因の病気を治す医師になるんだと、会ったばかりの私に聞かせてくれた。

 「じゃあ、あたしもお医者さんになる! 二人で、その病気をやっつけよう!」

 「約束だからね! そうかあ、二人で先生かあ。おんなじ病院で働けたらいいのにね」

 「うん!」

 私は、いつの間にかその夢を叶えてしまっていた。一連の騒動や母の再婚の中で、すっかり忘れてしまったものだと思っていたが、頭の片隅に残り、私を医師の道へと突き動かす動機となっていたようだ。

 「そうだったなぁ、さをりと二人で、先生になるって言ってたもんなぁ」

 揺れる甲板の上で、北口武志は遥か水平線を眺めていた。

 「そんなこと知らないって言われるかもしれないけど、さをりの為にも、その夢叶えてくれよ」

 「……わたし、絶対お医者さんになるよ」

 私は水平線を眺めながらそう答えた。子供ながらに、強い決意のようなものを胸に秘めた瞬間だった。北口武志は、ありがとう、と呟き、それからは何も言わなかった。二人並んで手すりに身をあずけ、遠くの水平線を眺めていた。

 柩を載せた船が本土に到着した。本土の火葬場は港に隣接していて、車ですぐのところにあった。私は、北口さをりの親族に混じって、最期まで北口さをりを見届けた。火葬が完了するまでの間に、北口武志がジュースを買ってくれた。火葬が終わり、骨を拾うときは、北口武志が私を抱き上げてくれ、背の低い私でも、骨になった北口さをりを見ることができた。人の形に並べ直されたその骨は、生前の姿とはあまりにかけ離れていて、あまり悲しみを感じることはなかった。

 島に帰る船の上で、私はひとり船外の景色を眺めていた。来る時はまだ高かった陽も、今はだいぶ傾いている。もうすでに西側の空はだいぶ紅くなってきていた。波一つない海の上を、私たちを乗せた船が水飛沫を上げて、紅い夕陽を浴びながら走っている。私は、船に揺られながら、紅い太陽に向かって心の中で話しかけていた。いつもの癖だ。私は一体どうなるのか。死んで骨にされてしまうのか。すると、いつもは無口な太陽が、突然笑い出したように感じた。もちろん幼い私がそう感じただけなのであるが、北口さをりの死を悲しむ私を笑っているのか、迫る恐怖に怯える私を笑っているのか、太陽は楽しげに笑っていた。笑いながら、水平線の向こうへと消えていった。

 島に着くと、北口武志が私を家まで送り届けてくれた。去り際に見た、悲しげな背中が、私の見た北口武志の最後の姿だった。

 

 北口武志に、話をするべきだろうか。私が野島に戻ってきたこと、そして、夢を叶えて医師として頑張ていることを。果たして、そんなことをして北口武志は喜んでくれるだろうか。もしかしたら、誰かに野田ナミ子の呪いのことを、その呪いによって北口さをりが死んだことを聞かされているかもしれない。島の人間なら口が裂けても言うことはないだろうが、野田敬子や甘屋光男など、島の慣例に染まっていない人間から聞いた可能性だってある。特に、甘屋光男は事の顛末をほぼ全て知っているはずだ。それにあの男ならなんの躊躇いもなく全て喋るだろう。もしそうならば、北口武志は、私のことを恨んでいるだろう。私が出てきて、恨みを逆撫でし、嫌な記憶を思い出させてしまうくらいなら、このままそっとしておいたほうが、北口武志にとっても楽だろう。島の時間に流されるまま、ゆっくりと。

 左右から飛び出している木の枝をかき分けながら、私は先へ進んでいた。凸凹の道に何度か体勢を崩されそうになりながら、私は先へ先へと歩みを進めていた。ふと、頭上に一筋の灯りが通った。灯台の灯りだ。再度、灯りの筋が現れ、ぐるりと円を描くように動いた。灯りの筋の根元には、木々の枝葉の隙間越しに、野島灯台の頭が見えていた。

