02 かくして私は追放された
――人獣共生協会。
祖父オイゲン・リンドが私財を投じて立ち上げた組織。
やがて王家の認可を得るまでに育ったこの場所は、王都でも珍しい「動物との共生」を目的とした民間組織だった。
密猟対策や生態調査、傷ついた獣の保護。学術機関に近い性格を持ち、派手さこそないものの確かな役割を担ってきた場所でもある。集うのは純粋に動物を愛する者たちばかりで、そこには貴族も平民も関係ない。権力争いとは無縁の、穏やかで温かな時間が流れていた。
『いいかい、シーナ。動物たちをよく見てごらん。彼らの瞳には嘘がないんだよ』
幼い頃から協会に通い、そう言って笑う祖父の大きな背中を追いかけて育った。
もっと色々な話を聞きたかった。学びたい知識も一緒に行きたい場所も数えきれないほどあった。
けれど、流行り病をこじらせた祖父はあまりにもあっけなく逝ってしまい、アカデミーを卒業したばかりの私がその後を継ぐことになった。
『大丈夫だよシーナ。僕が君の盾になるし、支えるから』
協会長という重荷を背負うことになった私にそう言って微笑んでくれたのは、同級生であり婚約者でもあったデイヴだった。ラスカール家の次男である彼は卒業後には王宮官吏への道が約束されていたはずなのに、その進路を蹴って協会に入ってくれたのだ。
夜遅くまで運営を手伝ってくれる姿に何度救われたことだろう。
彼とならこの場所をもっと良いものにしていけると。そう、本気で信じていた。
……そう、あの人がこの協会に足を踏み入れるまでは。
協会が形を狂わせ始めたのは、スカラー王国に新たな王妃が迎えられて間もなくのこと。
突然、王妃メリンダ様が協会へ足を運ばれるようになったことで、私の大事な協会は静かに崩れていった。
「シーナさん。またアルミラクスを檻に戻したと聞いたのだけれど?」
視察を名目に来訪されたメリンダ様が、建物に入るなり不機嫌そうに言い放つ。
目を向けた先は保護区間の最奥――最近のお気に入りだという薄桃色の兎、アルミラクスの寝床だった。
「戻した、というよりも……まだ人馴れしていない個体ですから、無理に触れるとストレスで皮膚が荒れてしまいます。昨日もひどく怯えていたので、隔離いたしました」
「まるでわたくしのせいだとでも言いたそうね? 優しく撫でてあげただけよ?」
「ええと……あの種には軽い接触ですら過度な負担がかかることがありまして――」
「つまり、わたくしの接し方が間違っていると。そう言いたいのね?」
――ええ、その通りですけど?
喉の奥まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。
協会は身分を問わないという理念を掲げているが、それはあくまで建前にすぎない。現に背後に控える護衛騎士は私を不敬罪で捕らえんばかりに睨みつけている。
メリンダ様が「動物を可愛がりたい」と思う気持ち自体に嘘はないのだろう。
ただ、その愛し方は独善的で、何より生態への理解を欠いた、協会の理念とはあまりにかけ離れたものだった。
「アルミラクスは非常に警戒心の強い種です。人が触れるには、長い時間をかけて段階を踏む必要があるんです」
「なるほど。シーナさんがそう仰るなら、きっとそうなのでしょうね。……非常に、不本意ですけれど」
ぱちん、とメリンダ様が白く輝く繊細なレースの扇子を閉じる。
その乾いた音が、静かな室内の空気を鋭く断ち割った。
「メリンダ様、どうかお言葉を誤解なさいませんよう。シーナはただ、協会の規則を忠実に伝えただけに過ぎません」
デイヴが慌てて駆け寄ってきた。
その宥めるような言葉に一瞬ホッとしたのもつかの間、デイヴは私を冷ややかに睨みつけてくる。
「とはいえ、シーナ。その方針も今や時代に取り残されている。これからはもっと柔軟に、王家の意向に沿った見直しをするべきだ。そうだろう?」
「見直し……ですか?」
「そうだ。動物を想う気持ちは立派だが、協会は王家の認可を受けた機関だ。メリンダ様の善意に対し、頭から否定するような言い回しは慎むべきだよ」
「そういうことよ、シーナさん。あなたも協会長を名乗るのならば、もっと周りの空気も読むべきだわ。……それにね。本物を碌に目にしたこともない貴女にとやかく言われる筋合いはないと思うのよ」
……痛いところを突かれて黙っていると、メリンダ様は勝ち誇ったような笑みをこぼした。
「だからね、シーナ・リンドさん。貴女には北部ヴィンターハルトの調査を命じます。人獣共生協会の協会長ともあろう御方ですもの。本物を知らずにわたくしに生態を語るだなんて――まさか、なさいませんよね?」
「ヴィンターハルトの、調査……ですか?」
搾り出した自分の声は、驚くほど細く掠れていた。
ヴィンターハルト。王国最北端。年中降り続ける雪が大地を呑み込む厳寒の地。
凶暴な獣も多く生息するというそこは、調査員を単独で向かわせるような場所では決してない。こんなの、事実上の放逐だ。
周囲で様子を伺っていた仲間の協会員たちは皆一様に顔を伏せている。誰一人として、メリンダ様の無茶な命令に異を唱える者はいない。
視線を彷徨わせた先でデイヴと目が合うと、彼は私に優しく微笑みかけて――突き放すように事務的に頷いた。
「良かったじゃないか、シーナ。君は以前から北部の生態に興味があると言っていたのだから。絶好の機会だよ」
「そ、それは……確かに興味はありますが、私ひとりでは命がいくつあっても足りません。せめて熟練の調査団を編成させてください」
「なりませんわ」
メリンダ様が扇子を鳴らして遮る。
「調査団を出せば王都での活動が滞るでしょう? 護衛は手配してあげるのだから、それで十分よ」
「こちらの運営は心配しなくていい。メリンダ様が協会の顧問に就任されることが正式に決まったんだ。僕が君の代理として補佐に付く。君は、そうだな……あの『白い妖精』ムジカの生態調査でもしてくるといい」
冷ややかで、反論の余地を一切与えない断言。
すべてが私の知らないところで決められていたかのような。
呆然とする私を置いて、メリンダ様は優雅に微笑みながら踵を返し、護衛たちを引き連れて去っていった。
扉が重々しく閉じた後に残されたのは、氷のような静寂だけだ。
――どうして私を遠ざけるの。
――お祖父様の協会をどうするつもりなの。
答えは闇に沈んだままだけれど、ただ一つ確かなことがあった。
いくら私が不当だと訴えたところで、王妃様に敵うわけがない。お祖父様の遺したあの温かな協会は今この瞬間に奪われたのだ、と。
私は動かぬ脚に力を込め、ひとり北へ向かう覚悟を固めた。
地図の端にある氷雪の地へ。
そこに円らな瞳をした「白い妖精」たちが、牙を剥いて待っているとも知らずに。
そして私は、あの雪山に至ったのだった。




