01 雪山
――とにかく風が冷たくて痛かった。
音もなく舞い落ちる雪の結晶は、遠目には幻想的で美しい。けれど、時折吹きすさぶ突風は頬に容赦なく突き刺さる。強張ったままの身体をなるべく丸くして、白く霞む前方を睨みつけた。
目印になるものは何ひとつない。
どこを向いても同じ白に塗り潰された世界が、方向感覚を狂わせる。焦りは募るばかりで、思わず何度も背後を振り返る。
ついさっきまで傍にいたはずの護衛――王妃様が手配したはずの傭兵たちの豹変した顔が、焼き付いたように脳裏から離れないからだ。
『悪いな、お嬢さん。あんたが生きてちゃ困る御方がいるんだよ』
突然突きつけられた刃。反射的に身を翻したが、その拍子に肩にかけていた鞄を力任せに奪い取られた。
もつれた足で雪の斜面を転げ落ち、彼らの下卑た哄笑から逃れるように夢中で駆けて――
気づけば私はひとり、白銀の世界に放り出されていた。
逃げ切れたのだろうか。それともまだ私を探しているのだろうか。
厚底の靴が雪に沈むたび、冷気が足先を刺すように入り込む。革手袋はとっくに役に立たず、指先は痺れ、感覚も薄れていく一方だ。
替えの服も、護身用のナイフも、お祖父様の形見もすべては奪われた鞄の中にある。
……このままじっとしていたら、きっと凍え死んでしまう。
とにかく村まで歩かなきゃ。
そう思って一歩を踏み出した、その時だった。
「……ミュ?」
小さな鳴き声が耳に届いて振り返ると、そこには小さな獣がいた。
丸い耳、ふわふわの白い毛並み、黒真珠のような円らな瞳。
雪兎よりもひと回り大きいその姿は、童謡『白い妖精ムジカ』で有名な、あのムジカだ。
うわぁ、本物は初めて見た。……かわいい。
あまりの愛らしさに、思わず手を伸ばしそうになったけれど、この獣の習性を思い出すと同時に視界の端で雪影が揺れた。
ひとつ、ふたつ、みっつ――いや、全然それどころじゃない……!
白樺の木立。岩陰。雪の窪み。そこらじゅうに二対の黒い瞳が幾十にも潜んでいる。
自分の置かれた状況を理解した瞬間、全身の血が引いていくのが分かった。
ムジカは一匹ならまだしも、群れに囲まれたらもうおしまいだ。
白い妖精だなんてとんでもない。飢えたムジカは家畜だけじゃなく、人間にも平気で襲いかかるというのだから。
無言で後ずさろうとした足が雪にとられ、尻もちをついてしまう。
ムジカたちの丸い耳がピクリと動き、黒い瞳が一斉にこちらへ向けられた。
目を逸らしたら終わる。
背を向けたら終わる。
本能が、そう警鐘を鳴らしている。
一匹が私から視線を外さぬまま、カチカチと歯を鳴らす。するとまるで合図のように四方から同じ音が響き合い、雪上に不気味な旋律が広がった。
小さな口にびっしりと生えたギザギザの歯は熊の骨すら噛み砕くと聞く。
……ああ、私、このまま食べられちゃうんだ。
頭から、手から、足から。ばりばり、ばりばり、むしゃむしゃと。
絶望が喉を塞ぎ、体がすくんで動けなくなった――そのとき。
遠くの木々の奥から、すべてを震わせるような遠吠えが響いた。
ムジカたちがざわつき、黒い瞳の向きが一斉に変わる。
私も声の主を探して視線を彷徨わせると、風を切り裂くように大きな白い影が飛び出した。
白銀の閃光がムジカの一体にとびかかり、雪の上に紅い飛沫がパッと散る。
呆然としている間にも、白い影は躊躇なくムジカを仕留めていく。
目にも留まらぬ速さで動き回るその獣は――白狼だ!
北部でも希少な存在で、とびきり強靭なことで知られている伝説の獣が、円らな瞳をした白い妖精を容赦なく次々と喰い千切っていく。
先ほどまで抱えていた恐怖さえ忘れ、思わず見入ってしまう。
だから、気付くのが遅れてしまった。
逃げ散ったムジカの一匹が、私めがけて一直線に飛び掛かってきていたことに――
「伏せろ! 頭を抱えて身を出すな!」
突然の怒声に肩が跳ねたが、体は自然と従っていた。私は雪に顔を押しつけ、両手で頭を守るように身を丸める。
金属を扱うような乾いた音。矢が風を裂く鋭い音。
獣の威嚇が遠ざかっていく気配があとに続く。
……どれほどの時間が経っただろう。
全身の震えがようやく収まりかけた頃、不意に声が降ってきた。
「相変わらず逃げ足の速ぇことだ。……おい、嬢ちゃん。生きてるか?」
恐る恐る顔を上げる。冷え切った頬がひりつき、視界を確かめるために瞬きをしたら、睫に付いた雪が落ちた。
周囲を見渡すと、あちこちにムジカの死骸が転がって、雪はところどころ赤く彩られている。
その光景の中心に立っていたのは、白髪の大柄な男の人だった。
片手には重厚なボウガンを下げ、もう片手で白狼を招き寄せるように合図する。
体を震わせて血を払った白狼を伴いながら、男がこちらへゆったりと歩み寄ってくる。
「……まったく、本当にこんなところに取り残されてたとはな。嬢ちゃん、立てるか?」
低く荒削りな言葉なのに、不思議と温かい響き。
鋭い瞳にはこちらを案じるような色が浮かんでいる。
大丈夫です、と言おうとしたのに。
声になる前に世界の端から色が消えていく。
緊張の糸がプツリと途切れたのか、私の視界は暗く沈んでいった。
――そもそもどうして、私はこんな目に遭っているんだったか。
暗闇の中、冷たい雪の痛みよりも先に、あの日の焼け付くような屈辱が意識を深く引きずり込んでいく――
「シーナ・リンドさん。貴女には北部ヴィンターハルトの調査を命じます。人獣共生協会の協会長ともあろう御方ですもの。現地を知らずにわたくしに道理を語るだなんて――まさか、なさいませんよね?」
王妃様の声は酷く甘やかで、それでいて肌を刺すような鋭い棘を含んでいた。
返事をしようと開いた唇が情けなく震える。
心臓だけが耳元で暴れるように脈打ち、肝心な声が喉に張り付いて出てこない。
どうして。どうして私が、死地とも言えるヴィンターハルトに。
助けを求めて周囲を見渡しても、返ってくるのは冷たく重苦しい沈黙だけ。
ついさっきまで笑顔で挨拶を交わしていた人たちは誰一人として私と視線を合わせようとせず、庇う素振りすら見せてはくれなかった。




