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残業




「今日も先に寝てていいよ」


 玄関で靴を履きながら、恋人のきょうが言った。それを聞いて真治しんじは口を膨らませた。


「また残業?」

「うん。四月、五月は特に忙しいんだよ。ゴールデンウイークには休みがもらえるから、それまでの我慢だよ」


 恭はそう言うと、そそくさと出て行った。


「あっ、待って」


 追いかけようと靴を履いている間にドアが閉まる。


「もう…」


 真治はため息をついて、部屋に戻った。


 絵本作家である真治は家にいる事が多い。今月の仕事はもう片付けてしまったため、今週は休日にしていた。

 ところが同棲相手の恭は、毎日仕事に追われてろくに話もできない。

 部屋に戻り、リビングの絨毯に掃除機をかけ始めた。


 わがままを言っている事は分かっている。

 自分は今年で二十三歳になるのだし、三つ年上の彼は会社勤めで忙しいのは知っている。


 恭と知り合ったのは、彼の会社にアルバイトで雇われている時だった。

 背が高くハンサムな彼をアルバイトの女の子たちがキャーキャー言っていた。

 真治はのんびりした性格で、絵本作家になりたくてまわりが見えていなかったのだが、真治がアルバイト最後の日、恭の方から告白してきた。


 初めて見た時から君の事しか目に入らなくて困った、と彼は言った。僕、男なんだけど、と不思議に思ったが、大きな体を丸めて恥ずかしそうにしている彼を見ていると、とてもいい人そうに思えたので、付き合ってみる事にした。