 はっと我に返った私が辺りを見渡すと、診療所に向かっていた私がいたのは、地獄崖に通じる道だった。狭い一本道の両側からは、無数の木々の枝が進路を塞ぐような格好ではみ出している。私はそれをかき分けながら、凸凹した山道を無心に登っていたのだ。無論、地獄崖になど用はない。中野の町からは、どんなに頑張っても野島灯台の灯りを見ることはできなかった。そのおかげで、異変に気づくことができ、地獄崖に到着する前に我に返ることができた。このまま地獄崖に向かっていたなら、一体どうなっていたのだろう。

 野島灯台は、地獄崖に向かう途中にある、度胸崖と呼ばれる、少し突き出た格好の崖の上に立っていた。度胸崖は、地獄崖ほどの高さはなく、真下の海にも岩などがないことから、かつては野島の若者たちが度胸試しに競って飛び込んでいたらしい。そのことから、この名前が付いたようだ。尖った島の先端にあたる地獄崖ではなく、なぜ中途半端な位置にある度胸崖に灯台が立っているのか、島の住民でさえも疑問に思っていた。しかし、建てられたのは大正時代と、意外にもその歴史は古く、当時の資料などがないことから、なぜ度胸崖に設置したのかはわからないままだった。地獄崖に通じる狭い山道が、途中で右に分岐していて、その先が度胸崖になっている。私は、その山道の分岐点に立ち尽くしていた。無機質に回転している灯台が、一定のペースで私の頭上を、筋状に照らし出す。呆然としていた私は、再び我に返り、踵を返し山道を下った。

 下り始めて十分ほどで、舗装された道に出ることができた。ここからは、中野の町まで平らな道が続いている。道の両側には田んぼや畑が並んでいる。この辺り一帯が、野田敬子が住んでいる六区と呼ばれる地域だ。

 私がまだ幼かった頃は、島の人口はもっと多く、一区から六区対抗での喧嘩祭りのようなものも行われていた。人口が少なくなった今では、区ごとの人口が十人にも満たないところも多く、区切る必要もなくなっているようだ。この六区も例外ではないようで、二十軒ほどの家が点々と立っているが、明かりがついているのは、一番西側に立っている一軒だけだ。おそらくあそこが野田敬子の家なのだろう。

 六区を抜けしばらく歩くと、もう中野の町中に戻ってくることができた。町中といっても、現状は六区と同様で、明かりがついている家は数軒しか見受けられない。私は、港に隣接している道を、診療所へ向かって急いでいた。すると、前方の道淵にあるベンチに、人影が腰掛けているのが、暗がりの中うっすらと見えた。暗くてはっきりとは分からないが、どうやら老婆のようだ。手には、何かをぶら下げているように見える。野田敬子の言っていた、例の小太鼓のようだ。俯いていて表情を確認することはできないが、眠っているようには感じられなかった。冷たい潮風が港を通じて吹きつける中、身震い一つすることなく、横長の錆びたベンチにただ座っていた。

 私は、老婆の前を横切った。横切った途端に、すぐ後ろから小太鼓を叩く音が聞こえた。驚いた私が振り向くと、ベンチに腰掛けた老婆が視線を下に向けたまま、両手を私のほうへ突き出し、速いテンポで小太鼓をひたすらに叩いていた。私は思わずその場で固まってしまったが、老婆はほかに何をしてくることもなく、ただ小太鼓を叩き続けていた。

 気味が悪い。私は早足で診療所へと向かった。背後から聞こえる小太鼓の音が、だんだんと遠ざかっていく。私の前方に、診療所の光が見えてきた。私は履いていたジーンズの右ポケットから診療所の鍵を取り出すと、扉を開け、何かから逃れるように、素早く診療所内へ入り、扉を閉めた。

