兄の婚約者に恋をして……
緑豊かなアルベスター王国。
その中流貴族の次男として生まれたランは理屈を重んじ、
感情に流される人間を愚かだと切り捨てていた。
涙もろく情に厚い兄とは、いつの間にか一線を引くようになった。
──心のどこかで、兄を見下している自覚すらある。
そんなランの唯一の趣味は剣術だ。
暇さえあれば鍛錬を欠かさず、その日も裏庭で数人の兵士と木剣の打ち合いに励んでいた。
不意に、目の前を虫が横切った。
わずかに意識が逸れたその瞬間、
訓練相手の兵士の木剣が加減なくランの右脇腹へ叩き込まれる。
「……っ!」
呼吸が詰まり、ランは膝をついた。
久しぶりにまともに食らった衝撃に冷や汗が滲む。
けれど、痛みに歯を食いしばりながらも、
(まだまだだな、俺は)と笑みがこぼれた。
軽く手当てを済ませ、邸宅へ戻る途中──
ランは兄とすれ違った。
その隣には、見知らぬ女性が立っている。
二人はランに気づくと、和やかに微笑みながら近づいてきた。
突然のことで身構えるラン。
だが、女性は長いブロンドの髪を風に揺らし、柔らかな微笑みを崩さない。
「彼女は私の婚約者なんだ。先ほど、正式に父上から承諾をいただいた」
兄は満面の笑みだった。
その横で頬を赤らめ、幸せそうに微笑む彼女は、ひどく美しく見えた。
──心臓が強く脈打つ。
しかし、感情に振り回されるのは愚かな人間の証。
そう自分に言い聞かせ、ランは挨拶のため右手を差し出す。
その瞬間、脇腹に痛みが走った。
ランはわずかに顔を歪めるが、その変化に気づいた者はほとんどいない。
……彼女を除いては。
彼女の瞳が一瞬だけ揺れる。
だが、無表情を保つランを見て何かを察したのか、
視線をそっと落とし、小さく息を整え、
その手を取って——
「初めまして……」
柔らかな声が届いた瞬間、
ランの視界がぐらりと大きく傾いた。
脇腹を庇おうと身を折るも、そのまま力が抜けて崩れ落ちる。
──床の冷たさがない。
薄れゆく意識の中でも、それだけははっきり分かった。
温かく、柔らかい腕。
そして、甘く優しい蜜のような香り。
ランは、彼女に抱き留められていた。
*
「……ラン様、気づかれましたか?」
かすかな声に瞼が震える。
開けると、そこには見慣れた天井があった。
自室のベッドの上だ。
ゆっくり上体を起こすと、脇腹に鈍い痛みが走る。
同時に、さっきの温もりがふっと胸によみがえった。
(……彼女、だったのか?)
その答えを教えてくれる者はいない。
ただひとつ、胸の鼓動だけが、やけにうるさかった。
いや……これは、女性に助けられたという驚きで……。
騒ぎ立つ胸を掻きむしるように押さえ、
何かを否定しようと必死に理屈をかき集める。
だが——
彼女の笑顔が脳裏をかすめた。
柔らかな微笑み。
風に揺れるブロンドの髪。
そばにいたとき感じた、あの甘い香り。
思い返した瞬間、
ランは両腕で自分を抱きしめるようにして、ゆっくりとうずくまった。
(……あの唇も、きっと柔らかい——)
そこまで想像したところで、
脳裏に浮かぶのは彼女の声音。
「……エリック様」
一瞬で、胸の奥が黒く沈んだ。
ランの思考を絶望が塗りつぶす。
俯いたまま、かすかに笑いが漏れた。
その笑いは徐々に大きくなり、肩を揺らし、
ついには全身で笑い出す。
「ハ……ハハ……!」
笑った拍子に、脇腹へ激痛が走った。
「っ……ッ……!」
ランは悶絶し、ベッドへと倒れ込む。
痛みに耐えながらも、
やがてまた静かに、ひとつ笑った。
「……クク……なんてことはない……
……俺もただの人間だったか」
最後まで読んでくださってありがとうございました。
また短編を投稿していきますので、よろしくお願いします。




