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神主見習いと幼馴染の許嫁  作者: ブヒ太郎


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5/20

5話

壮一郎は、根気よく巴の勉強を見ながら、ふと壁にかかっている古風な柱時計に目をやった。 短針はとっくに19時を回ったところを指していた。窓の外はすっかり暗くなっている。


壮一郎は「んー」と固まった体をほぐすように、ゆっくりと伸びをした。


「巴、そろそろ夕飯時だし、家に帰ったらどうだ?送ってくよ」


さすがにこれ以上引き留めるのは、巴の親にも悪い。そう思い、壮一郎は努めて優しく微笑みかけた。


「え…あ、もうこんな時間か…」


集中していた(のかは不明だが)巴も、時計を見て驚いたように声を上げる。


「そういえば、今日はお父さんいないけど、どっかお出かけ?」


巴が「お父さん」と言ったのは、当然のように壮一郎の父親であるげんの事だった。


「仕事だよ仕事。神主仲間との会合が長引いてて、今日は遅くなるんだってさ」


昼間、厳からそう連絡があったことを壮一郎は伝えた。


巴はそれを聞き、ピクリと反応すると、口元を隠すこともなくニヤリと悪戯っぽく笑った。


(壮一郎が一人) (父親が帰ってこない) (つまり、二人きり)


その思考が顔にデカデカと書かれている。 壮一郎の背中に、嫌な予感と共にぞくりと寒気が走った。


「なら、今日は壮一郎の家にお泊りしていこうかなぁ?」


ニヤニヤと、これ以上ないほど楽しそうな顔で、巴はそんな爆弾を投下した。


しかし、壮一郎はこの一ヶ月で、巴の扱い方を少しずつ学んでいた。彼は慌てず騒がず、思わぬ反撃に出た。


おもむろに作業着のポケットからスマホを取り出し、電話帳を開く素振りを見せる。


ゆずるおじさんの番号はっと…」


それは、巴の父親の名前だった。


「!?」


巴の顔から、一瞬にして余裕の笑みが消え去る。


「あ、もしもし、譲おじさん。すいません、壮一郎です。巴が今日は俺んちに泊まりたいって言ってるんですが」


壮一郎は、スマホの画面を見つめたまま、淡々と、しかしハッキリとそう告げた。


「ちょちょちょ!?」


巴が、信じられないという顔で両手を振り回し、困惑の声をあげる。


「はい。今日、父さんもいなくて、母さんは相変わらず出張中なんで、俺たち二人しか居ないんですが…え?どこに寝かせるんだって?…まぁ、年頃の娘さんですし、不用心だし、俺の部屋で一緒に…」


