7話
季節は6月に入り、美影町も梅雨の走りか、少し蒸し暑い時期になってきていた。 神社の境内を吹き抜ける風も、心なしか湿り気を帯びている。
壮一郎は社務所の自室で、畳の上に広げた資料とパソコンの画面を睨みつけていた。 夏に控える町の一大行事、例大祭(夏祭り)の準備だ。
(こういう裏方仕事も、神主の大事な務めなんだよな…)
壮一郎は、夏祭りで販売する特別な御朱印のデザイン案を確認し、縁起物の発注リストを更新するなど、地道な事務仕事に追われていた。 神聖な空気の中、カチカチというキーボードの音だけが響く。
パソコンで発注数を入力しながら、壮一郎はふと窓の外に目をやる。 まだ昼過ぎ。巴が学校から「戻って」くるまで、あと数時間はある。
それまでの束の間、壮一郎は静かな社務所で、一人黙々と神主見習いとしての務めを果たしていた。
どれほど集中していただろうか。固まった背筋を伸ばすため、壮一郎は椅子の上でゆっくりと、ぐーっと伸びをした。
「ふぅ…茶でも入れるか…」
立ち上がって台所へ向かい、自分用に急須で茶を淹れた壮一郎は、ふと壁の時計を見た。
時刻は15時半を回ったあたりだ。
「そろそろ戻ってくるかな…」
湯呑みを片手に、壮一郎は社務所の事務所の扉を開けて、鎮守の森へと続く参道の入口方向を見る。
巴と再会して2か月。 最初はあれほど騒々しく感じた巴の来訪が、今では「自分の元に戻ってくる」のが、当たり前の日常になっていた。 壮一郎は、その日課を待つ自分に、小さく苦笑する。
そんな事を考えていると、まさにそのタイミングで。
「壮一郎~~!」
いつもと寸分違わぬ時間に、巴が満面の笑みでこちらに向かって、長い参道を無邪気に走ってくる。 この2か月で、既に何度も何度も見た光景だと感じながら、壮一郎は湯呑みを持ったまま、その場で巴を出迎えた。
「ただいまっ!」
勢いを殺さず、巴は何の躊躇もなく、荷物を放り出す勢いで壮一郎の胸に飛び込んできた。
「おかえり」
壮一郎は、湯呑みを持っていない方の手で、その頭を優しく、しかし手慣れた様子で撫でる。 このやり取りも、すっかり日常だ。
心境の変化…というより、巴の両親から「娘をよろしく」と、半ば強制的に、しかし公認の形で託されたのも大きいかもしれない。 壮一郎は、巴のこの無防備な好意を、真っ直ぐに受け止める覚悟を決めていた。
「そういえば、巴。中間テストの結果はどうだったんだ?そろそろ出ただろ?」
抱き着いてくる巴の体温を感じながら、壮一郎は思い出したように尋ねた。 巴は壮一郎の胸に顔をうずめながら…
「うっ!?」
これ以上ないほど、ばつが悪そうな、詰まった声を上げた。
*
場所は変わり、社務所。 畳の上に、巴が恐る恐る差し出した中間テストの結果用紙が広げられている。 壮一郎は腕を組み、その絶望的な数字の羅列を眺めていた。
「…赤点スレスレばっかじゃないか…」
散々たる結果を見た壮一郎。 その眼は、もはや怒りを通り越し、どうしようもない子供の通信簿を見る、親のような眼をしていた。
対する巴は…
「な、なんとか赤点回避できたから、補習は免れたぜ…」
なぜか、その一点においてのみ、ちょっと誇らしい顔をして「えっへん」と胸を張る巴。
「いや、誇れる点じゃないからな…」
壮一郎は、そのズレた感性に、半眼で呆れるようにいう。
巴は「何を言うか!」とでも言いたげに、さらに胸を張った。
「いやいや!補習になんかなったら、壮一郎との貴重な時間が減るじゃないか!!そう考えればあたしは頑張ったと言えるっ!!」
壮一郎との時間を確保するために、最低限の努力(赤点回避)はした。 そう恥ずかし気もなく言い切る巴を見た壮一郎は、深く、長いため息を一つ吐いた。
「…巴、ちょっとこっち来い」
「ひ、ひぇ…」
怒られる。壮一郎の低い声に、巴は即座にそう思ったのか、分かりやすく怯え、後ずさる。
「いいから」
仕方なく、というように、巴は壮一郎の座る文机の前に、恐る恐る近づいていく。
「げ、げんこつは無しだよ…?」
上目遣いで、最後の抵抗を試みる巴。
壮一郎は、そんな巴の頭にポンと手を置くと、そのまま引き寄せた。
「ま…頑張ったな」
そう言って、壮一郎は、怯える巴をそのまま腕の中にすっぽりと抱きしめるのだった。
不意打ちの、しかも予想していた罰とは真逆のご褒美に、巴は一瞬硬直するが、すぐに状況を理解し、茹蛸のように真っ赤になる。 しかし、その口元はだらしなく緩んでいた。
「フヒッ…フヒヒッ…」
奇妙な笑い声を漏らしながら、巴は壮一郎の胸に顔をグリグリと押し付け、その予想外の抱擁を全身で受け入れるのであった。
しばらくその温もりを味わっていたが、やがて壮一郎がぽん、と巴の背中を軽く叩くと、二人は名残惜しそうに、しかし満足して体を離した。
抱擁を交わした二人は、再び社務所の椅子に座り直す。 壮一郎は、もう一度小さく息を吐いてから、何事もなかったかのようにパソコンに向き直り、中断していた事務仕事を再開した。 カチ、カチ、とマウスのクリック音だけが響く。
