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「……、……、……日未明、……市にある飲食店で、……、……さんが男に腹部を刃物で刺され死亡する事件が発生しました。……刺した男は……、……模様で、警察は、この逃走した……追っています……。……」
私は、酷く聞き取りづらいラジオの音に目を覚ました。船尾にある救命道具が入る鉄の箱に身をあずけ、ウトウトと寝息を立てていたらしい。どうやらラジオは、向かいの座席に腰掛け、船を漕いでいる老婆の手元で鳴っているようだ。
船のモーター音が突然煩くなった。ひと呼吸間をおいて、船がわずかに左に傾いた。港に近づいてきたのだろう。私は小さくあくびをし、長年海水を吸い続けたせいか、皮がパリパリになった酷く硬い座席に座り直した。
呼ばれた気がして振り返ると、真っ青な静かな海の上を、海鳥が船に速度を合わせるように並走している。一生懸命に鳴いているのは、仲間を呼んでいるのか、私に何かを訴えているのか。お前はどこから来たんだい。海鳥に問いかけてみた。もちろん声には出していない。言葉にしたところで、彼らには理解できない。心の中で、帰ってこない返答を待ってみる。私の幼い頃からの癖だ。猫や、犬や、大木にさえも、いつも心の中で問いかけていた。そして静かに返答を待つのだ。その待っている時間が好きだった。ただ待っているだけなのに、胸がひとりでに高揚する、あの時間が好きだった。
何かが甲板に落ちた音がした。焦げ茶色の、老人くさい杖が一本甲板の上を転がっている。どうやら、向かいの老婆の横に立て掛けていたものが転がってきたらしい。なかなかの音と振動を立てたが、老婆に起きる気配はない。頭を大きく垂らした姿は、小さく折りたたまれたキャリーバックの様だ。
再び振り返ってみると、海鳥がさらに距離を縮めて並走していた。翼を広げ、向かい風を掴み滑空しているその姿には、ただただ見とれることしかできない。遥か遠い大空を、己の体で自由気ままに飛び回る彼らに、私は昔から憧れを抱いていた。手を伸ばすと、その翼に触れられるような気がした。無意識のうちに私は身を乗り出し、バランスをとるため小刻みに左右に揺れている翼に手を伸ばしていた。幼い頃から、鳥の生暖かい翼を触るのが好きだった。虫取り網を片手に、親友とともにハシツツキを追い掛け回した、あの時間の記憶がうっすらと脳裏をかすめた。
不意に船体が上下に揺れ、海面を叩く音と共に塩っ辛い水飛沫が舞い上がり、私の顔を不快に濡らした。私は身を引っ込め、ポケットの中に押し込んであったハンカチを引っ張り出した。どうやら波が出てきたらしい。海と私はいつも相性が合わない。昔から海は嫌いだ。
幼い頃の私は、幼いながらにも水の中では呼吸が出来ないことを知っていた。海の底は暗く、得体の知れない生物が蔓延っている。そしてその生物は、地上に出てくると息が出来ないようだった。だから私は、地上と海の中とは別の世界だと思っていた。そしてその考えは、今に至っても変わっていない。こちらの生物はあちらでは生きることができないし、あちらの生物も地上では生きることができない。異世界なのだ。だから、父の仕事でもあった漁師は、とても危険な職業だと思ったし、実際にそうであった。こちらの世界とあちらの世界の境界に、あんな小さな船を頼りに出て行くのだから。灯台の灯りを命綱に、決死の漁に向かう父を、家の玄関でいつも泣いて引き止めていたように思う。
海水にわずかに湿ったハンカチをポケットに押し戻し、静かに波打つ海面を見下ろした。船体に切り裂かれた海水が、白い泡となって血液のように溢れ出ている。その下は暗くてよく見えない。光も届かない冷たい世界で、私とは全く違う別の生物が、独自の世界で生きている。私は、この地上と大空の世界に生まれたことを、心底幸運に思った。
