4話
壮一郎が美影町に戻ってきてから、早くも1ヶ月程が経過し、季節は5月半ばになっていた。 新緑が目に鮮やかで、時折吹く風が心地よい季節だ。
巴と再会したあの日から、巴は飽きもせず、本当に毎日のように、学校が終わるとこの神代神社を訪れていた。
その日、壮一郎は神主見習いとしての日課である、境内の掃き掃除をしていた。竹箒が砂利を掻く、サッ、サッ、という乾いた音だけが、静かな午後の境内に響く。
ふと手を止め、時刻が15時を過ぎた頃、壮一郎は空を見上げ、独りごちた。
「巴の奴…今日も来るのかねぇ…」
その声には、最初の頃のような拒絶や困惑ではなく、半ば諦めのような、あるいは日常を受け入れたようなものが含まれていた。
(卒業したらいいのか?) (巴がそれまで気が変わらなかったら…)
あの日、うっかり口を滑らせて巴に与えてしまった言質。 あの約束から一ヶ月。 律儀にも毎日毎日、甲斐甲斐しく通ってくる巴に対して、壮一郎の心境は複雑だった。
(本当に俺と将来、結婚する気か?あいつ…)
あの時は勢いで言っただけだろうと高を括っていたが、巴の行動は本気そのものだ。 壮一郎は、安易に約束したことを本気で後悔し始めていた。いや、後悔しつつも、その事態に慣らされてしまっている自分にも気づいていた。
「そろそろ時間か…」
壮一郎は竹箒を持つ手に力を込め、再び掃き掃除を再開しようと、参道へと続く石畳の道に目をやった。
すると、まさにそのタイミングで。
「壮一郎~~」
見慣れた美影高校の制服姿が、鎮守の森の向こうから現れた。元気にこちらに手を振りながら、石畳を駆け上がってくる姿がそこにはあった。
壮一郎は、その寸分違わぬ日課通りの光景に、諦めたような、しかしどこか親しみのこもった苦笑いを浮かべた。
「お前は…ホントに飽きんやっちゃな…」
「飽きるって何がよ?」
息を切らせるでもなく、巴は壮一郎の目の前でぴたりと止まる。そして、学校帰りにここに寄ることが、まるで呼吸をするのと同じくらい当然! とでも言いたげな顔で、壮一郎をくりくりとした瞳で見上げた。
「…別になんでもないよ。とりあえず、家にあがって茶でも飲んでろ。俺もこれ終わったら行くから」
壮一郎はそう言うと、再び掃き掃除に戻った。 毎日、来ては「今日、朱音がね」「授業でこんなことがあって」と、学校での他愛ない出来事を数時間マシンガンのように話し続け、そして満足げに帰っていく。 巴のその姿は、壮一郎にとって既に日常の一部と化していた。
しかし、今日はいつもと様子が違った。 巴がいつものように「おじゃましまーす」と居間のほうへ向かわず、その場でもじもじと立ち尽くしている。
「…壮一郎、実はお願いがございまして…」
「ん?なんだ?カラオケなら先週行ったばかりじゃないか…」
壮一郎は箒の手を止め、振り返る。 壮一郎の数少ない休日は、そのほとんどが巴によって「カラオケ」か「ゲーセン」に連れ回されることで消費されていた。
「あたしをなんだと思ってるのかね…実は…その、お勉強教えてほしくて…」
「勉強を?珍しいな。なんかあったのか?」
壮一郎は目を丸くした。遊びの誘い以外で巴から何かを頼まれるのは、極めて稀なことだったからだ。
巴は、いつもの猛獣のような積極性はどこへやら、恥ずかしそうに視線を落とし、制服のスカートの裾を指でいじりながら答えた。
「実は、中間テストが来週に迫ってるんだけど、あたし勉強苦手で…」
もじもじと、窺うようにこちらを見てくる巴。 その普段とは違うギャップに、壮一郎は思わず張り詰めていた空気を緩ませた。
「…はぁ、仕方ねぇな。俺で良ければいくらでも付き合ってやるよ」
その言葉を待っていましたとばかりに、巴は「ぱあっ」と顔を輝かせた。
「やったっ」
その場でぴょんと小さく飛び跳ねる巴を見て、(こいつ、こういうところは素直だな)と、壮一郎の心は知らず知らずのうちに和んでいた。
*
場所は移り、壮一郎の自室である和室。 掃き清められた畳の上に置かれた低い文机を挟み、巴と壮一郎は横並びになって座っていた。
この1ヶ月、巴は毎日のように神社に来てはいたが、こうして壮一郎の自室で、かつてのように二人きりで机に向かうのは、帰郷してから初めてのことだった。 畳の匂い、低い文机、その全てが懐かしい。 だからこそ、妙な緊張感が漂う。
「いいか、この公式はここで使うんだ。で、こっちの歴史の語呂合わせは、この単語がこうやって…」
壮一郎は、自分が使っていた古い参考書を広げながら、巴が苦手だという教科(数学と日本史だろうか)を丁寧に教えていた。
巴はその横で、 「ふんふん」 と、いかにも真剣に聞いているかのような相槌を打ちながら、 その視線は、開かれた教科書ではなく、隣に座る壮一郎の横顔にじーっと固定されていた。
「…あのな、巴。俺の顔を見てもテストが解けるわけじゃないんだぞ…」
教えている内容が全く頭に入っていないであろうその視線に、壮一郎はついに我慢の限界が来て、ペンを置き、巴に指摘した。
