「婚約破棄ですか? ええ、構いませんよ」記録係が消えた宮廷は、二度と動かない
「リーゼロッテ。君との婚約は、本日をもって破棄する」
夜会の大広間に、第二王子アルベルトの声が響いた。
シャンデリアの光が揺れる。三百人を超える貴族たちの視線が、一斉にこちらに集まった。
絹のドレスが擦れる音。グラスを置く音。ひそひそ声。広間が静まり返り、やがて水を打ったような沈黙に変わる。
「君は地味で退屈だ。記録ばかりの女に、王妃は務まらない」
アルベルトの腕には、聖女マリエルがしがみついていた。金色の巻き毛を揺らし、大きな瞳をうるませて「ごめんなさい、私のせいで」と呟いている。
完璧な構図だった。非道な元婚約者と、か弱い聖女。まるで舞台のお芝居のように整っている。
(……台本でもあるのかしら)
リーゼロッテ・フェルトハイムは、胸の奥にじわりと広がる安堵を噛みしめていた。
怒りではない。悲しみでもない。
五年間ずっと喉に刺さっていた小骨が、ようやく取れた——そんな感覚。
泣くのか。怒るのか。膝を折って懇願するのか。
みんなが固唾を飲んで、リーゼの反応を待っている。
(ああ、やっと終わる)
背筋を伸ばし、スカートの端を軽くつまんで一礼した。前世で何十回も書いた退職届の記憶が蘇る。
「かしこまりました、殿下」
にっこりと微笑んだ。営業スマイルは前世で鍛え上げた得意技だ。
「五年間、ありがとうございました。殿下の今後のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
広間の空気が凍りついた。
泣きもしない。怒りもしない。それどころか——微笑んでいる。
「ま、待て。何か言うことはないのか?」
アルベルトの声が裏返った。台本にない展開に動揺している。
「言うこと、ですか」
リーゼは小首を傾げた。
「特にございません。殿下がお決めになったことですもの」
「し、しかし——五年も——」
「ええ。五年間、お世話になりました」
誰かが「あの方、泣かないの?」と囁いた。別の誰かが「強がりよ」と返す。
マリエルが「ごめんなさい……私さえいなければ……」と涙を流してみせたが、リーゼの視界にはもう入っていなかった。
違う。強がりではない。
リーゼの心は、前世の上司に三時間怒鳴られた後にプレゼンを完遂したあの日と同じように——凪いでいた。
「では、お幸せに」
踵を返す。大広間の扉を、自分の手で開け、自分の手で閉めた。
振り返らなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
月明かりの差す回廊を、リーゼは一人で歩いていた。
靴音だけが石畳に響く。パーティー会場の喧騒が遠くなっていく。
(さて、どうしよう)
五年間を、歩きながら振り返る。
前世の記憶が戻ったのは十歳のときだった。日本のブラック企業で議事録係として働き、連日の深夜残業と休日出勤の果てに過労死した二十七歳のOL。それが前の自分。
手取り十六万。家賃を引いたら食費に回す余裕もなかった。毎朝五時半に起きて満員電車に押し込まれ、会議室で上司たちの怒号を聞きながら正確に議事録を打ち込む。それがリーゼ——いや、あの頃の「坂本理世」の全てだった。
目が覚めたら侯爵家の令嬢で、魔法のある世界にいた。
頭の中に残っていたのは、膨大な量の「記録を取る技術」だけ。
宮廷書記局に配属されたのは十五歳。王宮で最も地味な部署だった。
仕事は二つ。
一つは記録魔石の管理。記録魔石とは、会議や謁見の音声と映像を自動的に保存する魔道具だ。軍事会議も外交交渉も予算審議も、全てこの魔石に記録される。
もう一つが、手書き帳簿の作成。魔石の生データは膨大で、そのままでは誰にも検索できない。リーゼは毎日、魔石データを手書きの帳簿に落とし込んだ。
(誰が。いつ。何を言った。提示された数字は前回と整合するか。発言の矛盾はないか。出席者の署名と議事録上の記載は一致するか)
前世の議事録係の本能が、異世界でも寸分の狂いなく動いた。
五年分。三十七冊。
リーゼの帳簿は宮廷のあらゆる取引、決定、約束の「索引」であり「証拠台帳」になっていた。