 恭はまめな男で真治を大切にしてくれた。

 いくら鈍感な真治でも惚れるには時間はかからなかった。

 アルバイトで最低限の生活をしながら、絵本を描き続けていた真治は、知り合いからも仕事をもらい、ぽつぽつと仕事量が増えて今のような状況に至った。


 その間に、恭から同棲の話を持ちかけられた。

 大学を卒業と同時に一緒に暮らすようになったのに、最近はスキンシップが足りない。


 掃除をし終えると、再来週には描き始めなくてはならない絵本のプロットでも考えようと仕事部屋に入った。


 机の上には恭の写真がある。

 優しい目で真治を見つめている。

 真治はそれを手に取った。


「大好きだよ」


 写真に向かって言うと、自分を元気付けるように真治は机に向かった。




 家を出た恭は、電車のつり革につかまり、揺られながらぼんやりとしていた。

 真治の瞳がすがるように自分を見つめていた。


 正直、恭は疲れていた。


 自由業である真治はいつでも家にいる事が多い。

 こうして通勤ラッシュにもまれたりする事もなく、好きな時に起きて好きな仕事をして、自由なのだ。

 だからこそ彼が好きだったのではないか。

 しかし、こんな事を今の自分に言い聞かせるのは酷だった。

 寝不足で頭もすっきりしない。食欲もなくて、恭はとにかく一日が早く終わればいいのにと思った。

 会社に着いて、机の上に置かれている書類に目を通す。特に急ぎの仕事はなくてほっとした。

 いすに座りしばらくすると派遣のアルバイトが好意でお茶を入れてくれた。


 アルバイトの男の子を見て真治の事を思い出した。

 いつもお茶を入れてくれるのは女子アルバイトばかりで、真治は何をしていいのか分からずぼうっとしていた。あの頃は、真治に夢中で仕事どころではなかった。

 お茶を置いてくれた子に、ありがとうとお礼を言う。

 最近は、派遣社員を扱う事が多くなったが、真治と会った時は今よりも多くのアルバイトを雇っていた。

 コピーや郵便の仕分け、他の部所までのお使いなど気楽に頼めて楽だったが、今は人件費を削っているため自分がやらなくてはならない。

 お茶を入れてくれた派遣のアルバイトは、一人一人の机に丁寧にお茶を運んだ。


 恭はほっと息をついて昼前に始まる会議のための資料をまとめて、コピーをするために立ち上がった。

 印刷機の前で少し息抜きをする。ウィーンウィーンとコピー機の音がしている。それを聞きながらふっと目を閉じた。


 真治は今頃何をしているだろう。


 いつも考えるのは真治の事ばかりだ。


 恭は苦笑した。


 今日は少し真治と話をしよう。

 最近、忙しい事を理由に全然かまっていなかった。

 彼の仕事をうらやんでいる自分が情けなく思う。

 恭はコピーし終えると印刷室を出た。机に戻ると郵便物がきていた。それを見ながら、急ぎの仕事がまぎれていた事に気付く。


「おいおい……」


 今頃来るなよ、とぼやいた。大きくため息をついて恭はいすに座った。




 夜、仕事から帰って来た恭はかなり疲れていた。お風呂をすませてソファでテレビを見ていた真治は、恭の着替えを手伝ってあげた。


「ありがとう、真治」


 恭は力なく真治に笑いかけた。


「俺、風呂に入るよ」

「僕も手伝おうか?」

「いいよ」


 恭はすぐさま風呂場に行ってしまった。

 あまりに疲れた背中を見せるので、真治はそれ以上しつこくはできなかった。

 風呂から出るのを待っていた真治は、やっと出てきた恭のそばに立った。


「ねえ、恭」

「ああ、ちょっと待って」


 恭は体を拭きながら寝室に入っていく。真治は追いかけた。

 恭はパジャマを着ると、目覚ましをかけてすぐにベッドに入った。


「あっ」


 真治は驚いた顔をして自分もあわててベッドに入った。

 恭のまだホカホカしている体に抱きついた。


「ねえ、寝ないでよ」

「真治……」


 恭は目を瞬かせた。


「頼むから、そんな顔でしがみつくのはやめてくれ」


 真治は恭の体に手を伸ばす。


「ねえ、お願いだよ」


 しかし、恭の体は反応しない。呆然とした真治はベッドから飛び出た。


「もういいっ。僕はソファで寝る」

「真治、そんなわがままばかり言うなよ」


 恭の目はもうほとんど閉じかけていた。ばたばたと寝室を飛び出した真治を追いかけようともせず、恭

の目は閉じられて深い眠りに落ちた。

 真治はソファに身を投げ出し、すぐに恭が追いかけてくるだろうと待っていたが、いくら待っても恭は現れない。


 少しして寝室に戻ると、恭はぐっすりと眠っていた。


「恭……」


 真治は泣きたくなった。

 唇を噛んでベッドの中に入る。まだ四月初めで夜は冷える事が多い。

 真治は恭の背中にしがみついた。背中は温かくて真治はしがみついたまま眠った。


「恭のばか……」


 真治は呟いた。





 朝、目が覚めるとすでに恭はいなかった。


「おはよう」


 起き出してリビングに行くと、恭はすでに出かける支度をしていた。


「ねえ、どうしてそんなに仕事が忙しいの? おかしいよ」

「そんな事言われてもね、人事異動で引継ぎがあったり、新入社員研修があったりと、面倒臭い事を押し付けられてるんだよ。俺は」