 冷えた体を温めようと、給湯室でお湯を沸かしていると、宿直室の畳の上にうず高く積まれたダンボールの中に、側面に寺谷とマジックで書かれたダンボールがあるのが目に入った。私は、そのダンボールを山から抜き取り、中を確認してみた。中には、何十冊ものノートが入っていた。ダンボールの底にいくほどノートは古くなっており、一番底のものは茶色く変色していた。その中から一冊を取り出し、内容を見てみると、どうやら日誌のようなものらしかった。しかし、内容は診療所のことではなく、野山にある、野田ナミ子の祠を観察した記録が、日付とともに記されていた。一番下の、茶色くなったノートの一ページ目を見てみると、二十年前に私と母が島を出た日から、この祠の観察日誌は始まっていた。背後でやかんが鳴り始めた。私は、沸いたお湯でコーヒーを淹れ、茶色くなったノートを含む何冊かを抜き取り、診察室の事務机に持ち込んだ。


十月三十一日

 いったい、なんのことから書き初めたらよいか。事の発端がどこにあるのかわからないだけに、どこまで時間を遡ればよいのか、私には見当もつかない。とりあえずは、今起きた事象から筆を執ることにする。

 私の妻、ヨネが青い顔をして家に帰ってきたのだ。ヨネは、今朝からめずらしくどこかに出かけていた。昼過ぎになって、私が診療所から一旦戻って昼食をとっている時に、青い顔をして帰ってきた。私は、どこか体調が悪いのか、と問うたが、ヨネは無言のまま首を横に振り、少し気になることがあって、今朝から野山に登ってきたと言った。私が、何が気になったのだと、再度問うと、先日から立て続けに起きた、塔乃ユキ子、北口さをり、野田信夫の事件及び事故のことについてだというのだ。塔乃ユキ子と北口さをりが死亡した件については、本土の警察も殺人事件として見ているようだが、野田信夫の溺死については、漁中の不慮の事故として考えているようだ。しかし、なぜヨネがそのことを気にかけているのか、ヨネは何を知っているのか、なぜ野山に登ったのか。私には、その繋がりが全く見えなかった。私は、ひとまずヨネを落ち着かせ、事の経緯を一つ一つ聞いていくことにしたのだ。

 ヨネの話は、戦前にまで遡る。ヨネが、まだ出生地である外野に住んでいた頃、同じ外野に野田ナミ子という若い娘が住んでいた。大変な美人だったそうで、その娘の周りには、いつも若い男がくっついていたそうだ。その娘が、妻子持ちと危ない火遊びをするようになり、ついには男の女房に見つかり、その娘は自害にまで追いやられたそうだ。それから、この島で怪死が相次いだというのだ。自害した娘の祟りだと確信した島民は、祈祷師であったヨネや、本土の寺坊主を頼り、娘の怒りをなんとか鎮め、野山の頂上に墓を立て、そこに封じ込めたそうだ。そして、今回もまた怪死が相次いだ。まさかと思ったヨネが、娘の墓を見に行ったところ、祠の扉が何者かによって開けられていたというのだ。

 このことから、今回の相次ぐ怪死は、その娘によるものだとヨネは主張する。そんな馬鹿な話、と私は最初懐疑的であったが、北口さをりのあの死に様は、確かに常軌を逸していた。あれは、まさに呪い殺されたというものだった。しかし、誰がそんな危険な祠を開けたのか。島の人間ならば、こうなる事を予想できたのではないか、いったい誰が、と、ヨネに詰め寄ろうとしたが、私はある見当に思い当たった。怪死を遂げた北口さをりと、今朝早くに島を出て行った野田陽子である。幼い二人ならば、この話を聞き、興味本位で祠を開けてしまうに違いない。その呪いで北口さをりは死に、二人の教鞭を執っていた塔乃ユキ子と、野田陽子の父親であった野田信夫は巻き添えを食った。そう考えれば、話の筋が通ってしまうではないか。呪いなどという突拍子のないことなど、これまで私は信じてこなかったが、ヨネのこの怯え様を見ていると、信じざるを得ない。