足元に何かが転がってきた。先ほど老婆の手元からこぼれた杖のようだ。左右に揺れる船に合わせるように、右へ左へと寝返りを打っている。ふと老婆を見ると、彼女もまた船の動きに合わせて、垂れた頭を右へ左へと揺すっている。その姿からはまるで生気が感じられない。何かのホラー映画のワンシーンを観ているようだ。老婆の隣に距離を空けて座っている、老婆よりかは幾ばくか歳の若い女が心配そうに老婆を見ている。不意にその女が、私の方へ不安そうな視線を向けてきた。誰かと不安を共有したかったのだろう。心配することはない。その老婆は死んではいない。頭が大きく下がり、気道を圧迫しているように見えるが、この程度で塞がるほど人間の首は単純ではない。生きていても生気を感じさせない人間はよく居る。ある程度人体の構造を把握していれば、老婆が正常であることはひと目でわかる。私は医者だ。
不安そうな女の顔を見ているうちに、私が昔交際していた、馬鹿な男のことを思い出した。その男も、何か大きな音がする度に、不安そうに目を潤ませていた。
「人は死んだあと、どうしたら天国に行けるか知ってるか?」
その男は唐突に聞いてきた。私は、そのあまりにも荒唐無稽な問に、さあとしか答えることができなかった。それを聞いた男は、さも嬉しそうに笑いながら、 「人は死ぬとき仰向けかうつ伏せだろ?上か下か、どっちかを向いて死ぬんだ。天国といえば空の上にあるだろ?地獄は地面のずっと下にある。人は、死んだ時最後に見た方へ行くことになるんだよ。だから人は、無意識のうちに仰向けになって死のうとするんだよ」
私は男の力説に、妙に納得をさせられてしまった。
「陽子はどっちへ行きたい?」
「天国だろうと地獄だろうと、そんなものどっちでもいい。ただ、死ぬときは空を見ていたいかな」
私は深く考えずに応えたつもりだったが、男は私の返事に何度も頷いていた。
「陽子らしいな」
「あなたはどっちへ行きたいの?」
「俺はもちろん、ヘブンだよ」
その男とはすぐに別れてしまい、別れてからしばらく経った、確か私が十九のとき、ダム湖の真ん中で、湖底を見つめながら浮いている男が発見された。上を向いていようが下を向いていようが、あの世へ逝けば閻魔大王に地獄に突き落とされるような行いをしてきた男だ。死んだと聞いてもさほど驚きはしなかった。男の存在などすぐに記憶から離れていったが、男から聞いたこの話だけは、何故か忘れることはなかった。
船内に視線を彷徨わせながら物思いに耽っていた私の耳に、海鳥の喧しい鳴き声が響いた。不意に激しく鼓膜を揺さぶられた為に、蝸牛で処理しきれなかった音波が耳鳴りとなって神経を伝い、脳を覆っている極めてデリケートな血管を小刻みに震わせた。嫌味な頭痛が全身を支配し、一瞬の目眩に襲われた私は、体を自分の支配下に戻すように立ち上がり、海を眺めながら軽く深呼吸をした。
喧しく鳴いた海鳥は、先程よりも更に船に、というよりも私に近づいているようであった。私の鼻先に触れんばかりの所まで嘴を寄せた海鳥は、先程までとは声色を変えて、少し低い声で不気味に一鳴きした。
この距離で海鳥を観察したことはなかったが、この海鳥は何故か不安そうな眼差しを私に向けていた。他の海鳥もこんな顔をしているのだろうか。とにかくその不安げな眼差しは、湖で死んだ男のこと、そして、今まで私が受け持った患者やその家族の顔を連想させた。
湧き上がってきた不快な記憶から目を背けるように、私は今から上陸する島へ、私のふるさとへと視線を移した。すでに船は港へと入っており、小さな船着場はもう目の前に迫っている。船着場に横付けするために、船は速度の微調整を行っている。モーターが連続的に唸り声を上げ、その度に甲板が気持ち悪く振動する。船着場のフェンスには、潮風に侵食され焦げ茶色になった看板が、海へ向かうように取り付けられている。「ようこそ! 野島へ!」と書かれているのが、かろうじて読み取れた。
甲板から左の方角を眺めてみると、野山と呼ばれている、この島の二つしかない山の、背の高い方の山が見えた。不気味に海に迫り出すような形をしている野山は、そろそろと紅葉の準備をしているようだった。
甲板から右側を眺めてみると、野山よりかは僅かに背の低い子山が見えた。野山よりも小さいから子山。正式な名称かどうかはわからないが、島の住民はみんなそう呼んでいた。少なくとも私が島を出る二十年前までは。