壮一郎は、巴の顔をチラリと見ながら、さらに思い切った発言を重ねる。


「わぁぁぁあああ!?」


巴はついに我慢できず、混乱しながら壮一郎からスマホをひったくった。


「お、お父さん!?あ、違う、これはその!あたしもまだ心の準備が出来てないんだけど、壮一郎がどうしても泊っていけっていう…か…ら?」


必死に言い訳をしようとした巴だったが、スマホの画面が通話中ではなく、ただのホーム画面であることに気付き、その声は尻すぼみになっていった。


「誰が泊っていけって言ったっけ?」


壮一郎は、全ての状況を把握し、してやったりとばかりに面白そうに巴に話しかけた。


「~~~っ!!」


自分が盛大にからかわれたことを悟り、巴の顔は一瞬で真っ赤に染め上がった。


壮一郎は、そんな巴をさらにからかうように、楽しそうに言葉をかけた。


「俺が泊っていけ。なんて言うわけないだろぉ?」


その言葉に、巴はからかわれた恥ずかしさと、それとも「泊れなんて言わない」と壮一郎に突き放されたかのように感じた言葉が心に響いたのか、どことなく眼が潤んでいた。


「な、なんでよぉ」


抗議するような、拗ねたような声が漏れる。


壮一郎は、そんな巴の反応を見て、クスっと意地悪そうに笑った。


「だって、お前、俺が本気で『泊っていけ』って言ったら断れるのか?」


「うっ!?」


巴は、壮一郎に自分の気持ちを完全に見透かされていることを言われてしまい、動揺して言葉に詰まってしまった。


「はいはい、わかったら帰った帰った」


壮一郎は、これ以上からかうのは可哀想だと思い、パンパンと手を叩いて、勉強会の終了を宣言した。


しかし、巴もこのまま引き下がるわけにはいかない。


「ご、ご飯どうするのよ!?壮一郎、自分で作れるの!?」


巴は、壮一郎は料理なんか出来ないであろうと見越して、次の食い下がる材料を見つけ出した。


「そりゃぁ、簡単なモノくらいなら作れるぞ。肉野菜炒めとか、炒飯とか、サラダとか?」


だが、巴の予想はあっさりと裏切られる。


(いや、俺、2年間東京で一人暮らししてたんだから、作れるに決まってるだろ…) 壮一郎は内心でそうツッコミを入れた。


「ぐぬっ!?」


巴は、最後の砦が崩れたことに戸惑っていたが、それでも諦めない。


「え、栄養バランスが悪いんじゃない!?あ、あたしが夕飯作っていってあげるよ!!」


「肉野菜炒めなのに…?」


(肉も野菜も摂れるのに、どこが栄養バランスが悪いんだ?) 壮一郎は、その滅茶苦茶な理屈に呆れつつ、純粋な疑問として巴に質問したが…


「そ、そ、壮一郎が作るんだから、バランス悪いに決まってる!これは決定!!あたしが作ってあげるから、一緒に食べるのよ!」


巴は、もはや理論ではなく気迫で押し通そうと、無理やりな理論を組み立てて、一方的に宣言すると、勢いよく部屋を出ようとした。


「…素直に一緒に夕飯食べたい。って言えばいいのに」


壮一郎が、ぼそっと。だが、廊下まで十分聞こえる程度の声量でそう呟いた。


「~~~っ!」


その言葉が決定打となり、真っ赤になった顔で巴が壮一郎を(悔しそうに)睨みつけて、そして、ドタドタという足音と共に台所へと向かい、部屋を出ていった。


一人、部屋に取り残された壮一郎は、巴が去っていった障子を見つめながら…


(巴も、たまーにこうしてからかってやると、可愛い所はあるんだよなぁ)


そんなことを思い、小さく笑みをこぼしていた。



壮一郎は、巴と一緒に勉強していた自室の文机や参考書を片付けると、ジュージューという食材を炒める音と、香ばしい匂いが漂ってくる台所に向かった。


そこでは、先ほどの宣言通り、巴がぎこちない動作ではあるが、真剣な顔でフライパンを振るっていた。 その姿は、壮一郎の知る「家事全般の技術を向上させていた」という言葉とは、少しギャップがあるように見えた。


壮一郎は、邪魔しないように後ろからそっと近づき、何を作っているかを確認してみると、キャベツや人参、豚肉が醤油ベースのタレで炒められている。


「…なんだ、巴も肉野菜炒めを作ってるじゃないか」


結局、自分が作ろうとしていた料理と同じものを作っていることに気付き、壮一郎は思わず笑ってしまった。


巴は、背後の壮一郎にビクッと肩を震わせると、フライパンを持ったまま振り返り、顔を赤くして恥ずかしそうに抗議の声をあげた。


「う、うるさいっ!あたしと壮一郎の料理を比べたら決定的な違いが出るのよ!!」


壮一郎は「はいはい」とそれを受け流しながら、夕飯のもう一品を考えるため、冷蔵庫を開けた。 汁物の用意が無かったため、豆腐と(厳が常備している)信州味噌を探し出す。


「味付けとか、塩の量とか?」


冷蔵庫から具材を取り出しながら、なんとなく思いついた事を言ってみる。


巴は、再びフライパンに向き直り、ヘラで具材をかき混ぜながら、モジモジと小さな声で答えた。


「あ…愛情…」


その言葉を聞いた瞬間、味噌汁用の鍋を取り出そうとしていた壮一郎の手が止まり、半眼で巴に言った。


「…お前、よくそんな恥ずかしい事を面と向かって言えるな…」


巴の顔が、コンロの火のせいか、羞恥心のせいか、さらに赤面する。


「な、なんでだ!?漫画ではこの言葉で言われた相手は「キュンッ」ってしてる様子が書かれてたのに!?」


壮一郎は、その間に手早く空いてる鍋に水を入れ、コンロに火をかけて、豆腐を切り、味噌汁を作り始めていた。その手際は、2年間の自炊生活を感じさせる無駄のないものだった。