「ふうん……」


 真治はいすに座ってコーヒーをカップに注いだ。


「ごめんな、真治」


 恭がそう言って真治の頭を撫でる。真治はドキッとして首を振った。


「い、いいよ」


 優しくされるとそう言わざるをえない心境だ。

 恭はほっとした顔をして、じゃあ、今日も遅くなるから先に寝てていいよ、とお決まりなセリフを伝えてばたばたと出て行った。

 真治は大きくため息をついて、恭がいないとする事もないし、仕事をしようと思った。

 朝食をすませて、描きかけだった絵本の仕上げに取りかかる。

 自作の絵本で、白ウサギに恋したライオンが、森の中へ白ウサギのほしいものを探しに行くという設定だ。

 どうしてサバンナにしかいないはずのライオンが森の中にいるのかとか、細かい事は気にしない。

 大きなライオンに色とりどりの色をつけながら真治はふと眠くなってきた。


「あれ……?」


 真治の集中力は恭が感嘆するほど高い。しかし、なぜか今日に限って眠くて仕方がなかった。

 真治は首を振って立ち上がった。

 寝不足だろうかと思いながら、コーヒーでも飲んで眠気を覚まそうと、お湯を沸かしに行った。だが、そのまま台所でずるずると倒れてしまった。

 真治は自分でも気が付かないうちに眠っていた。





 営業に出ていた恭は、出先で同僚と昼食を食べていた。すると、携帯電話が鳴り出した。

 箸を置いて電話に出ると、会社の女の子だった。

 女の子は用件を伝えた。


「―――という事になりました」


 と言われて、返す言葉もなかった。


 電話を切り、疲れきった顔をした恭に同僚が声をかけた。


「誰から?」

「会社から、仕事が終わったら歓迎会やるって」

「えっ」


 同僚は嫌そうな顔をした。


「何だよ、それ……」


 同僚が机に頭を押し付ける。


「俺たちを過労死させる気か? ていうか、保険下りるのかよ」


 最近は会社全体の雰囲気が重い。いくら忙しいからとはいえ休みなく働かされているのだ。同僚が怒るのも無理はない。


 恭は真治の事を思い出して口を押さえた。


「どうした?」

「いや……」

「あ、お前も彼女に言い訳を考えてるんだな」


 同僚がからかうように言う。


「そうじゃないよ」


 恭は同僚を睨んだ。図星だった。






 真治は夢を見ていた。恭と初めてデートした時の事だ。

 恭は、映画の帰りに少しだけ手をつないでもいいかな、と言った。

 え? 真治はきょとんとした顔をすると、人がいない事を確認して恭は真治の手を握った。

 真治はドキッとしてすぐに手を離してしまった。


「あ、嫌だった?」

「え?」


 真治は首を振った。


「い、いえ。恥ずかしくて」


「あ、そうだよね。ごめんな」


 恭は顔をくしゃっとさせて笑った。真治はその顔を見て、おずおずと自分から手を差し出した。


「え……」


 恭はびっくりして真治を見た。


「あ、あの、もう一回握ってもらえますか?」


 真治が言うと、恭はうれしそうに真治の手を握りしめた。

 真治はそこから熱意が伝わってきてすごく恥ずかしい思いをした。


「また、誘ってもいい?」

「え?」

「映画とか、いろいろ」

「あ、もちろんっ」


 真治は一生懸命頷き返した。すでに、彼の事が好きだと思い始めた頃だった。


「よかった」


 恭が笑った。




 真治はすーっと目を開けた。


「あれ……?」


 真治は目を覚まして、自分が台所で倒れている事に気付きギョッとした。


「うわっ」


 床で寝たんだと思って焦って体を起こすと、辺りはすっかり暗くなっていた。


「ご飯作らなきゃっ」


 真治はあわてて台所に立った。どうして自分が台所で寝こけていたのか、その時は気にもとめなかった。

 すぐに恭のために夕食を作らなくてはと焦る。

 結局、カレーしか作れなかった。ルーを混ぜながら真治はため息をついた。

 せっかく自分には時間がたくさんあって、大好きな人のために食事の用意ができるのに、カレーだなんて、恭が見たらがっかりするかもしれない。

 真治はふうっと息を吐きながら味見をした。


「辛いっ」


 甘口を混ぜた方がいいかな、それとも中辛がいいかなと思案していると、電話が鳴った。


「はい。夕月です」


 真治の名前は夕月ゆうづき真治と言う。

 恭は大塚恭で、二人は電話に出る時は使い分けていた。

 電話の向こうから聞こえたのは、恭の声だった。


『真治?』


 恭の声は少し低くて真治はどきりとした。


「あ、恭?」

『あのさ、今日夕飯いらなくなった』


 恭は言いにくそうにもごもごと言った。


「え? どうして?」

『急に歓迎会をすることになって』

「え? それって……」


 どういう事だろうと真治が不安そうに思っていると、


『ごめんな』


 と恭が言った。


「えーっ」


『本当にごめんな、真治』

「分かった」


 真治はがっくりしながら受話器を置いた。


 カレーの辛口だろうが甘口だろうがどうでもいい気がした。






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