12 狂騒曲、序奏
「いやあ、この雪のせいで到着が遅れたみたいでさ。一気に届いたもんに目を通してみたら、このザマだよ」
ロベルトさんは人の悪い笑みを浮かべ、シグルドさんも「やっぱりな」と言わんばかりに鼻で笑った。
もしかして、とは思っていたものの、気候の違いもあって南下は途中で断念するだろうと思っていた。
けれど、ムジカはすぐに適応してみせたのだ。
南下するにつれて北部とは比べものにならないほど実りは増えていく。もしこのまま数を増やせば、王都周辺はムジカの新たな生息地になり得るだろう。
そうなれば被害は穀物だけでは済まないはずだ。北部と違って、王都の人々はムジカの危険性をほとんど知らないのだから。
「……シーナ? そんな怖い顔して、どうしたんだ?」
「いえ……ムジカによる被害がこれから増える気がしまして……」
なにせ、見た目はとびきり可愛いのだ。不用意に近づく人もいるだろうし、最悪の場合、餌付けをする者が出ないとも限らない。実際にムジカツアーなる催しまで実施されているくらいだ。
……あの童謡も、今思えば罪作りな歌だと思う。あの歌のせいで王都ではムジカを「ただ可愛いだけの小動物」だと信じている人が大半だった。
「流石にムジカ相手に騎士団は出せねぇだろ。とはいえ、ただの兵士じゃ狩りに慣れちゃいねぇだろうし、今頃は振り回されてるんじゃねぇか?」
「そのうち王都の連中も思い知るさ。誰のおかげで、ぬくぬくと『ムジカ可愛い~♡』なんてほざいていられたのかをさ」
二人の毒舌は止まる気配がない。北部の人々がどれほど理不尽な扱いを受けてきたのかを知った今、彼らの冷ややかな反応も理解できた。
けれど、そのしっぺ返しが罪のない王都の子どもにまで及ぶかもしれないと思うと、他人事とは思えなくなる。
そんな不安が顔に出ていたのだろう。シグルドさんが、いつもの乱暴な手つきで私の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら笑った。
「冗談だからそんな顔すんなって。今のムジカの動き方からして、まだ余裕はあるはずだ」
そう言ってから、ロベルトさんへ視線を向ける。
「……返事を出しておけ。猟師は派遣してやると。この俺が行ってやるさ」
「へぇ、わざわざじーさんが出張るのか? そんなことしたら、王家の連中、泡でも吹くんじゃねぇの?」
「どうだかな。それより留守の間、シーナを頼まれてくれねぇか? ラグノ村に俺の部屋が残ってただろう」
「連れて行かねぇのか? 王妃の悪行を白日の下に晒す、いいチャンスだろ?」
「悪行……ですか?」
おそるおそる口を挟んだ私に、ロベルトさんは呆れ返ったように肩を竦めてみせた。
「護衛もどきの傭兵に襲われて死にかけたって言ってたじゃないか。忘れたのか?」
「わ、忘れたわけじゃないですけれど……」
だって、この山での生活は毎日が新しい発見ばかりで。雪山で滑落しそうになったり、猪に突進されかけたり……命に関わる出来事も多すぎて、王都での記憶や護衛に襲われたことは意識の端へと押しやられていたのだ。
それに、仄暗い感情も過去も全部、あの宴の夜に雪の下へと捨て去ったつもりだったから――
「気にしていないわけではないんですけれど……もう終わったことですから」
「懐が深いこった。だが悪いが、こんなに使い勝手のいい交渉材料を放っておく手もねぇからな。あの傭兵への指示書、預からせてもらうぞ」
「ええと……はい」
それもすっかり忘れかけていたけれど、証拠の手紙はシグルドさんがきちんと保管してくれていたようだ。見た目や言動の粗野さとは裏腹に、彼は驚くほど細やかな配慮もできる人だった。……こうして考えてみると、私、意外と図太いのかもしれない。
自分でも知らなかった一面に密かに驚いていると、シグルドさんが小さく笑った。
「王都、か。……これでようやく狐狩りを楽しめそうだ」
「狐狩り……ですか?」
「ああ。長年追い続けていたんだがな、ようやく首根っこ掴めそうだ。とはいえ、土壇場で逃げられても厄介だ。どう料理してやろうか……」