その様子を、巴はすぐ近くの椅子にちょこんと座り、ただじっと眺めていた。 先ほどの興奮で頬を上気させたまま、テスト用紙のことなどすっかり忘れ、実に幸せそうに壮一郎の横顔を見つめている。
壮一郎は、その熱烈な視線を感じながらも、画面から目を離Sず、仕事をしながら、隣にいる巴に話しかけた。
「そういえば、巴。お前、欲しいものないか?」
不意に、いきなり欲しいモノはなんだ?と聞かれた巴は、一瞬考え込み…
「…子供?」
壮一郎の目を見つめたまま、真顔で、しかし即答した。
壮一郎は、その回答を若干予測していたものの、やはりぐったりと力が抜けたように、マウスを操作していた手を止めた。
「…いや、子供はモノじゃないから…」
「…ふぅむ…子供の次に欲しいもの…欲しいもの……」
巴は、壮一郎の訂正を素直に受け入れ、今度は本気で腕を組んで悩み始めた。
「な、なんか無いのか?あー…別にモノじゃなくても、カラオケでもゲーセンでも…」
このままだと「壮一郎」と答えが返ってきそうな気がして、壮一郎は先手を打って、現実的な選択肢を提示する。
「ん-………強いて言うなら、服とか見に行きたいけど…」
悩み抜いた答えを、巴は遠慮がちに言った。
「よし、なら次の休みは巴の服を買いに行くか」
壮一郎は、それを待っていたかのように即決した。
「おぉ!?…って、壮一郎からの誘いなんて珍しいね。いつもあたしが誘う側なのに」
巴は、壮一郎からのまさかの提案に、目を丸くして驚いている。
壮一郎は、そんな巴の反応を(予想通りだな)と受け流しながら、その理由を口にした。
「お前、今月、誕生日だろ?だから、誕生日祝いも兼ねて、なんか買ってやろうと思ったんだよ」
なるほど。と、巴はぽんと手を叩いて合点がいった。
「…っていうか、それならむしろ、サプライズのほうが良くない?あたしに直に聞いたって…」
壮一郎は、再びパソコンの作業に戻りながら、さらっと言った。
「だって、お前、俺からのプレゼントなら、なんでも喜びそうじゃん」
「ぐっ!?」
まさに図星。巴は、その(全て見透かされているかのような)言葉に、息を詰まらせた。
そんな巴の様子を見て、壮一郎は口元だけで小さく微笑んだ。
「まぁ…俺は巴のそういうところ、良いと思うよ」
不意打ちの、決定的な褒め言葉。 巴は、急に真正面から褒められたためか、喜びと羞恥で顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「そ、そう?…フヒヒッ…」
照れながらも、嬉しさを隠しきれずに奇妙な笑い方をする巴。 壮一郎は、その(実に分かりやすい)様子に、満足げな視線を送っていた。
*
壮一郎が休みの土曜日の朝。 珍しく早起き(というより神主としての定時起き)をした壮一郎は、台所で簡単な朝食を作り、父親の厳と二人、居間で食事をしていた。
「壮一郎、今日は町内会の会合に出るから、帰りは遅くなるから夜は適当に済ませておきなさい」
厳が、味噌汁を啜りながらそう告げた。
町内会の会合。 それは確かに、地元の有力者との大事な会議を含めた神社の「仕事」…ではあるのだが。 歴史ある神代家の当主である厳と、地元の有力家とは、そもそも昔からの顔なじみばかり。
厳にとって、その会合も仕事というよりは…
「いいけど、あんまり呑み過ぎるなよ、父さん」
壮一郎は、釘を刺すようにそう言った。 実態は、古い友人同士との呑み会ついでに、仕事の話もしてくる。そんな感じの会合であることを、彼は知っていた。
「ははは、そうだな。気をつけるよ」
厳は、それを軽く笑って流す。
「そういえば、父さん。今日、車借りてもいいかな?」
壮一郎が本題を切り出す。神社の社用車(兼自家用車)である軽トラックではない、もう一台のセダンを使うつもりだった。
厳は、箸を止め、不思議そうに息子を見た。
「問題ないが、珍しいな。壮一郎が車を使ってまで遠出するなんて…巴はどうするんだ?」
その言葉は、壮一郎の休日には『将来の嫁』である巴が隣に居て当たり前だろう、と言った考えが透けて見える、実に自然な問いだった。
「その巴を連れて買い物行くだけだよ。あいつも、今月で『18』だから、その誕生日プレゼント選びに巴を連れてく。って話だからさ」
壮一郎も、それを隠すことなく率直に答える。
厳は、壮一郎からその理由を聞かされて、ふと箸を置くと、何やら考え込んだ様子だった。
「ふむ…」
その様子を見て、壮一郎は(何かまずいことでもあったか)と問いかける。
「ど、どうしたんだ?父さん…」
「いや…お前が5歳からの付き合いの巴が、今やそんな関係になったかと思うと、なんだか感慨深くてね…」
厳は、目を細めてしみじみと呟いた。 当時の決まりで、半分冗談のように適当に決めた許嫁が、十数年の時を経て、今はこうして息子がその子のために誕生日プレゼントを買いに行く仲になった。 その意味合いを、厳は噛しめていた。
「まぁ…俺も驚いてるよ」
壮一郎は、照れを隠すように、少しぶっきらぼうにそう答えた。 そんな親子の会話をしながら、二人の静かな朝食は済んだ。




