14.5 デイヴ・ラスタールという男
王都、人獣共生協会――改め、慈獣共生協会の執務室。
入り口の札には『協会長代理 デイヴ・ラスタール』と誇らしげに記されている。
かつてシーナ・リンドが愛用していた、土の匂いや獣の脂が染み付いた古臭い机はすでに処分済みである。代わりに置かれたのは、王妃メリンダが手配した金細工の施された豪奢な白木の机だ。
その一室で、デイヴはふかふかの椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めながら優越感に浸っていた。
アカデミー時代。
自分とシーナは、確かに青臭い理想を語り合っていた。人と獣が共生できる世界を創ろうと。
瞳を輝かせる彼女と、夜更けまで言葉を交わした記憶も、今となっては煤けた過去にすぎない。
あのくだらない理想に何の疑いも抱かなかった若き日の自分を思い出すたび、いっそ笑い飛ばしてやりたい気分になる。
とはいえ、卒業を控えたある日、シーナの祖父オイゲンに「シーナを、そして協会を頼む」と深々と頭を下げられたとき、デイヴも確かにその役を引き受けるつもりではいた。
社交界では変わり者と評されていたものの、リンド家は自分の家より家格が上だ。
シーナ自身も貴族の令嬢としては地味ではあるものの、動物以外の事柄には過度な関心を示さず、前に出て主張することもない。従順で扱いやすいその性格も、自分の隣に据える存在として決して悪い条件ではなく、その程度の価値はあると判断してのことだった。
それなのに……現実は思い描いていた理想とは程遠く、あまりにも泥臭く、そして惨めなものだった。
協会の仕事として連日のように現地へ足を運び、獣の糞や毛を調べ、時には野良犬に吠え立てられる日々。
そんな地味で報われない庶務に明け暮れる毎日の中で、シーナは活き活きとしていたが、デイヴは焦燥を募らせていた。
見て見ぬふりをしてきたが、自分の置かれた立場というものはいずれ否応なく突きつけられる。
王宮や華やかな社交界で活躍する同級生たちと再会した折、彼らが鼻をつまむような仕草で投げつけてきた言葉が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
「……なんだか獣臭いな、デイヴ。君は一生、そんな糞尿にまみれて暮らすつもりか?」
その嘲笑に、デイヴの内側で何かがはっきりと音を立てて折れた。
違う。
自分は、もっと高く、もっと貴い場所にふさわしい人間だったはずだ。
シーナが動物にかまけてばかりいるのも、結局は貴族の社会に馴染めぬ惨めさから目を逸らし続けているだけではないのか?
本当は彼女だって叶うならば、華やかな社交界で称賛を浴びる側に立ちたかったはずだ。
協会だって世間に認められ始めてはいるものの、未だに「動物なんかに金と労力をかける珍獣集団」として扱われることも少なくない。
実際に、シーナの実兄でさえこの協会とは距離を置いているのだ。
こんな場所にこれ以上身を置いては、自分の価値が下がっていくだけではないのか?