珍しくブツブツと考え込むシグルドさんに、ロベルトさんが鼻で笑った。
「どうせじーさんのことだから力で解決すんだろ。……で、シーナ。しばらくラグノに移ってもらうけど構わないか? そ、それか俺がここに残っても――って、いででででっ! ノース! なんで噛むんだよ!」
ノースがガブリとロベルトさんのふくらはぎに噛みつき、低い唸り声を上げている。
「ハハッ、すっかりシーナの番犬気取りだな。……そういうわけだ、シーナ。どうせ本格的な雪籠りが来る前にラグノに移る予定だった。あそこは森が多い。こことは違う学びもあるはずだ」
シグルドさんは交渉材料として私の生存を王都へ明かすつもりだと言う。それならもう隠れて暮らす必要はない。
私は必死にノースを引き剥がしているロベルトさんへ向き直り、深々と頭を下げた。
「分かりました。ロベルトさん、ご迷惑をおかけしますが、しばらくお世話になります」
「迷惑も何も。シーナのこと、ラグノじゃちょっとした有名人だったんだぜ。じーさんの新妻じゃねぇかって。誤解を解いて回るの、大変だったんだからな!」
「ったく。娯楽代わりのつもりか知らんが、くだらん噂で勝手に盛り上がりやがって……。まぁいい。任せたからな、ロベルト」
――そうして、王都へ返信を送るのに合わせて、シグルドさんは手早く荷をまとめ、ノースを連れて北部を後にした。
見送りの日。一度だけ振り返って手を振ってくれたその背中は、どこまでも頼もしくて、寂しさがこみ上げてしまう。
「……まさか、シグルドさんお一人で何とかするつもりじゃないですよね?」
「道中で猟師団と合流するんだろ。王都の連中、目を剥くんじゃないか? なにせ『北部の狂犬』シグムント・アルド様直々のお出ましなんだからな」
あまりにも軽い口振りに聞き流しそうになる。
北部の……狂犬?
シグムント・アルド様……!?
聞き覚えのある名前を咀嚼した瞬間、私は蛙を潰したような悲鳴を上げてしまった。
「し、シグルドさんって……ヴィンターハルトの辺境伯、シグムント様だったんですか……!?」
「なんだ、マジで知らなかったのかよ。そうだよ。もうとっくに引退して、今は見ての通り猟師生活を満喫中だけどな」
北部の英雄、シグムント・アルド様。荒れ果てた北部を治め、北方部族から土地を奪い返した伝説の御方だ。
それからというものヴィンターハルトは侵略を防ぐ要衝とされ、王家でさえ一目置く存在だと聞く。
「わ、私ったら……そうとは知らずに、なんて粗相を……!」
伝説の英雄様の手ずから作られたごはんを平らげ、雪山で転んでは抱え上げられ、ムジカに追われるたびに笑われた日々が次々と脳裏を駆け巡る。
「いいんじゃねぇの? 別に気にするような爺じゃねぇし。孫は腐るほどいるくせに女孫はいなかったからな。本人も楽しそうだったろ?」
ロベルトさんは軽く言うが、私の動揺はそう簡単には収まらない。だってまさか、あの豪快で親しみやすいシグルドさんが、伝説の辺境伯様だったなんて……!
「ま、王都の連中はムジカよりもよほど怖ぇ爺さんを呼び寄せたってわけだ。連中がそれに気づいたとき、どんな顔をするのか……見てみたかったな」
ロベルトさんの口元が、にひっと不敵に釣り上がった。
遠ざかっていく英雄の背中を見送りながら、これまでの出来事を思い返す。私は自分の手のひらにできた硬い「たこ」を見つめた。
シグルドさんは、私に「ラグノ村で待て」と言った。
けれど、雪山を歩き、命を捌き、生きる術を学んだこの手でできることがあるんじゃないだろうか?
……少なくとも今の私は、もう協会の中で図鑑を眺めているだけだった小娘なんかじゃないはずだ。
「……ロベルトさん。お願いが、あるんです」
目を瞬かせるロベルトさんを、私は真っ直ぐに見据えた。
「私をオルン砦に連れて行ってください。調べたいことがあるんです」
「はぁ? 本気かよ?!」
上擦ったような叫び声が飛んでも、その危険性を説かれても、私は一歩も引かなかった。
吹雪の向こうで、シグルドさんとノースが笑いながら振り返った――そんな気がした。




