23 歩調をそろえて
風はなく、枝に積もった雪がきしむ微かな音だけがやけに大きく耳に残る。
北部の森は、獲物が息を潜める前の沈黙に支配されていた。
ここはラグノ村からさらに奥へ入った、熊の縄張り。俺が仕掛けた「シーナ直伝」の改良型トラップには、狙い通り巨大な黒熊が掛かっていた。
幾重にも補強した鉄歯が太い脚に食い込み、熊は低く唸りながら雪を跳ね上げて暴れている。その一挙一動が地面を揺らし、腹の底に響くような重さを伴っていた。
「……でかいな」
木陰に身を潜めていた俺は、思わず呟く。
毛皮の黒さも、筋肉の隆起も、想像していた以上だ。正面から挑めば、骨の一本や二本で済む相手じゃなかっただろう。
「……よし、今だ」
腰のボウガンを構え、深く息を吸う。
狙うのは急所ではない。首元、毛並みの薄い一点。
矢尻には、シーナの薬学知識と北部の植物を組み合わせて生成した睡眠剤が練り込んである。
引き金を引いた感触は、驚くほど軽かった。
矢は短い音を立てて飛び、熊の首筋に突き刺さる。
直後、熊は怒り狂ったように一層激しく暴れた。
「……まだだ」
罠が外れそうになるくらいに暴れ散らす中、数分もしないうちに効果は現れ始めた。
踏みしめる脚の力が鈍り、荒かった呼吸が次第に間延びしていく。
あれほど荒れ狂っていた動きが、まるで糸を切られた操り人形のように、はっきりと衰えていった。
これだけの巨体だ。全身に回るまで時間がかかるかもしれない。
俺は距離を保ったまま、ボウガンを構え直し、じっと熊の様子を見守った。
やがて――
黒い巨体が、雪の上にどさりと崩れ落ちる。
唸り声は寝息に変わり、胸が規則正しく上下し始めた。
「マジか」
一拍、間が抜けた声が漏れる。
「……成功だ。シーナとの共同研究は、正しかったんだ」
俺はゆっくりとボウガンを下ろし、安堵の息を吐いた。
拍子抜けするほどあっさりだ。命懸けになるはずだった熊狩りは、理屈通りに終わってしまった。
だが、その直後に別の問題が頭をもたげる。
アルド家の伝統では、狩った獲物の毛皮を捧げることになっているのだが……。
「……これ、どうやって捌くんだ?」
目の前では巨大な熊が穏やかに眠っている。
罠と薬のことばかりに気を取られ、肝心の「その後」を何も考えていなかった。
思わず苦笑が漏れる。
まあいい。一部を切り取って持ち帰ればいいんだ。 残りは後から村の連中に回収に来させれば済む話だろう。
そう結論づけ、頭の中で効率的な解体手順を組み立て始めた、その時だった。
――カチカチ、カチカチ。
場違いな歯鳴らしが響き、反射的に背筋が凍りつく。
一匹、また一匹。
向かいの木陰から現れたのは、純白の毛並みに黒真珠のような瞳を宿す「白い妖精」たち。
飢えた群れは眠りこける熊を一瞥すると、すぐに理解したように視線を俺へ向ける。獲物を奪うための、邪魔者へと。
「最悪だ……!」
慌てて距離を取ってボウガンを構え直す。同時に一匹が雪を蹴った。小さな身体とは裏腹に、踏み込みは深く、鋭い。
放たれた矢は無情にも明後日の方向に飛んでいく。愛らしい顔の奥に並ぶギザギザの歯が、一直線に俺の喉元を狙って迫ってきて――
――ビュンッ!