――服が獣臭くなるのも、嘲笑されるのも、もう御免だった。
転機は、リー家の令嬢メリンダが王妃となり、気まぐれに協会へ出向くようになったことだ。
シーナは彼女を「実態を知らないわがままな御方」として持て余しているようだったが、デイヴには違って見えていた。彼女の潤沢な資金と関心さえ得られれば協会の形は変えられる。そして何よりも自分の生活が、誰からも蔑まれることのない輝かしいものに変わるはずだと。
メリンダに誘われ、王家主催の夜会へ足を踏み入れたその日、その確信は決定的なものになった。
気後れした様子のシーナは早々に壁の花となっていたが、デイヴの目には映らなかった。
まばゆいシャンデリア、惜しみなく注がれる最高級のもてなし、そして当然のように自分を迎え入れる高貴な人々。
そこは、彼が長いあいだ胸の奥で焦がれ続けてきた世界そのものだった。
「そうか……オイゲン様もシーナも間違っていたんだ。理想を語るにしても、まず力と金が必要なんだ」
そう認めた時こそなぜか胸の奥がちくりと痛んだが、デイヴはその違和感を無理やり押し殺した。
シーナは、デイヴの心変わりに薄々勘付いていたのだろう。だが彼女は戸惑うばかりで、深く追求してこなかった。
――やはり彼女は、変わらぬ理想にしがみつくだけの愚か者だ。
現実を直視せず、自分の価値を下げ続ける存在。隣に置いておくには、もはや重荷とも言えた。
だからこそ、ダリウスの命を受けて彼女を北部の雪山へ追いやったことにも、欠片ほどの罪悪感も湧かなかった。
あれは排除ではなく整理だ。協会を、あるべき姿へ戻すための必要な措置。
そう言い聞かせることで、胸に広がったのは後悔ではなく、むしろ解放感だった。
これでようやく、協会は正しい形になる。
少なくとも、自分にとって居心地のいい場所に。
傭兵は首尾よく仕事を果たしたらしい。
シーナの死を告げる報せは、ほどなくして届いた。
馬鹿な女だ、とデイヴは思った。
知識だけは豊富に持ちながら、あれほど心を砕いてきた獣たちは、結局彼女を権力から守りはしなかったのだから。
そして顧問という名のお飾りに据えられたのが、メリンダだった。
彼女もまた、聞こえのいい愛護を振りかざしながら、動物をただの可愛いアクセサリーとして扱う救いようのない馬鹿だ。
だが――その愚かさこそが、今の自分を支えている。
王妃を適度に持ち上げ、彼女の好む「慈愛」という言葉で協会を飾り立てる。
それだけで、デイヴはこの華やかな世界の住人であり続けることができた。
そんな生活を続けるうちに、ダリウスへの覚えも次第に良くなっていった。
彼から回ってくる指示のいくつかはどこか曖昧で、隠し切れない裏の匂いがしたが、それを深く詮索するつもりはなかった。世の中には表に出せない事情というものがある。貴族の世界ともなればなおさらだ。
シーナも口にしていたではないか。必要な殺生は、確かに存在するのだと。
まさしくその通りだ。その亡骸を無為に捨てるよりも、有効活用し、金に変える方がよほど理にかなっているのではないか。
それこそが獣に対する敬意の払い方だと、デイヴはそう結論づけた。
このままの生活を続けていれば、きっと自分はリー家にも取り立てられる。
将来は安泰に違いない。一度は捨てた王宮への道だって、再び開かれるかもしれない。
――そう確信していたのだが。
先日、視察で訪れた穀倉地帯で耳にした「カチカチ」という不気味な音が、デイヴの思考を不意に乱した。
最近、王都近郊にまで溢れかえり始めた『白い妖精』。
机の上には、農民たちから寄せられた嘆願書がうず高く積まれている。
「家畜が襲われた」
「作物が全滅した」
そんな悲鳴めいた文字の並ぶ紙束を、デイヴは汚物を見るかのように一瞥して廃棄箱へ放り込んだ。
代わりに引き寄せたのは、王妃へ提出するための羊皮紙だ。
「……そうだ。間違っていない」
王都には高い壁がある。兵士もいる。
あんな小動物ごときが人間様に牙を剥いたところで、たかが知れている。
それに、もうじき北部から猟師団がやってくるはずだ。
適当な報奨金を払わせ、適当に狩らせればいい。
メリンダは喚き立てるかもしれないが、王直々の命とあってはさすがに言葉を慎むだろう。
大丈夫だ。何も問題ない。
自分は間違っていない。
あんな雪山に消えた女の、呪詛めいた警告に、今さら耳を傾ける必要などないのだ。
デイヴは深く椅子に沈み込み、自分に言い聞かせるように、獣臭さとは無縁の芳醇なワインを喉へ流し込んだ。