子山の麓には、外野の集落が見える。集落にある小さな漁港からは、さらに小さな漁船が黒煙をあげ出発しようとしていた。二十年前、私がこの島を離れる時に見た光景も、こんな感じだった気がする。二十年の月日が経っても、この島は町並みも山並みも船の形でさえも、全く変わっていないように思えた。あの小さな漁船も、黒煙を上げながら、オイルの匂いを振りまきながら、止まった時間の中を行ったり来たりしているのだろう。
船内に、聞き取りづらい声でアナウンスが流れた。まもなく到着するらしい。船の正面には、この島の中心である中野の町並みが広がっている。港には、一日二便のこの連絡船の関係者が三人ほど立っているが、それ以外の人影は見当たらない。
寂れたこの港は、島の時間は止まっていても、人の寿命は確実に時を刻んでいることを物語っているようだ。私が島にいた頃は、港の入口にあるタバコ屋の前に椅子を並べて、いつも井戸端会議をしている三人のおばさんがちょっとした有名人になっていたが、かつてのタバコ屋の玄関には、今はシャッターが降りていた。店の周りには錆びた廃材が積まれ、あの時座られていた椅子が物悲しく横たわっていた。
海鳥が喧しく鳴いた。一体この海鳥は、何処まで付いてくるのだろう。既にほとんど速度の出ていない船の横を飛ぶ海鳥は、忙しなく翼をばたつかせながら体勢を保ち、私に向かって声を上げている。
先程から不安げな視線を老婆に送っていた女が、ついに老婆の肩を揺すり始めた。肩を揺すられ耳元で声を掛けられている老婆は、それでも眠りから目覚めようとしないようだ。私は、足元に転がっていた杖を拾い上げ、老婆のもとへ歩み寄った。老婆の隣で肩を揺すっていた女が、今にも叫びだしそうな表情で私を見ている。私は人差し指で、そっと老婆の睫毛を刺激した。老婆はぴくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。隣で震えていた女が、溜息とともに間抜けな声を漏らした。まだ寝ぼけ眼な老婆に、私は杖を差し出した。老婆はゆっくりと杖を受け取ると、しわくちゃな笑顔を作り、私に向かってゆっくりと頭を下げた。私は軽い微笑みを返し、もう間近に迫った船着場に視線をやった。
後ろで海鳥が一層喧しく鳴いた。それと同時に、強い突風が船を襲い、大きく左右に揺れた船は、船着場から風に煽られるように離れた。船が体勢を整えようとモーターを唸らせる。
船の後方で海鳥が鳴いた。その声は、もはや人間の絶叫かと思えるような、心に焦燥感を強く感じさせるものだった。思わず私が振り返ると、海鳥は私と視線が合うのを待ちわびていたように、がくんと首を下ろすと、そのまま真っ逆さまに船体の下へと消えていった。
軽い水飛沫の音が、モーターの音に混じって聞こえた。私は、声を上げる間もなく船尾へ駆け寄り、海面を確認した。回転数を上げたスクリューが轟音を上げている。そこから、じわりじわりと真っ赤に染まった海水が溢れ出した。白い羽が、スクリューによってかき回された海水に流され、海中で渦巻いているのが微かに見えた。潮の匂いに混じるように、血や潰れた臓物の匂いが鼻を突いた。
海面を見つめたまま放心している私に罵声を浴びせるように、それまで静かだった遠くを飛ぶ海鳥たちが、一斉に喧しく鳴きだした。不意に風が強さを増したように感じた。私の正面からぶつかってきた風が、肩までしかない私の栗色の髪をかき乱した。その風を合図にするかのように、晴天の空からポツリポツリと小雨が降りだした。どこからともなく、船の汽笛の音が周囲に鳴り響いた。
狐の嫁入り。私は思わず呟いた。それに応えるように、しわがれた笑い声が船内に響き渡った。声の主は、先程まで居眠りをしていたあの老婆だった。しわくちゃの口を大きく開け、手を叩きながら大笑いしている。隣の女も不気味に小さく笑っていた。やはりこの島は狂っている。小雨が海面を叩く音と、海鳥の喧しい鳴き声と、老婆の笑い声とが混沌とする中で、私は死にそうになっている精神を必死に奮い立たせた。