しかし誰もその価値に気づかない。書記局は宮廷の隅っこで、リーゼの仕事は「地味な記録係」と片付けられていた。
(まあ、前世も同じだったけどね)
婚約者のアルベルトは五年間で一度も書記局を訪れなかった。「記録係の婚約者」は社交界で笑い話にされていたし、マリエルが王宮に現れてからは、リーゼの存在自体が忘れられていた。
——唯一の例外が、あの男だった。
三年前。宮廷監察官として赴任してきたクロード・ヴァレンシュタイン公爵。
「冷血の監察官」の異名。宮廷の不正を暴くのが仕事で、官吏たちは彼の前では目を伏せ、震える声で敬語を使った。廊下ですれ違うだけで空気が張り詰める、そういう存在。
リーゼが彼と初めて会話した日のことは、鮮明に覚えている。
帳簿を三冊抱えて書記局の廊下を歩いていたら、向かいから長身の男が歩いてきた。灰色の瞳。黒い監察官の外套。すれ違いざま、リーゼは足を止めた。
「ねえ、あなた監察官でしょう? この記録の三ページ目、穀物の数字がおかしいの。前月比で三割増なのに予算は据え置き。これ、見てくれない?」
クロードが足を止めた。灰色の瞳がわずかに見開かれる。
無理もない。宮廷中が怯える「冷血の監察官」に、タメ口で話しかける人間など一人もいなかったのだから。
「……君は、俺を怖がらないのか」
「前の上司の方がよっぽど怖かったから」
それが始まりだった。
以来、毎日退勤時に廊下ですれ違った。
他の官吏たちが「お疲れ様でございます」と縮こまる中、リーゼだけが「お疲れ。今日の会議、長かったね」と普通の声をかけた。
クロードは最初、驚いた顔で黙っていた。
一ヶ月後には、「ああ」と短く返すようになった。
三ヶ月後には、リーゼの退勤時間に合わせるように廊下にいることに気がついた。
やがて会話は、退勤時のすれ違いだけでは収まらなくなった。
クロードが帳簿の確認のために書記局を訪れるようになり——リーゼだけが、その本当の理由に気づかなかった。
「この外交文書の原本、どこにある?」
「三十二番棚の下から二段目。去年の秋の通商会議の分でしょ? 帳簿の索引は七冊目の百十二ページ」
「……聞いてから三秒で出てくるのか」
「当たり前でしょ。私の棚よ」
クロードが微かに目を細めた。それが彼なりの感嘆の表情だと気づいたのは、もう少し後のことだ。
ある冬の日。窓の外に雪が降る書記局で、リーゼは遅くまで帳簿を整理していた。
ふと顔を上げると、クロードが入口に立っている。
「まだいたのか」
「今日の分が終わらなくて。あと三十分で片付くわ」
「……寒くないのか」
「平気よ。前世の会社は暖房費ケチってたから、これくらい——」
言い終わる前に、黒い外套がリーゼの肩にかけられた。
重くて、温かくて、少しだけクロードの匂いがした。
「あ……」
「返さなくていい。明日取りに来る」
そう言って、クロードは何も聞かずに出ていった。翌日ちゃんと取りに来たけれど——その日から、退勤間際のリーゼの机に温かい紅茶が置かれるようになった。
カップには湯気が立っていて、少しだけ蜂蜜が入っている。誰が淹れたのかは分からない。書記局の同僚に聞いても「知らない」と首を傾げるだけ。
(まあ、ありがたいし、いいか)
リーゼは毎日、その正体不明の紅茶を飲んだ。温かくて甘くて、一日の疲れが少しだけ溶けるような味がした。
そんな穏やかな三年間が、今夜で終わった。
全部、終わった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
書記局の扉を開ける。
薄暗い部屋に、記録魔石が青白い光を放っていた。五年間ずっと隣にあった光。
リーゼは棚に手を伸ばした。帳簿を一冊ずつ取り出し、鞄に詰めていく。革の背表紙に年号が刻まれた三十七冊。ずしりと重い。
(これは五年分の私の仕事よ。退職金の代わり)
議事録は会社の資産——前世ならそうだ。けれどこの世界には「記録係の著作権」なんて概念はない。帳簿を私物として持ち出しても、誰も咎めないだろう。なにしろ誰も、この帳簿の価値を知らないのだから。
記録魔石の管理盤に手を置く。指紋認証のように、魔力パターンで管理者を識別する装置。
認証解除。管理者権限を返上。