しかし、巴は悪びれる様子もなく、むしろ「バレたか」とでも言いたげに「ぐへへ」と奇妙な笑いを漏らした。
「仕方ないじゃん。壮一郎が横にいるんだからさぁ」
と、集中できないのは壮一郎のせいだと、恥ずかしげもなく言ってみせた。
「仕方なくねぇよ…ほら、ちゃんと教科書見て」
壮一郎は呆れつつも、再び解説に戻ろうと、巴の方へ向き直った。 その瞬間、壮一郎の視界に、あるものが飛び込んできた。
巴の胸元。 制服の下に着たシャツのボタンが、上から二番目まで外れており、白い肌と淡い色の下着が見え隠れしていることに。
巴は、壮一郎の視線が自分の胸元に落ちたことに気付いたのか気付いていないのか、素知らぬふりで、しかし口元だけはニヤリと勝利を確信したかのように笑った。
だが、壮一郎は特に気にする様子もなく、その視線をすぐに教科書へと戻した。
「ったく、ちゃんと勉強しないと赤点取っちまうぞ」
色仕掛けなど全く意に介さない、実に素っ気ない態度でそう窘めた。
巴は、渾身の誘惑(?)がスルーされたことに「ぐぬぬ」と気まずそうな、悔しそうな顔になり、慌てて話題を元に戻した。
「流石に3回連続赤点は…まずいかな?壮一郎」
「いや、まずいだろ。なんだ3回連続赤点って…お前、今までまともに勉強してこなかったのか?」
壮一郎は、神主の息子として、というより常識人として眉をひそめた。
すると巴は、今度こそ、とばかりに胸を張り、得意げに答えた。
「ふふん。将来、壮一郎に嫁に貰ってもらうから、勉強よりも家事全般の技術を向上させておりましたっ!」
「花嫁修業は完璧だ」と自慢げに語る巴を見て、壮一郎は「こいつは本気で言ってる」と悟り、深く頭を抱えた…
「…お前な…俺が別の人と結婚するとか、考えなかったのか?」
壮一郎は、あまり言いたくなかったが、その可能性を指摘してみる。少し痛い事を指摘してしまったかと、内心思った壮一郎だったが、巴は全く気にしていない様子で、
「壮一郎が、あたしに許可なく他の人と結婚するなんて思ってなかったしなぁ」
と、まるで「今日は晴れだね」とでも言うかのように、さらっと答えた。
「…なんだ、その絶大な信頼は…」
壮一郎は、その根拠のない(しかし揺るぎない)自信に、もはや戦慄すら覚えた。
「嬉しい?」
巴は、壮一郎の困惑を好意的に解釈し、ニヤっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「はぁー…嬉しいよりも重いよ。…あと巴、さっきから胸元はだけてるから直しなさい。目のやり場に困る」
壮一郎は、ようやく苛立ったようにそう指摘した。
それを聞いた巴は、壮一郎の指摘に(ついに食いついた!)と、あくどい笑みを浮かべた。
「ぐっへっへ…わざとだよ。どう?気になる?」
2年で成長したであろう胸部の膨らみを、これでもか、と言わんばかりに、巴はわざとらしく壮一郎に見せつけた。
しかし…
「いやぁ?」
壮一郎は、まるで興味がないとでも言うように、軽く首を傾げて受け流した。
「おぃおぃぉい、よーーーく見てみなよっ!あたしの成長ってやつをさぁぁぁぁあ」
巴は、信じられないという顔で、身を乗り出して詰め寄った。
壮一郎は、その必死な様子に、今日一番の深い嘆息を漏らした。
「はぁー…お前、それならせめて勉強とかのほうの成長を見せてくれよ…はぁ…どれどれ」
そう言いながら、壮一郎は覚悟を決めたように、巴の胸元を(観察対象として)じっくりと真正面から観察し始めた。
「へ?」
予想外な壮一郎の行動――「恥ずかしがる」でも「怒る」でもなく、「冷静に観察する」という行動に、今度は巴が戸惑う番だった。
「まぁ、確かに2年も経てば色々成長はするもんだしなぁ………中身はあんま変わってないようだが…」
まるで美術品でも鑑定するかのように、冷静に分析する壮一郎。その視線には、不純なものは一切感じられない。
それに対して巴は…
「おぉぉい、他に言う事ないのか!?ってか、なんでそんなじっくり見れるんだ!?照れとかないのか!?」
「…いや、お前が見てみろ。って言うから見て、思った事述べてるんだろ…」
壮一郎は、心底不思議そうに答える。
巴は、自分から仕掛けたにも関わらず、その想定外の行動をしてくる壮一郎の反応に、今更になって猛烈な恥じらいを感じ、慌てて胸元のボタンを留め、シャツを整え始めた。
「ぐぁぁぁあああ!!!こいつはホントに****ついてるのかぁぁぁぁぁあああ!!」
自爆した巴が、畳の上を転げまわりながらとんでもない事を叫ぶ。
そんな巴に対して、壮一郎は満足げに頷いた。
「はい、気が済んだところで、勉強再会すんぞ、巴」
「…はぁい…」
一頻り騒いで疲れたのか、巴は諦めがついたのか、渋々といった様子で文机の前に座り直す。 そして、ようやく教科書に視線を戻し、壮一郎の解説を真剣に聞き始めたのだった。
その(ようやく勉強する気になった)様子を見て、壮一郎は満足げに笑っていたのだった。




