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神主見習いと幼馴染の許嫁  作者: ブヒ太郎


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19話

初夏の強い日差しが差し込む、美影高校3年生の教室。窓の外からは運動部の掛け声が響き、昼休みの賑やかな時間がピークを迎えていた。


巴、朱音、美咲、瑞希の4人は、教室の一番後ろの窓際という一角で机を囲み、色とりどりの弁当を広げていた。ふわりと漂う卵焼きの甘い匂いが、彼女たちの小さなテリトリーを満たしていた。


「でぇ~、彼氏とはどうなのよ~?巴」


美咲が、大きなおにぎりを頬張りながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて聞いた。


「どうって?」


巴は、弁当箱の唐揚げを掴もうとしていた箸を中空でぴたりと止め、心底不思議そうにきょとんとした顔で美咲を見返した。


「美咲…それ聞くか…普通…」


朱音が、「また始まった」とでも言いたげな深いため息と共に、こめかみを押さえた。つい昨日も「一緒に入浴した」「同じ布団で寝た」という詳細すぎる惚気のろけを散々聞かされたばかりだった。それなのに、さらに踏み込もうとする美咲のデリカシーのなさに、朱音は本気で呆れていた。


「いいじゃんいいじゃん、あの堅物そうな人が巴をどんな風に甘やかしているか聞きたいし」


朱音の呆れ顔とは対照的に、瑞希が、他人の恋バナが大好きと公言してはばからない楽しそうな笑みで目を輝かせ、前のめりに身を乗り出した。


「…お前ら…後悔すんなよ…」


朱音の疲れ果てたような警告は、しかし好奇心に満ちた二人には届かなかった。


「いや、話すの前提かい…」


巴も、その三人の(自分の惚気話で盛り上がる)やり取りに、少し引き気味だった。


「そういえばさ、期末テストの結果出たじゃん?巴どうだったの?」


美咲が、今思い出したかのように話題を変えるように聞いた。


「あー…」


巴が、それまでの威勢はどこへやら、急に明後日の方向を見て視線を泳かせた。


「おい、まさか…」


朱音が、その態度から嫌な予感を覚えながら聞いた。


「ぎ、ぎりぎり赤点回避できた…」


巴が、まるで蚊の鳴くような小さな声で答えた。


「「「おぉ…」」」


三人が、意外そうに声を揃えた。


「え?なにその反応?」


巴が、不満そうに三人を見た。


「いや、だって巴だし…」


美咲が、正直に答えた。


「普通に赤点取ると思ってた」


瑞希も、遠慮なく続けた。


「お前ら…」


巴が、むっとした顔をした。


「でも、よく頑張ったじゃん。壮一郎さんにはもう見せたの?」


朱音が、フォローするように言った。


「ううん、まだ。これから帰ったら見せる予定」


巴が、少し照れくさそうに答えた。


「へぇー、壮一郎さん喜ぶんじゃない?」


美咲が、ニヤニヤしながら言った。


「うん!絶対褒めてくれると思う!」


巴が、先ほどまでの赤点疑惑など微塵も感じさせない、満面の笑みで顔を輝かせた。


「ほう?」


三人が、(ご褒美という単語に反応し)興味津々といった様子で同時に身を乗り出した。


「だって、壮一郎が『赤点回避できたら、ご褒美あげる』って約束してくれてたし!」


巴が、嬉しそうに声を弾ませて語った。


「あー、そういう約束してたんだ」


朱音が、(それなら巴が頑張るわけだ、と)納得したように頷いた。


「うん!だから、これで帰ったら…」


巴が、そこでぴたりと言葉を切り、何かを想像したのか、急に顔を耳まで真っ赤に染めた。


「帰ったら?」


瑞希が、ニヤニヤしながら促すように聞いた。


「これで、壮一郎にエロい事できるぜ…ぐっへっへっへ…」