魔石の光がふっと弱まった。新しい管理者が登録されるまで、記録魔石は起動しない。
「おしまい」
鞄を肩にかけ、書記局を最後に見渡した。
五年分の日常が詰まった小さな部屋。窓際の机。使い込まれた椅子。そして——いつも夕方になると紅茶が置かれていたあの場所。
(ありがとうございました、お疲れ様でした)
心の中で頭を下げて、扉を閉めた。
回廊を歩く。宮廷の出口はもうすぐだ。
角を曲がった——その瞬間、足が止まった。
月明かりの差す廊下に、クロードが立っていた。
壁に背を預け、腕を組み、まるで最初からそこにいたかのように。夜会の正装ではなく、いつもの黒い監察官の外套を羽織っている。
三年間、毎日すれ違った場所。同じ廊下。同じ距離。
「……どこに行く」
いつもと同じ声。敬語ではない、リーゼにだけ向ける素の口調。
「帰るの。婚約破棄されたから」
「聞いた」
「そう。じゃあ話は早いわね」
クロードの横を通り過ぎようとした。
「それで?」
「それで、おしまい。五年間の記録係生活も、婚約者ごっこも、全部終わり」
軽い調子で言ったつもりだった。でも声が少し震えたのは、疲れのせいだと思うことにした。
「おしまい、か」
クロードが壁から離れた。長い脚が一歩、石畳を踏む。
リーゼの前に、大きな影が落ちた。
「俺が終わらせないと言ったら?」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……は?」
思わず素の声が出た。前世の、坂本理世の口調が漏れる。
「ちょっと待って。どういう意味?」
「そのままの意味だ」
クロードの灰色の瞳が、月明かりの中で真っ直ぐにリーゼを見ている。
いつもの無表情ではなかった。眉間に微かな皺。唇が一文字に引き結ばれている。表情に——乏しいはずの彼の顔に、何かが滲んでいた。
「三年前の廊下で、お前は俺に声をかけた」
「……うん。穀物の数字の話でしょ。覚えてるわ」
「あの日から——いや、正確に言う」
クロードが息を吸った。胸が大きく膨らんで、吐き出された言葉はひどく静かだった。
「三年間。毎日、同じ廊下を通った。お前に会うためだ」
心臓が跳ねた。大きく、一度。
「宮廷のすべての人間が、俺に敬語を使う。目を伏せる。恐れるか、媚びるか——どちらかしかない。この三年間、例外は一人もいなかった」
「……」
「一人を除いて」
クロードがもう一歩、近づいた。
「お前だけが『ねえ』と呼んだ。お前だけが俺の目を見て話した。お前だけが——帳簿の数字を突きつけて『これおかしくない?』と、俺を対等の人間として扱った」
リーゼの肩にかかった鞄——三十七冊の帳簿が詰まった鞄に、クロードの視線が落ちた。
「お前の帳簿を初めて読んだとき、驚いた。魔石の膨大なデータから矛盾を一つ残さず抽出している。日付の誤差、数字の不整合、発言の食い違い。五年分、一日も欠かさず。俺の監察資料より正確だった」
「……仕事だもの。当然でしょう」
「当然じゃない。この宮廷で、あれだけ正確な記録を維持できる人間は他にいない」
クロードの声が、低く、しかし確かに震えた。
リーゼは目を見張った。この男の声が揺れるのを、三年間で一度も聞いたことがなかった。
「最初は帳簿に驚いた。次に、お前という人間を尊敬した。毎日手を抜かず、誰にも気づかれなくても正確に書き続ける姿を——俺は見ていた」
手が伸びてきた。大きな手。監察官の仕事で剣だこができた、けれど不思議と温かい手。
リーゼの頬に、その手が触れた。
「退勤の時間にお前とすれ違う。短い言葉を交わす。それが——いつの間にか、一日で一番大切な時間になっていた」
「……クロード」
「紅茶」
「え?」
「毎日、お前の机に紅茶を置いていたのは俺だ」
——息が、止まった。
「あれ……あなただったの?」
「書記局の同僚には口止めした。大したことじゃない。ただ——」
言葉が一瞬途切れる。クロードが視線を逸らしかけて、それでも真っ直ぐにリーゼを見据えた。
「お前が温かいものを飲むとき、ほんの少しだけ目を細める。その顔が——見たかった。それだけだ」
(……え。ちょっと待って。三年間? 三年間、あの紅茶を?)