「漫画と現実をごっちゃにしないでくださーい」


冷静なツッコミを入れられ、漫画の知識(?)を真っ向から否定された巴は、最早何も言わずに黙々と肉野菜炒めを完成させることに集中し始めた。


その(少し拗ねたような)様子を見かねた壮一郎は、火を弱めて味噌を溶き入れながら、巴の隣に並んだ。


「ま、その気持ちは受け取っておくよ」


と、言って、空いている手で巴の頭をポン、ポンと優しく撫でるのであった。


その瞬間、フライパンの中身を見つめていた巴の口角は、隠そうとしても隠しきれないほど、満足げに上がっていた。



時刻は20時手前。 二人は居間で、食卓を囲みながら夕食を摂り、雑談していた。 巴の作った(壮一郎が作る予定だったものと寸分違わぬ)肉野菜炒めと、壮一郎の作った味噌汁が並んでいる。


先程の勉強の確認やら、巴の学校であった何気ない出来事(主に友人の朱音のこと)の話などを、巴が実に楽しそうに、身振り手振りを交えて壮一郎に話しかけていた。 壮一郎は、そのマシンガントークに相槌をうちながら、黙々と箸を進める。


そんな話をしながら、夕食は和やかに(一方的に賑やかに)終わり、二人分の食器が空になった。


壮一郎は、慣れた様子で食器を重ね、台所へと運びながら、巴に声をかけた。


「荷物、部屋に纏めておいたから、取ってきたら言えよ。家まで送ってくから」


「えー、もう帰らせるの~?」


まだ話し足りない、と言いたげに、巴は唇を尖らせて不満を露わにした。


「いや、お前…もう20時回ってんだぞ…普通の高校生は家に帰る時間だ。親御さんが心配するわ…」


壮一郎は、常識的な反応としてそうたしなめる。


しかし、巴はふっと、その常識を嘲笑うかのような不審な返答をした。


「別にお父さんもお母さんも心配なんてしてないよ」


壮一郎は、食器をシンクに置く手を止め、その引っかかる言葉の真意を確かめようと居間に戻った。


「…なんだ?ご両親と喧嘩でもしたのか?」


もしそうだとしたら、このまま夜道に放り出すように素直に送っていいものか…そんな神主見習いとしての(あるいは幼馴染としての)情が湧きかけたが…


「え?喧嘩?しないしない。ほら、このメールのやり取り見てよ」


巴は、何でもないことのように自分のスマホを取り出し、ロックを解除して、母親とのメッセージアプリの画面を壮一郎に見せつけた。


そこに表示されていたのは、壮一郎の常識を根底から覆す、恐るべきやり取りだった。


巴『今日、壮一郎のお父さん居ないらしいから、壮一郎の夕飯作って一緒に食べてくから、遅くなる』 母『わかりました』 巴『あと、もしかしたら、泊ってくかも』 母『はい、その時は壮一郎くんに娘はよろしく。って伝えておいて』 巴『了解』


壮一郎は、その先程(おそらく夕飯の準備中)に行われたであろう、あまりにもフリーダムな母娘のやり取りを見て、絶句した…


「おい、なんだこれは…」


壮一郎は、自分の目を疑い、スマホの画面をまじまじと見つめた。


巴は、壮一郎が何にそんなに驚いているのか、心底わからないといった様子で不思議そうに首を傾げた。


「え?お母さんとのやり取りだけど?」


「いや、このやり取りの流れはおかしいだろ...!いくら昔からの付き合いで、お隣さんみたいなもんだからって、年頃の娘が男と同じ屋根の下に泊まっていくかも。って言って、『はい、よろしく。』って…」


巴は、壮一郎の狼狽ぶりに、更に不思議そうな顔をした。


「いや、『娘をよろしく。』って書いてある通りだよ」


「どういう意味だ…」


「文面通り」


巴は、ニヤリともせず、それがこの世の真理であるかのように、さらっと爆弾発言をする。


壮一郎は、この月城家の(特にお母さんの)教育方針に、もはや何も言う気が起きず、ただただ圧倒されていた。


これ以上この話題を続けるのは危険だと判断し、壮一郎は半ば強引に巴に帰宅する準備をさせるのだった。


そうして、夜道を二人で歩き、無事(?)巴を月城家の家の前まで送り届けたのだった。


「別に気にしなくてもいいのにー」


家の門をくぐりながら、巴はまだ不満そうに口を尖らせている。


「気にしないほうがおかしいだろ…」


壮一郎は、玄関先で深々とため息をついた。


「壮一郎の意気地なし~」


「お前な…」


最後にそんなやり取りをして、壮一郎は(もはやツッコむ気力もなく)ぐったりとした足取りで、夜風が冷たい家路についた。


神社の自室に戻った壮一郎は、電気もつけずにそのまま畳の上に大の字になった。


(なんか、どっと疲れが出た…風呂入って寝よ)