巴が、じゅるり、と口の端からよだれを垂らしながら、何か良からぬ企みを思いついた悪役のような、あるいは獲物を見つけた獣のような笑みを浮かべた。


「巴、よだれよだれ…あと、それ普通男側の台詞…」


朱音が、もはやツッコむ気力も失せたという顔で、呆れたように巴の口元を無言で指差した。


「貞操観念が終わってらっしゃる…」


美咲が、本気でドン引きした様子で、引き気味に言った。


「…流石最狂の嫁…」


瑞希が、感心したような、呆れたような小さな声で呟いた。


「なんだよ、お前らも彼氏できたら同じこと考えるくせに」


巴が、心外だというように不満そうに三人を見た。


「いや、考えても口に出さないし、よだれも垂らさない」


朱音が、食い気味に即座に反論した。


「それに、そんな獣みたいな顔もしない」


美咲が、冷ややかに続けた。


「普通の女子は、もうちょっと恥じらいがあるんだよ…」


瑞希が、諭すようにため息をついた。


「むぅ…」


巴が、三人に正論で責められて、少し拗ねたような顔をした。


「まぁ、でも壮一郎さんが了承してるなら、別にいいんじゃない?」


朱音が、フォローするように言った。


「そうそう。巴と壮一郎さんの問題だし」


美咲も、同意するように頷いた。


「ただ、もうちょっと女の子らしさは持ったほうがいいと思うよ…」


瑞希が、アドバイスするように言った。


「女の子らしさって…」


巴が、不思議そうに首を傾げた。


「「「色々あるでしょ…」」」


三人が、声を揃えてため息をついた。


「そういえばさ、最近何かあった?」


朱音が、話題を変えるように聞いた。


「あ、そうだ!昨日ねー、壮一郎とショッピングモール行ったのよ」


巴が、話題が変わったことに気づかず、嬉しそうに語り始めた。


「デート?」


美咲が、少し興味を示した。


「まぁ、デートっちゃデート?でね、最初は普通に水着選んでたわけ」


「水着?」


「うん。夏休みに一緒にレジャー施設のプール行くからって」


「へぇー、いいじゃん」


瑞希が、少し羨ましそうに言った。


「でしょー?でね、あたしが色々水着見せても、壮一郎ったら『いいんじゃないか』『似合うと思うよ』って、まるで他人事みたいにそっけないわけよ」


「あー、壮一郎さんらしい」


朱音が、(あの真面目な壮一郎さんが、色めきだって反応するはずもないか、と)納得したように頷いた。


「そうそう!だから、あたしが『どんなの着て欲しい?』って聞いたら…」


巴は、そこで一度言葉を切り、三人の顔を見回した。


「…なに?」


美咲が、じれったそうに促した。


「壮一郎ってばね、ラックの奥からさぁ…」


巴が、わざとらしく声を潜めた。


「だーいぶ布面積が少ない、際どい水着を持ってきたのよ!」


「えぇ!?」


美咲と瑞希が、同時に驚きの声を上げた。


「しかもね、あたしが『ちょっとこれは…』って言ったら、もっと際どいの持ってくるの!次から次へと!」


「マジで?あの真面目そうな壮一郎さんが?」


瑞希が、信じられないという顔をした。


「そうなのよ!で、最終的にさぁ…」


巴は、顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに続けた。


「一番際どいやつを目の前に持ってきて、『俺はこれ着た巴が見たいな』って、真顔で言うわけよ!」


「うわぁ…」


美咲が、何とも言えない表情を浮かべた。


「で、あたしもう、恥ずかしくて恥ずかしくて…でも、壮一郎が選んでくれたやつだし…」


「まさか…」


朱音が、嫌な予感を覚えながら聞いた。


「買ってもらっちゃった☆」


巴が、何の迷いもない満面の笑みでピースサインをしながら答えた。


「「「…」」」


三人は、その潔さというか、恥じらいのなさというか、とにかく完全に言葉を失った。


