13 遺された鍵
シグルドさんがノースを連れて吹雪の向こうへと消えてから、私はロベルトさんと共に北部の防衛の要であるオルン砦へと向かっていた。……なんと、犬ぞりで。
北部の移動手段として話には聞いていたけれど、実物を見るのは初めてのこと。ノースと同じくらい大きな八頭の犬たちが、雪煙を上げながら力強く大地を蹴って駆けていく。
シグルドさんと散策する時は、彼の歩幅に合わせて必死に歩くことが多かったから、風を切って進むこの感覚はひどく新鮮な体験だった。
とはいえ、踏み固められた雪道ではない。そりは不規則に跳ね、油断すればすぐに振り落とされそうになってしまう。図らずも、私は厚い毛皮に身を包んだロベルトさんの背中に必死にしがみつく形になっていた。
「ははっ、そんなに力を入れなくても大丈夫だよ、シーナ。こいつらは賢いからな、俺の指示一つで崖っぷちだって器用に避けてみせるんだぜ」
ロベルトさんは犬たちを巧みに操りながら、楽しげに肩越しに声をかけてくる。この猛スピードの中で、彼は馬を駆るように軽やかにお喋りを続けていた。
「今の時期は北方部族との小競り合いも収まるんだ。連中にとっても雪籠りは命懸けなんだろうな。吹雪の中で戦を仕掛けるほど、連中も馬鹿じゃないってことさ」
「戦いのことは正直よく分からないんですけれど……。自然の厳しさが、一時的な停戦をもたらすということでしょうか」
「そ。この雪が戦いも止めちまうんだ。俺の親父なんかは、連中が動けない今こそ攻勢のチャンスだって息巻くんだけどさ。こっちはこっちで、年中ムジカやら密猟者の対応で手が空かないのが現状でね。……ま、シーナが手伝ってくれた匂い罠のおかげで、これからは少しは楽になるかもしれないな」
私の知識が、この厳しい地を守る人々の確かな助けになっている。王都では「現場を知らぬ娘の机上の空論」と切り捨てられた私の研究が、ここでは生きるための価値として認められるなんて……!
つい嬉しくなってしまった、そのとき。犬ぞりの一頭が硬い雪の起伏を拾い、そりがぐらりと大きく跳ねた。
「あ……っ!」
反射的に身体が宙に浮き、放り出される――
そう覚悟した瞬間、厚い毛皮越しでも分かるがっしりとした腕が私の腰を抱き寄せ、強引なまでの力でそりの上へと引き戻した。
「危ねぇぞ、しっかり捕まってろ」
耳元に響いたのは、いつになく真面目なトーンのロベルトさんの声だった。
すぐに離されたその腕の感触は、見た目以上に逞しい。よくシグルドさんは彼のことを「俺の孫のくせにひょろい」と言っているけれど……やっぱりこの人も、間違いなく北部の男の人なんだ。
この危険と隣り合わせな過酷な土地で生きてきたのだから当然といえば当然なのに。そんな妙な納得が胸に落ちた瞬間、遅れて頬が熱くなるのを感じてしまった。
「大丈夫か? 舌でも噛んだか?」
「い、いえ、ありがとうございます。少し、考え事をしてしまって」
「いや、悪い。今のは俺のミスだ。……さあ、着いたぞ。ここが次のポイントだ」
ロベルトさんの言葉を合図に、そりは銀世界の街道を大きく外れ、険しい岩場へと向かって速度を落とした。
砦への移動のついでにと、彼が提案してくれたのはムジカの巣穴の確認だった。ヴィンターハルトに来たばかりの時、傭兵に襲われたはずみで失くしてしまった私の鞄。シグルドさんはムジカが持ち帰ったかもしれないと以前に言っていたけれど、匂いを嫌ってムジカが巣を捨てた今なら、巣穴の中にそれが残されている可能性があるという。
「……やっぱり、ここも空っぽか。あの匂い団子、想定以上に効いてるみたいだな」
岩場に口を開けた暗い穴を覗き込み、ロベルトさんが感心したように声を漏らす。かつてなら、あの不気味な「カチカチ」という威嚇音が耐えず聞こえていたはずの場所が、今は耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
主のいなくなった巣穴の中には、余所で確認したものと同じように、どこからか拾ってきたと思われる色とりどりのガラクタが転がっていた。
「ムジカは光沢のあるものや、特定の繊維を好んで集める習性があるんだよ」
「不思議ですよね。巣の補強に使っていると聞いていましたけれど……」
私が穴の隅に積まれた堆積物を探ると、そこには金属片や布切れ、そして使い古されたボタンなどが重なり合っていた。彼らにとっての宝の山。その中に、見覚えのある茶色の革の色が飛び込んできた。
「……あ」
枯れ草が幾重にも敷き詰められた巣の最奥。そこに、それはひっそりと鎮座している。泥に汚れ、隅をムジカの鋭い歯で無惨に齧られてはいたものの、間違いなく私が王都から持ってきた鞄だった。
「私の鞄……! こんなところまで運ばれていたんですね」
「ま、この辺にあるだろうとは踏んでたけど、実際に見つかると嬉しいもんだな。……で、肝心の中身は無事か?」
ロベルトさんが見守る中、私は逸る気持ちを抑えて鞄の口を開いた。
大切にしていた図鑑の頁は湿気で固まり、着替えもボロボロになっている。けれど、私の目的はそこではない。
鞄の裏地、その奥に仕込まれた小さな隠しポケット――そこに指を滑らせると、ひんやりとした、重厚な金属の感触が指先に返ってくる。
取り出したのは、一本の真鍮製の鍵だった。
「……これはお祖父様の遺品整理で見つかった鍵なんです。でも、どこの鍵なのかまでは教えてもらえていなくて……お守りとして持ち歩いてたんです」
鍵を受け取ったロベルトさんが、まじまじとその刻印を確かめ、吸い込まれるように目を見開いた。
「……おい、嘘だろ。シーナ、これ、『王立中央保管庫』の第零号庫の紋章だぞ」
「中央保管庫……? でも、あそこは高位貴族や豪商が使うような、国で最も厳重な場所のはずです。お祖父様は清貧を絵に描いたような人でしたし、そんな場所を使うなんて……」
「アルド家でも重要書類を預けてるから、この複雑な刻印は見覚えがあるんだ。その中でも第零号ってのは、国王の直轄管理下にある、歴史的な機密や超高額な資産が収められる場所だったはずだよ」
外に出て改めて確認すると、真鍮の鍵が陽光を反射して鈍く光っている。
「もしかしたら、とんでもないお宝が眠ってるかもしれないな」
それは金銭に限らないし、わざわざお祖父様がそこに残すとは思えない。
……お祖父様はもしかしたら、万が一のために「何か」をこの鍵の先に封印していたのではないだろうか?
「その鍵、大事にしまっておけよ。……砦に着いたら親父にも相談してみよう。何か知ってるかもしれないしな」
私は深く頷き、真鍮の熱を手に感じるようにして鍵を握りしめた。
そりは再び走り出し、夕刻の気配が迫るオルン砦へと、白い雪原を切り裂いて進んでいった。