心臓がうるさい。前世を含めて四十七年分の人生で、こんなことを言われたことは一度もなかった。前世では恋人もいなかった。告白されたこともなかった。毎日毎日、議事録を打ち込むだけの人生だった。
「それだけの理由で……三年間も?」
「足りないか?」
「足りすぎるわよ、馬鹿」
声が震えた。目の奥が熱い。
クロードの唇がわずかに上がった。リーゼが三年間で初めて見た——笑みだった。
硬い表情の男が、月明かりの中でほんの少しだけ、柔らかくなった。
「俺の屋敷に来い」
「……それ、仕事の話?」
「仕事の話だったら、こんな顔はしない」
頬に触れていた手が、リーゼの後頭部に滑った。髪を梳くように、ゆっくりと。
「お前は俺のものだ」
低い声が、鼓膜に直接響く。
「あの王子にも。この宮廷にも。誰にも——二度と渡さない」
リーゼの視界が滲んだ。
泣かないと決めていた。前世でも今世でも、人前では絶対に泣かないと。上司に怒鳴られても、残業が二百時間を超えても、婚約者に無視され続けても——泣かなかった。
なのに。
「……ずるい」
涙がこぼれた。今世で、初めて。
「そんなこと言われたら——断れないじゃない」
クロードの腕がリーゼを引き寄せた。三十七冊の帳簿が詰まった重い鞄ごと、大きな胸の中にすっぽりと収められる。
耳元で、低い声がした。
「断らなくていい」
大きな手が背中を撫でる。震えるリーゼの体を包み込むように。
「もう、誰にも返さない」
月明かりの回廊で、リーゼは生まれて初めて——二つの人生を通じて初めて——誰かの腕の中で泣いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
——その後のことを、語ろう。
リーゼロッテ・フェルトハイムが宮廷を去った翌朝。最初に異変に気づいたのは、外務卿だった。
朝の閣議を開こうとして、記録魔石が起動しない。管理者権限が返上されたまま、新しい担当者が登録されていなかったのだ。
「書記官に任せよう」と大臣たちは言ったが、書記局の残った官吏は魔石の操作方法すら知らなかった。五年間、全てリーゼが一人でやっていたのだから。
記録なしの閣議。それは前世で言えば、議事録のない取締役会のようなものだ。誰が何を言ったか、証拠が残らない。
三日目。
隣国グランヴェルト帝国から書簡が届いた。半年前に締結した通商条約について、「合意した関税率が食い違っている」という正式な抗議文。
外務卿が慌てて記録を探した。魔石にはデータがある——はずだ。しかし魔石の中身は、日時も分類もなく放り込まれた膨大な生データの山。リーゼの帳簿なら索引を引いて一分で見つかる情報が、帳簿なしでは三日かけても出てこなかった。
(帳簿は——)
三十七冊。全て、リーゼが持ち出していた。
一週間後、宮廷に激震が走った。
聖女マリエルの「奇跡」に矛盾が見つかったのだ。マリエルが「北の神殿で疫病を癒した」と主張した日の記録魔石の断片データに、彼女が王都の夜会に出席していた映像が残っていた。
本来、この矛盾はリーゼの帳簿の中で「日付の不一致」として静かに眠っていた。帳簿がある間は表に出ない。リーゼが注釈をつけ、整理し、しかし誰にも告発しなかった。仕事だったから。記録はあくまで記録であり、裁くのは記録係の仕事ではない。
しかし帳簿という蓋が取れた瞬間——生データの断片が、秩序なく宮廷に流出し始めた。
二週間後。
宮廷はすでに混乱の極みにあった。
記録不在の閣議で決まった事項は隣国に否定され、マリエルの疑惑は社交界に広がり、未処理の外交案件が山積みになっていた。