色恋沙汰よりも、他人の家の家庭環境のほうがよほど精神を消耗する。 そう思い立ち、壮一郎は重い体を引きずって風呂を沸かし始めた。


(…そいや、実家だとこれが普通と思ってたが、うちの風呂場ってデカいよなぁ…)


湯が沸くのを待つ間、服を脱ぎながら、壮一郎は久しぶりに入る実家の風呂場を眺める。


(家族用っていうのか、大人2人子供1人が余裕で入れそうな広さなんだよなぁ…)


東京で暮らしていたワンルームのアパートの、狭いユニットバスを思い出す。


(それが、一人で占有できるなんて、田舎田舎と思ってたが、実は贅沢な事だったんだなぁ)


都会暮らしを経験したことで、ほんの少し、自分の地元・美影町への価値観が変わったことに気付く、壮一郎だった。



(一人で占有できるなんて、贅沢なことだったんだなぁ)


そんな感傷に浸りながら、風呂が沸いたのを確認し、壮一郎は湯気の立ち込める風呂場に入った。 洗い場で小さな椅子に腰かけ、シャワーで身体に湯をかけている、まさにその最中だった。


ガラッ、と。


静かな風呂場に、木製の引き戸が開く音が響いた。


「ん?父さん?早かっ…」


こんな時間に帰ってくるのは父の厳しかいない。壮一郎は、会合が思ったより早く終わったのかと思い、シャワーを止め、音がしたほうを振り返った。


そこに居たのは…


「…勉強見てくれたお礼に、背中流しに来たよ。壮一郎」


家まで送り届けたはずの巴が、そこに…湯気の中にぼんやりと浮かび上がる、一糸まとわぬ姿で立っていた。


「・・・・・・・・・」


壮一郎の思考が、完全に停止した。 目の前の光景が理解できず、彼はただ唖然とする。


「ふっ…この身体に眼が釘付けのようだな…」


巴は、壮一郎のその反応を「魅了されている」と解釈したのか、得意げに自分の身体(2年間で確かに成長したライン)を見下ろした。


しかし、壮一郎の思考は、色気よりも先に、現実的な問題へと着地した。


「いや、待て…家のドアにはちゃんと鍵かけてあるはずなのに、どうやって入ってきたんだ…?」


当たり前の疑問を、壮一郎は(自分の裸を気にする素振りも一切見せず)投げかける。


「え?合鍵」


巴は、何を今更、という顔で、それがさも当たり前だと言う。


「おい!?なんで持ってんだよ!?」


困惑しながら、さらに問い詰める壮一郎。 だが、巴はしれっと答えた。


「壮一郎の嫁になるんだから、鍵をください。って言ったら、お父さんがいいよって、渡してくれた」


「…父さん…」


(あの親父、どこまで外堀を埋められてるんだ…!) 厳も既に巴の手中に(あるいは巴の母親の手中に)完全に堕ちているのだと、壮一郎は痛感した。


「まぁまぁ、そんな硬い事言わずに、お背中流しますよ、旦那」


巴は、グヘグヘと(色気も何もない)奇妙な笑い声を漏らしながら、タオルとボディソープを手に、ゆっくりと壮一郎のほうへ近づいてくる。


壮一郎は、もはや抵抗する気力も失せ、この状況で騒ぎ立てるほうが面倒だと判断し、深い深いため息を吐いた。 そして、再び洗い場の椅子にちょこんと座り直し、巴に背中を向けた。