鋭い風切り音。
次の瞬間、跳びかかったムジカの身体が空中で弾け飛んだ。
続けざまに二射、三射。
正確無比な矢が、雪原に紅い飛沫を咲かせていく。
「ロベルトさん! 伏せて!」
聞き慣れた声が、混乱の中で輪郭を持った。
岩陰から飛び出してきたのは――ボウガンを構えたシーナだった。
迷いのない足運び。彼女はじーさんから手ほどきを受けた通りに次々と矢を放つ。その動きはもはや王都から追放された令嬢なんかじゃない。北部の女、そのものだった。
最後の一匹が倒れると、森は再び静寂を取り戻した。
シーナは荒い息を整えながら、一直線に俺の元へ駆け寄ってくる。
「無事ですか!? 一人でこんな奥地に来るなんて、無茶ですよ!」
「シーナ……どうして……」
「それは……ごめんなさい。ロベルトさんの様子がおかしかったから、心配で後を追ってきたんです」
俺は答えられずに視線を落とした。胸の奥に溜まっていたものが、張り詰めた糸と一緒に沈んでいく。
……北部の男として格好をつけるつもりだったのに。
熊を狩り、捧げ、胸を張って想いを告げるはずだったのに。
それなのに、彼女の知恵に頼った挙句に彼女に命を救われている。
「……情けないな。俺は、君に相応しい男になりたかったのに」
自嘲混じりに吐き出すと、シーナは困惑したように小首をかしげた。
そして、足元の獲物に気付いたのか、驚きに目を見開く。
「……えっ!? ロベルトさん、この熊……死んでないんですか?」
「あ、ああ。睡眠剤を試してみたんだ。見ての通り成功だよ、シーナ」
「凄い……! 眠らせて捕らえるなんて、ロベルトさんにしかできない『知恵の狩猟』ですよ! この方法が普及したらどれだけ被害が減らせることか……!」
興奮のままに熊の様子を観察し始めるシーナ。やがて首元に刺さった矢をしげしげと眺め、ポツリと呟いた。
「……やっぱり凄いなぁ、ロベルトさんは。私では思いつかないことばっかりです」
シーナは目を輝かせて笑う。
その笑顔にまた、見惚れてしまう。
アルド家は武力こそが全てと言われる家系だ。その中でも俺は貧弱だと、兄貴たちから散々馬鹿にされてきた。
通常なら村一つ任されて然るべきなのに、俺だけはじーさんの補佐に務めていた。
そんな落ちこぼれだった俺の知識や理論を価値あるものとして認めてくれたのが、彼女だった。彼女だけが俺の罠を「卑怯者」と一蹴せず、「合理的で素晴らしい」と微笑んでくれた。
やっぱり俺には、彼女しかいない。
遅くまで語り合ったあの日、俺の隣にいるべきなのは彼女なんだと確信した。
今になって思えば、あの直感は最初から正しかったんだ。
俺は無邪気に喜ぶシーナの前へ一歩踏み出し、ずっと鞄の奥に仕舞いこんでいた白銀の指輪を取り出した。
冷えた空気の中でも、指先が震えているのがはっきりと分かる。
「シーナ・リンド。俺は、じーさんみたいな英雄にはなれない。でも、君の知恵を、君の笑顔を、一生隣で守り抜くことは誓える。……俺の、妻になってくれないか」
シーナは目を見開き、それからじわじわと頬を赤く染めていった。
言葉はなく、沈黙だけが落ちる。
風が吹き抜け、雪を舞い上げ、二人の間を静かに通り過ぎていく。俺の鼓動だけが、やけに響いて聞こえるほどだ。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
やがて、彼女は小さく息を吸い、そして――こくりと、確かな動作で頷いた。
「……はい。私でよければ、喜んで。ロベルトさん」
――こんなに嬉しいことが、俺の人生でこれまでにあっただろうか!
俺は思わずその手を取る。
厚手の手袋越しでも伝わってくる、確かな温もり。
北部の冬の中で、それはひどく頼もしいものだった。
「ガウッ!」
聞き馴染みのある鳴き声に、はっとして振り返る。
ノースが茂みから姿を現し、その背後で、白髪の大柄な男――じーさんが腕を組んで立っていた。
「なっ……! なんでじーさんがここにいんだよ!」
「そりゃお前、俺の孫に万が一があっちゃ困るからな」
そう言って、悪びれるでもなくじーさんは鼻を鳴らす。
そして、俺とシーナを交互に見てから、ゆっくりと口角を上げた。
「まぁ、俺の出る幕は無かったみたいだがな。……お似合いだよ、ロベルト、シーナ」
祝福の言葉に、胸の奥が熱くなる。
じーさんも、俺のことを貧弱だと言いながらも手先の器用さをずっと褒めてくれていた。
そのじーさんに認めて貰えたんだ。……俺はやっと、一人前の北部の男になれたんだ。
「お前たちの子どもなら、きっと賢くて肝の座った子に育つことだろう。いったい何人のひ孫に囲まれることだろうな。今から楽しみだ」
「き、気が早いです……!」
シーナが慌てて否定すると、じーさんは腹の底から笑い出す。
「なにはともあれ宴の準備だ! 俺の孫が熊を狩ったんだ。そのうえ妻まで娶ったときたもんだ! 三日三晩は飲み明かすぞ!」
その豪快な笑い声が、眠る熊の低いいびきと重なり、静まり返っていた森に溶けていく。
俺とシーナは顔を見合わせ、堪えきれずにどちらからともなく吹き出してしまった。
見上げれば、北部の空はどこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。
吹き荒れる雪籠りを越えた先にある、穏やかな青が――
――カチカチ、カチカチ。
その音が響いた瞬間、じーさんとシーナが同時に身構える。
……祝福のファンファーレにしちゃ、随分と物騒すぎやしないか?
まったく、余韻に浸る暇もありゃしない。
二人とノースが雪を蹴って駆け出すのを見届けて、俺もまた鞄の中から匂い罠を掴み取った。