軍事費の精算もできない。前年度の予算と今年度の支出を紐づける帳簿がないのだ。財務卿が蒼白な顔で「リーゼ殿の帳簿がなければ、国庫の収支報告書が作れません」と閣議で悲鳴を上げた。
全てが、「記録係が一人いなくなっただけ」で起きている。
いや——正確に言えば、五年間一人の記録係に頼り切っていたことに、誰も気づいていなかっただけだ。
アルベルト第二王子は、青ざめた顔でクロードの屋敷を訪れた。
「リーゼを……返してくれないか。いや、戻ってきてくれるだけでいい。条件は何でも——」
応接間のソファに座ったリーゼは、紅茶のカップをソーサーに置いた。かちり、と小さな音が鳴る。
「お断りします、殿下」
五年前と同じ——穏やかで、凪いだ微笑み。
「退職届は受理されましたので」
「しかし帳簿がなければ宮廷が——」
「ええ。存じ上げております」
リーゼは紅茶に視線を落とした。蜂蜜入りの、温かい紅茶。今はもう、誰が淹れてくれているか知っている。
「あの帳簿は、五年間の私の仕事の成果です。『地味で退屈な記録係』の、五年間分。お返しする理由がございません」
アルベルトの拳が震えた。何か言おうとして——けれど言葉が出てこない。
隣に座っていたクロードが、静かに口を開いた。
「聞いたか。もう遅い」
その声は低く穏やかだったが、壁際の使用人たちが一斉に背筋を伸ばすほどの冷気を含んでいた。灰色の瞳がアルベルトを射抜く。三年間宮廷の不正を暴いてきた、あの目。
「帰れ」
一言だった。
「次はない」
アルベルトが何か言いかけた。しかしクロードの瞳を見た瞬間、言葉を飲み込み、逃げるように応接間を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「……ちょっと怖かったわよ、今の」
「怖がらないのがお前の取り柄だろう」
「怖がらないのと、怖くないのは別よ」
クロードの手が伸びて、リーゼの髪をひと房すくった。指先が耳の後ろに触れる。くすぐったくて、少しだけ体が跳ねた。
「……なに?」
「触りたかった。前から」
「急に正直になるのやめてくれない?」
「お前が隣にいると、口が勝手に動く。俺もまだ慣れていない」
(……こんな顔するのね、この人)
冷血と呼ばれた男の瞳が、紅茶の湯気越しにリーゼを見ている。柔らかく、少しだけ不安そうに。まるで目の前のものが消えないか確かめるように。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
——クロード邸での生活が始まって、一ヶ月が経った。
リーゼはクロードの書斎で、新しい帳簿をつけている。公爵家の記録管理。規模は宮廷より小さいけれど、やることは同じだ。正確に、丁寧に、一日も欠かさず。
違うのは、全てだった。
朝九時に始まり、夕方六時に終わる。残業はない。
昼には庭を散歩する時間がある。書斎の窓からは季節の花が見える。
同僚は穏やかで、誰もリーゼを「地味」とは呼ばない。
むしろ先日、侍女長に「リーゼ様がいらしてから旦那様がお変わりになりました」と言われた。「お変わり」の中身を聞いたら「廊下で鼻歌を歌っていらっしゃいました」とのことで、リーゼは紅茶を噴きそうになった。
(冷血の監察官が鼻歌って。絶対に本人には言えない)
そして何より——毎日、退勤の鐘が鳴る少し前に、クロードが紅茶を持って現れる。
「今日のは新しい茶葉だ。帝国の南部から取り寄せた」
「ありがとう。……って、公爵が自分で紅茶を淹れるの、使用人さんたちに驚かれてない?」