「あー、もうわかった。それじゃあ頼むわ」


その、あまりにも素直な壮一郎の反応に、今度は巴が「え?」と焦る番だった。


「そ、壮一郎…一応、男女が裸で一緒にお風呂に居る異常事態ってことには何も言及無し?」


今更、そんな事を言う巴。 (入ってきたのはお前だろ…)という非難の眼差しで、壮一郎は肩越しに巴を振り返る。


「…まぁ、幸いここは俺んちで、父さんも居ないし、誰かに見られるって環境でもないしな」


諦めの境地。もはや何をされても驚かない、という疲労感がその言葉には滲んでいた。


しかし、巴は(自分の裸という最強のカードを切ったはずなのに)その反応が許せなかった。


「ちょちょ!?あたしの裸を見ても、その反応ってなんだ!?」


壮一郎は、その言葉を聞いて、一ヶ月前に巴から言われた言葉を思い出した。


「…別に見ようと思えば、いつでも見ていい身体なんだろ?」


カラオケに行く途中で、巴が自分で言った言葉を、そのままそっくり返した。


「~~~っ!?」


巴は、自分の発言がブーメランとなって返ってきたことに気付き、顔をカッと赤面させた。


「…今更恥ずかしがられても困るが…別に恥ずかしいなら風呂場から出てっていいぞ」


壮一郎は、本気でそう思って、一応の援護の言葉(退路)を投げかける。 だが、巴は一度振り上げた拳を下ろせないタイプだった。


「…あたしが攻めてきたのに、はい、そうですか。って逃げ帰るわけにはいかないっ!」


「いや、兵士か…」


壮一郎が呆れてツッコミを入れたが、巴は「ふんっ」と鼻息荒く、変な覚悟を決めた様子だった。



背中を洗い流してもらっているはずの壮一郎だったが、 その背中に伝わってくるのは、泡立てたタオルの感触とは明らかに違った。


柔らかく、弾力のあるボールのようなものが、二つ。それがぐりぐりと背骨に沿って押し当てられている感覚…。


(これは、あれか) 壮一郎は、それが巴の胸であると即座に理解したが、動じない。


「クックック…どうした?壮一郎?最早理性も限界か?」


巴は、背後から壮一郎の耳元に、わざとらしく吐息混じりの声で、まるで昔のゲームの魔王のような言葉を吐く。


「…くすぐったいから、ちゃんとタオル使って洗ってくれませんか?巴さん」


壮一郎は、その誘惑(?)を、一切振り返らずに真顔で一蹴した。


「いきなり『さん』付け!?なんで、一気に距離広がってんの!?」


自身の最大限の誘惑が(くすぐったいという理由で)全く効いていない事に、巴の動揺が隠せない。


「背中流しますよ。って言って、いきなりよくわからん事(胸を押し当てること)してくるから…」


壮一郎は、あくまでも平静を貫き、淡々と事実を指摘する。 その、色恋沙汰として全くカウントしていない壮一郎に、巴はついに我慢の限界を迎えた。


「そ、壮一郎!?ほ、ほんとにあんた****ついてんの!?」


静かな風呂場に、とんでもない暴言が響き渡る。


「あー、もう…」


壮一郎は、その言葉に(呆れを通り越して)深く息を吐くと、最終通告を突きつけた。


「背中流すか出ていくかの二択な、面倒だから」


壮一郎にその(巴にとっては)選べない二択を提示され、巴は「ぐぬぬ…」と悔しそうに唸った後、 ようやく諦めてタオルを手に取り、今度こそ大人しく、しかし少し乱暴に、壮一郎の背中をゴシゴシと洗い始めるのだった…。



互いに身体が洗い終わり、広々とした湯舟のふちに、二人は肩が触れ合わないギリギリの距離で隣り合わせて浸かっていた。 チャプン、と壮一郎が足を動かす音だけが、湯気と共に静かに響く。


「はぁー…生き返るー…」


壮一郎の口からは、今日一日の疲れが湯気に溶けて抜けていくような、心の底からのため息が漏れた。


しかし、その隣で巴は、さぞ不服そうに頬を膨らませ、湯面を指でいじりながら…


「おかしい…男はああいう事(胸アタック)をすれば理性なんてイチコロだ。って書いてあったのに…」


そうボヤいていた。


壮一郎は、その(まだ言っているのか)という言葉を、呆れるように聞き流した。


「…なんだ、また漫画か?」


「うっ!?」


図星を当てられ、巴は「ビクッ」とカエルが潰れたような声を上げる。 壮一郎は、そんな巴の様子に、湯舟の中でにっこりと人の悪い笑みを浮かべた。


「よし、その漫画、今度没収な?」


そう言うのだった。


「や、やめてぇぇぇぇ!!くぅ…本当なら今頃、壮一郎の理性は崩壊して、あたしの手のひらの上で転がされてるはずだったのに…」


巴は、自分の狙いがいかに完璧だったかを暴露しはじめたが…


壮一郎は、その言葉を遮るように、実に冷静な声色で呟いた。


「…俺の理性がこの場で崩壊した場合、物理的に床(洗い場)に転がされるのって巴のほうなんじゃ…」


それは、巴の知らない、都会での2年間の一人暮らしで身につけた(かもしれない)壮一郎の、男としての一面を匂わせる発言だった。


「…確かに言われてみれば…」


巴は、その壮一郎の言葉の意味を数秒かけて咀嚼し、自分が今置かれている状況(湯舟の中で、裸の男と二人きり)と、その「もしも」の展開を具体的に想像してしまい、一気に耳まで茹蛸ゆでだこになる。