 私は、どうしたらよいのかとヨネに問うた。すると、今からもう一度野山に登って、祠の扉を閉めてくるというのだ。ただし、扉を閉めるには娘の霊をもう一度祠に封じ込める必要があり、それには時間がかかるという。私は、ヨネに一人では危ないと警告したが、これ以上の犠牲者が出る前に封じ込めなくては、とヨネは再び家を出て行ってしまった。

 情けないことに、私は何の役にも立たないようだ。ただ、ヨネの無事を祈り、診療所で待っているしかできないようだ。


十一月一日

 今日の昼の三時頃、昨日の昼過ぎから野山に出ていたヨネが家に戻ってきた。ひどく衰弱しており、おぼつかない足取りで、玄関に入るなりその場にへたり込んでしまった。私は、ヨネを布団に寝かせ、何があったのか、野山で何をしてきたのかを問うた。

 ヨネは、まだ日の高いうちから野山の祠に出向き、祠の前でひたすら祈祷を行なっていたというのだ。今日の昼頃に、ようやく娘の霊を鎮めることができ、祠の扉を閉じて、下山してきたのだという。ヨネは、二十四時間近くも祈祷を続けていたのだ。私は、すぐに何か作ってやろうと思ったが、ヨネは、まずは寝る、と言い残し、ものの五分もしないうちに寝息を立て始めた。

 今筆を走らせながら時計を見ると、夜の九時を回っている。あれからヨネは一度も起きることなく、死んだように眠り続けている。幸いなことに、ヨネの顔色は眠り続けるにつれどんどんとよくなっているように思われる。私は医者だ。幽霊妖怪の類のことについては、何の知識も力も持ち合わせていないが、身体のことに関しては、自信を持って立ち向かうことができる。私には、それくらいしか力になってやることができない。


十一月二日

 今朝、ようやくヨネが目を覚ました。どうやら、祈祷というものは相当な体力を使うものらしい。最初に娘の霊を封じ込めた当時は、ヨネもまだ若く、また寺坊主の協力もあったのだが、今回はヨネ一人であったし、ヨネ自身も当時と比べて歳をとってしまったので、えらく時間がかかり、体力も多く消耗してしまったということであった。私は、ヨネに問うた。その封印は、幼い子供でも解くことができるほど、粗末なものなのか、と。ヨネが言うには、心に強い何かを秘めた者ならば、たとえ赤子であっても、娘の霊と共鳴し、扉は開く、と。北口さをりは死に、野田陽子は島を離れてしまったため、確かめる術はないが、あの幼い二人は、一体何を心に秘めていたのだろうか。


十一月三日

 今日は、診療所を臨時休業させた。私が、野山に登るためである。実際に登ってみると、大人の足でも頂上に着くまでに一時間近くかかってしまった。そこには、確かに墓石と祠がひっそりと建っていた。祠の前の花筒には、賑やかな仏花が一対挿されていた。ヨネが挿したものであろうか。

 私は手に携えてきた木を、閉じられた祠の扉にあてがい、釘を打ち付けた。風で飛んでいくことのないよう、簡単に外されることのないよう、何本も何本も打ち付けた。持って来た二本の木と、数十本の釘を全て使い、娘の霊が入っているであろう祠の扉を、固く固く閉ざした。二度と開けられることのないようにと、心に強く秘めて。


 私は、コーヒーをひと口すすった。口の中に苦身がじわりと広がる。少し、粉を多く入れすぎてしまったようだ。

 私が島を出てから、寺谷がこんなことをしていたとは、全く知らなかった。十一月三日以降も、日誌はほぼ毎日のように付けられている。寺谷は、祠が開けられることのないよう、毎日のように野山に登っては、祠を観察し続けていたのだろう。寺谷は、祠を開けたのが私たち二人だと気づいていたようだ。しかし、私の父と塔乃ユキ子は巻き添えを食ったのではない。特に塔乃ユキ子は、私たちが秘めていた呪いの中心にいた人物だ。しかし、殺してやろうなんて私は思っていなかった。ましてや、父には死んで欲しくなかった。