「最初は驚かれた。今は慣れたらしい」
「慣れちゃだめでしょ、それは」
「俺が淹れたいから淹れている。他人がどう思うかは関係ない」
リーゼは紅茶を一口飲んだ。ほんのり甘い。蜂蜜が少しだけ入っている。三年間ずっと、同じ味だった。
「ねえクロード、この帳簿の三ページ目なんだけど——」
「後にしろ」
「え、でもこの数字の不一致が——」
カップを静かに取り上げられた。大きな手が、リーゼの頭にそっと乗る。前髪を梳くように、ゆっくりと指が動く。
「先に休め。お前は働きすぎだ」
「……前世から言われ慣れてるんだけど、あなたに言われると素直に聞きたくなるのが腹立つのよね」
「素直に聞け。従業員の健康管理は雇用主の義務だ」
「それ、どこで覚えたの」
「お前が寝言で言っていた」
「嘘でしょ」
「嘘だ」
リーゼが目を丸くすると、クロードがほんの少しだけ口角を上げた。笑っている。この男が冗談を言うなんて、一ヶ月前には想像もできなかった。
髪を撫でる手が頬に滑り落ちて、顎をそっと持ち上げられた。
「な、なに」
「目を見ている」
「知ってるわよ、近いから」
「こうしていないと——たまに、お前が廊下の向こうに消えていく気がする」
クロードの声が、かすかに掠れた。
リーゼは伸ばしかけた手を、彼の頬に触れさせた。冷血と呼ばれた男の肌は温かかった。
「消えないわよ」
真っ直ぐに、灰色の瞳を見上げる。
「定時で帰れて、紅茶が出てきて、好きな人が隣にいるの。前世から合わせて四十七年生きてきたけど、こんな幸せ、初めてよ。これ以上何を望むの」
「……職場として褒めているのか?」
「最高の職場として褒めてるの」
「褒め方が独特だ」
「元社畜だから。でもね——」
リーゼはクロードの手を取った。大きくて温かい手。この手が三年間、黙って紅茶を置いてくれていた。
「職場としてだけじゃないわよ。分かってるくせに」
クロードの耳が赤くなった。冷血の監察官の耳が。リーゼは初めてそれを見て、思わず笑ってしまった。
「——笑うな」
「ごめん、無理。あなた耳赤くなるんだ」
「お前のせいだ」
「知ってる。嬉しい」
クロードが大きな手でリーゼの頭を引き寄せ、額にそっと唇を落とした。一瞬の、温かい感触。
リーゼの心臓が飛び跳ねる。四十七年分の人生で初めての額へのキスに、頭が真っ白になった。
「……っ、急にそういうことするの、心臓に悪い」
「お前が笑ったのが悪い」
「それ理由になってない」
「なっている。お前の笑顔が見たいのは、紅茶を飲む顔が見たいのと同じだ。俺には十分な理由だ」
(……もう。ほんとにずるい、この人)
クロードが笑った。声を出して。使用人たちが廊下で足を止めるほど珍しい、柔らかい笑い方で。
その笑顔に、リーゼの胸がきゅうと締まる。
「俺は欲張りだから、まだ足りない」
「……何が?」
「お前の隣にいる時間が——もっと欲しい」
窓の外で、夕刻の鐘が鳴った。
六つ。定時。
リーゼは帳簿を閉じた。
新しい一冊目。一ページ目。ここから始まる記録は、きっと前の三十七冊よりもずっと——幸せな数字で埋まっていく。
「……ねえ、クロード」
「なんだ」
「明日も、紅茶淹れてね」
「当然だ。明日も、明後日も——」
少し間があった。
「ずっと」
その一言は、宮廷の記録魔石にも帳簿にも記録されない。
けれど——リーゼの胸の中に、何よりも確かに刻まれた。
今日も定時で、世界は優しい。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