「…お前なぁ…相手が俺だから良いものの、これ他の男に同じことやったら、本当に危ないからな?」


壮一郎は、真っ赤になって黙り込んだ巴に、まるで兄が妹に言い聞かせるように、そうアドバイスしたが、


「なんなんだ、壮一郎のその余裕はぁぁぁぁぁあああ!?」


巴にとっては、その冷静な忠告こそが、自分は(巴の裸を見ても)全く動じない、とでも言いたげな壮一郎の発言に聞こえ、困惑を示した。


「…ま、これが未来の「旦那」の余裕ってやつ?」


壮一郎は、巴の怒りをさらに煽るように、ニヤリと笑ってそう言った。


「旦那っ!?」


巴は、壮一郎が絶対に言わないと思っていたその言葉を、不意打ちで聞き、思わず素っ頓狂な声で聞き返した。


「…いや、巴がいつも「嫁」だって言うから、合わせてみたんだろ」


壮一郎は(からかいが過ぎたか)と、少しバツが悪そうに視線を逸らした。


だが、既にその言葉は巴の耳に届いておらず、 巴は、今日一日の色仕掛け、そして最後の「旦那」という言葉のコンボで、キャパシティを完全に超えてしまった。 顔を真っ赤にしたまま、正真正銘の茹蛸になり、そのままグラリと湯舟の中で意識を失い、のぼせ上っていた。


「…!?おい、巴!!巴!!!」


ぐったりと自分にもたれかかってきた巴に、壮一郎は慌ててその身体を抱きかかえ、気絶した巴を担ぎあげ、急いで風呂場から出るのだった。


(お前は、ホントにもう…自分で仕掛けて最後に自爆すんなよ…)


そう思いながら、壮一郎は(幸い、自分の着替えは脱衣所に置いてあったため)まず自分の身体を大急ぎで拭き、バスローブを羽織ると、巴の身体もバスタオルで乱暴に拭き、そのまま自室まで運びいれた。 そして、押入れから客用の布団を引っ張り出して巴を寝かせると、その上に(仕方なく)自分のスウェットやTシャツを、とりあえずの寝間着として着せた。


それから1時間後。壮一郎が濡れた髪を乾かし終え、自分の布団で横になろうかと思っていた頃、巴がうっすらと目を開けた。


「あれ…ここは…?あたし、壮一郎と一緒に…」


「そうだよ、風呂で急に気絶したんだよ」


布団で寝ていた巴の横では、既に自分の寝る準備を終えた壮一郎が、枕元に座って様子を窺っていた。


「で、気分はどうだ?」


壮一郎は、あらかじめ用意しておいた水の入ったコップを手渡す。 それをゆっくりと受け取り、飲み干す巴。


「…ん、問題なさそう…っていうか、今何時…?」


「23時過ぎってとこか…」


壮一郎が、部屋の壁掛け時計を見た。


巴はその時間を聞いて愕然とした…


「うっわぁ…やらかした…夜道真っ暗じゃん…」


この美影町は、田舎なだけあって、流石に22時を過ぎると商店街の外灯は全て消え、神社の参道などは完全な闇に包まれる。スマホ1個の貧弱なライトで、あの長い夜道を果たして転ばずに帰れるのか…


「どーしよ…壮一郎…」


巴は、布団から身を起こし、不安な様子で壮一郎を見つめる。


「…ま、諦めて今日は泊まってくんだな」


壮一郎は、さも当然のように、何食わぬ顔で言った。


「…厳さんは…?」


「今日は客先で朝まで飲み明かすんだと…まぁ、仕事だな」


それを聞いた巴は、この状況(父は不在、自分は壮一郎の部屋、時間は深夜、そして泊まれと言われた)を改めて認識し、急に心臓の鼓動がドクドクと跳ね上がり、顔が紅潮していくのがわかる。


「おい、巴。別に何もしないから、安心しろ。というか俺も明日は朝から仕事だから、さっさと寝たい」


その緊張を察したのか、壮一郎は先手を打って、実に事務的な口調でそう釘を刺した。 その言葉を聞いて、巴は少し安心した。(少しだけ、残念に思ったかもしれないが) 普段、理性の塊である壮一郎のその言葉に、これほど感謝する日が来るとは…


「…わかった、おやすみ…壮一郎」


「あぁ、おやすみ」


巴は客用の布団に、壮一郎は自分の布団に。 そうして、二人は同じ部屋で、わずかな距離を隔てて、床に着くのであった。

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