09 すべて捨ててしまえばいい
なかなか戻らない私を追いかけてきてくれたのか、頭上から降ってきたシグルドさんの声は呆れたような、それでいてどこか安堵したような色が滲んでいた。
「ったく、どこで油を売ってるのかと思ったら……。そんなところで寝てっと、そのまま雪に呑まれてムジカの寝床になっちまうぞ」
「……星が、綺麗だなって。北部の夜空は、王都よりもずっと澄んでいるんですね」
仰向けに倒れたまま漏れ出た言葉は、自分でも驚くほど乾いた声だった。
「……ああ。余計な光がねぇからな。その分、雪籠りの夜は恐ろしく冷える。人も獣も、等しく凍らせやがる」
シグルドさんは短く答えると、無造作に大きな右手を差し出してくる。
私がその節くれ立った大きな手を握ると、彼はまるで羽毛でも持ち上げるかのような軽やかさで、私を片手でひょいと起き上がらせた。
雪を払い落とす間もなく、ポン、と大きな手が私の頭を叩く。
それは慰めというにはあまりにも雑で、けれどどこか軋んだ私の心を無理やり現実の世界へと引き戻すような、不思議な力強さと温かさを持っていた。
「……シグルドさん」
「なんだ」
「あの男の人……。あまり、悪いようにはしないでいただけませんか」
いくら金に困窮していたとはいえ、彼が悪事に手を染めたことに変わりない。そんな相手に慈悲めいた言葉をかける自分は、さすがは王都のお花畑に住む愚か者だと笑われるかもしれない。
けれど、言葉巧みに甘い誘いをかける相手さえいなければ、彼は少なくともこの北部に来ることはなかったはずだ。
「情報をくれました。……協会内に、北部の情報を売り渡した男がいたんです」
シグルドさんは私の言葉に、少しだけ眉を動かした。
「……やったことは変えられねぇ。北部の掟を破り、密猟に手を染めた以上はそれなりの代償は払ってもらう。それがこの地で秩序を守るための流儀だ」
突き放すような厳しい言葉。けれど、続く彼の声には冷徹な響きはなかった。
「……とはいっても、ヴィンターハルトも年中人手不足なんだ。命を無駄にするほど余裕はねぇよ。反省して、真っ当に身体を動かす気があるなら開拓地や炭鉱でいくらでも使い道はある。……実際にそうやって改心して、今じゃ北部の守備隊や猟師団で俺の背中を支えてる野郎だって、一人や二人じゃねぇんだぜ?」
シグルドさんはニカッと頼もしく笑ってみせた。
「だから、死なせはしねぇよ。……それが嬢ちゃんの願いなら、なおさらだ」
その言葉に、胸の奥に溜まっていた泥のような塊が、ほんの少しだけ消えたような気がした。
「……ありがとうございます。それとその、協会のことなんですけれど――」
密猟に加担している人間がいる。しかもあろうことか自分の婚約者だった男だ。
そのことを告げると、シグルドさんは難しい顔をしてしばらく黙り込んだ後に、もう一度私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「その件は俺に任せておけ。だから今は気にすんな」
「私のせいです。私の管理が行き届かなかったばかりに、ヴィンターハルトに多大な被害を与えてしまいました……」
「気にすんなって言っただろうが。それに悪いのは嬢ちゃんじゃない。悪だくみしている連中だ。……戻んぞ。酒が足りねぇって野郎どもがうるせぇからな。お前さんも今は何も考えねぇで、せいぜい胃袋を酒で焼いときな」
シグルドさんはそれだけ言うと、私の背中を軽く叩いた。私は頷くことさえできず、ただその大きな背中の後ろに続き、オレンジ色の温かな光が漏れるログハウスへと足を向けた。
扉を開けた瞬間、爆ぜるような笑い声と、むせ返るような酒の匂い。そして薪が燃える熱気が押し寄せてくる。いつの間にやら宴の参加者も増えているようだ。
ついさっきまでなら気後れして立ちすくんでいたはずなのに。今はその喧騒がありがたいとすら思える。
何も考えなくて済む場所へ、一刻も早く混ざりたかった。
「戻ったか! まったく、カシラと外でしけこもうだなんて大したお嬢さんだよ」
既に何人かの猟師は床に転がり、一人の老猟師が酔った勢いで私に絡んでくる。
「お嬢さんもカシラに目をかけられるなんて幸運だったな! このカシラ、今はこんなナリしてっけど、昔はな――」
「お前らなぁ、調子に乗って余計なことまで喋るんじゃねぇよ。いいから飲め、酒が余ってんだろうが!」
シグルドさんが乱暴に差し出したマグを、私は迷わず受け取った。
そこに注がれていたのは、琥珀色の強い蒸留酒。王都にいた頃なら眉をひそめて遠ざけていたような類のもので、匂いだけで喉が焼かれそうだ。
ふと脳裏をよぎったのは、あの倉庫に残してきた「銀の鳥」。
彼の瞳の色――穏やかな夕暮れの色に似ている宝石を嵌めて特注したあの品。
せり上がってくる吐き気を飲み込むように、私は一気に杯を煽った。
喉が、胸が、焼けるように熱い。けれど、脳裏にこびりついたデイヴの薄っぺらな笑顔を消しさるためには、これくらいの暴力的な刺激が必要だった。
宴は夜更けまで続いた。
驚いたことに、私は何杯お酒を勧められても顔色一つ変わらなかった。
蜂蜜酒、強い蒸留酒、地元の毒消しだと言われる泥のように苦い薬酒。
勧められるまま、あるいは自分から手を伸ばして、私はひたすら絶望を胃へ流し込み続けた。
自信満々だった若手の猟師たちが次々と机に突っ伏して高いびきをかき始める中、注がれた酒をまた飲み干した。
「……嬢ちゃん、お前なぁ。勧めておいてなんだが、その細い身体のどこに酒が入ってんだ」
「自分でも驚きました。王都ではグラス一杯で止めてましたから」
デイヴに望まれていたのは、おしとやかで分を弁えたリンド家のお嬢様だった。それが分かっていたからこそいつだって自分を律し、周囲に気を配り、適度なところで酒を断っていた。
そんな努力も気遣いも、令嬢としての振舞いも――すべては無駄でしかなかったんだ。
ふ、と乾いた笑いが漏れる。
「所詮は王都のお嬢さんかと思ったが、根っこはとびきり上等な北部の女だな! お嬢さん、あんたも今日から俺たちの仲間だぜ!」
猟師たちは私の飲みっぷりを見ては歓声を上げ、仲間として迎え入れるように私の肩を乱暴に叩いた。
――ああ、もうどうでもいい。
王都での生活も、婚約者への未練も、作り上げてきたシーナ・リンドという存在も。
全部この酒と一緒に飲み干して、北部の深い雪の中に捨ててしまえばいい。
「どうだ。次は俺との勝負といこうか?」
悪戯に笑うシグルドさんに、私は座り直して、不敵に微笑んでみせた。
「受けて立ちます。……負けませんよ、シグルドさん?」
私たちは、さらに強い蒸留酒を一気に煽り合った。
胸の奥の痛みは、まだ完全には消えそうにない。
けれど、この熱狂の渦の中にいれば、いつかすべてを忘れられるような――あるいは新しい自分に生まれ変われるような気さえする。
最後の一人が眠りに落ちるまで、私は極寒の地で燃える温かな火を見つめ続け、ただひたすらに酒を酌み交わした。