 私は、一番新しいノートをめくってみた。日誌は途中までしか付けられておらず、半分以上は空白のページだった。最後の日付を見てみると、野田敬子の言っていた、寺谷が失踪した日の二日前だった。


九月二日

 とんでもないことが起きた。二十年間保たれ続けてきた祠の均衡が、何者かの手によって破られたのだ。私が打ち付けた二本の木は、引き剥がされ祠の傍らに落ちていた。そして、祠の扉が大きく開かれていたのだ。私は、なんとか扉を閉めようと試みたが、両開きになっている片方の扉が外れかかっており、どうすることもできなかった。二つある蝶番の、上側が外れ、下側も大きく外側にひん曲がってしまっており、それによって片側の扉は、ぶらりと垂れ下がるようになっていた。おそらく、打ち付けられた木を引き剥がすときに損傷してしまったのだろう。こうなってしまっては、私にはどうすることもできない。野田陽子の身に、何もなければよいのであるが……


 日誌はこれ以降書かれていなかった。私は、深くため息をつき、背もたれに身をあずけながら、頭の中で状況を整理した。

 まず、私が今まで生きながらえてこれたのは、寺谷とその妻のヨネのおかげであるらしかった。ヨネが、私たちが開けてしまった祠の扉を、再び閉ざしたことで、野田ナミ子は私を追うことができなくなった。さらに、寺谷が木を打ちつけたことによって、また毎日のように祠を見守り続けたことによって、今まで祠の扉が開かれることがなかった。従って、野田ナミ子は祠の外に出ることができなかった。しかし、ついひと月前に何者かの手によって再び祠が開かれてしまった。それによって、野田ナミ子は再び外に出ることができた。さらに、祠の扉は壊れ、閉めることができなくなってしまった。もっとも、扉が壊れていなくとも、二度も野田ナミ子の霊を鎮めることに成功したヨネが死んでしまった今となっては、野田ナミ子を封じ込めることもできないかもしれないが。

 野田ナミ子は、私のことを忘れてはいないのだろう。私は、やはり野島に呼び戻されていたのだ。しかし、誰が祠を開けたのか。私たちと同じように、強い呪いを秘めた者が、誰かを呪いながら、固く打ちつけられた木を引き剥がしたのか。一体、誰が呪われたのだろうか。

 私は、急いで東京の上野に電話をかけた。このままでは私は、野田ナミ子の、二十年越しの呪いによって殺されてしまう。早くこの島から離れなければ。しかし、上野に私の代わりの医師を派遣してもらわなければ、私は島を離れることができない。先程から、上野の自宅の電話を鳴らし続けているが、いっこうに上野が出る気配はない。まだ病院にいるのだろうか。私は、かつての勤務先である大学病院に電話をかけた。数回コールがなった後、見知った事務員の声が応答した。

 「あら、金本先生じゃないですか。どうされたんですか? もう東京が恋しくなったとか?」

 「いえ、違うんです。上野先生にちょっとお話がありまして……」

 「あら、上野先生なら、あなたがそちらに向かった次の日から、長期休暇を取ってお休みになられていますよ。よかったら伝言しましょうか?」

 「……いえ、結構です」

 私は静かに受話器を置いた。どうするべきか。ほかの上司に、代わりの医師を派遣してもらうことはできないだろうか。しかし、大学病院の体質上、それは難しいように思えた。上司どうしの横の繋がりは、私が勤めていた病院ではあまり強くはない。あまり、他人の仕事に関与しない。そんな暗黙のしきたりがあった。私も、上野以外の上司とは、あまり交流の機会がなかった。これではどうすることもできない。私は、妙な胸騒ぎを感じた。上野は、一体どこに行ったのだろう。

 静まり返った外から、小さく小太鼓を打つ音が聞こえてきた。ポン、ポン、ポン、ポン。それは、次第に大きくなり、反対側に抜けると小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。

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