「でね、帰りの車の中で、壮一郎が『楽しみにしてるよ』って言ってくれて…うへへへ…」


「そこで、うへへへ…って言える神経が凄いよ…」


瑞希が、心底呆れたように言った。


「それでね、家に帰ってからも、壮一郎が『その水着、似合うと思うよ』って何度も言ってくれて…」


「もういいから…」


美咲が、手で制した。


「で、『プール行くの楽しみだね』って話してたら、壮一郎が急に『巴』って呼んで…」


「聞きたくない…」


朱音が、両手で耳を塞いだ。


「あたしの頭をわしわしって撫でてくれて、『お前は本当に可愛いな』って…ぐへへへ…」


「もう限界…」


瑞希が、机に突っ伏した。


「それでね、夜お風呂入る時も…」


「ストップ!ストップ!」


美咲が、これ以上聞いたら昼ごはんが不味くなるとでもいうように、両手でバツ印を作った。


「え?まだ話の途中なんだけど?」


巴が、なぜ止められたのか全く分かっていない様子で、不思議そうに首を傾げた。


「…あの壮一郎さんにもそういう面があったとはねぇ…」


朱音が、惚気話にぐったりしながらも、少し意外そうに呟いた。


「ぐっふっふ…壮一郎もあたしの魅力に掛かれば、こんなもんよ」


巴が、胸を張って自慢げに言った。


「いや、なんというか…巴が結婚だ、嫁だ、子作りだなんだの、ずーーっと言ってたから、壮一郎さんの変な部分を目覚めさせたとしか…」


朱音が、的確にその原因を指摘した。


「変な部分って何よ!」


巴が、不満そうに反論した。


「いや、普通の男なら最初からそういう目で見てるもんだけど、壮一郎さんは真面目だったじゃん。それが巴の影響で、だんだん…」


「だんだん?」


「男らしくなってきたっていうか…」


朱音が、少し困ったように言葉を濁した。


「良いことじゃん!」


巴が、満足そうに頷いた。


「まぁ、巴にとってはね…」


三人は、そう言いながら、再び自分たちの弁当に意識を戻すのだった。



放課後。


傾き始めた西日がアスファルトをオレンジ色に染める。巴は、いつものように一人、神社へと続く緩やかな坂道を歩いていた。


今日は朱音たちがバイトだったため、一人で帰ることになったのだ。


「ふふ~ん♪」


覚えたての流行歌のメロディで鼻歌を歌いながら、スクールバッグを揺らし、軽快な足取りで歩く巴。その表情には、壮一郎に会えることへの期待が隠しきれないほど溢れていた。


(今日の夕飯は何にしようかな…壮一郎、カレーが好きだって言ってたっけ…)


そんなことを考えながら歩いていると、不意に後ろから声がかかった。


「巴~、待ってよ~」


振り返ると、息を切らせた美咲が走ってきた。


「あれ?美咲、バイトは?」


「あー、シフト変更になったの。で、ちょうど良かった。一緒に帰ろうと思って」


美咲が、巴の隣に並んだ。


「おー、珍しいね」


「まぁね。それにさ、ちょっと聞きたいことがあって」


美咲が、少し真剣な顔をした。


「ん?なに?」


「いやぁ、私もさ、そろそろ彼氏欲しいなって思ってて」


「おー、いいじゃん!」


巴が、嬉しそうに反応した。


「でしょ?で、巴と壮一郎さんって、どういう風に付き合うことになったの?」


その質問に、巴は少し考え込むように空を見上げた。


「どういう風にって…まぁ、あたしが毎日通い詰めて…」


「それは知ってる」


「で、一緒にいる時間が増えて…」


「うんうん」


「気付いたら、お互い好きになってた?」


「…あー、なるほどね」


美咲が、納得したように頷いた。


「でも、一番大きかったのは、あたしが壮一郎の事を諦めなかったことかな」


巴が、少し真剣な顔で言った。


「諦めなかった?」


「うん。2年間離れてた時も、ずっと壮一郎の事考えてたし、帰ってきてからも毎日会いに行った。そしたら、壮一郎もあたしの事を意識してくれるようになって…」


「へぇ…」


美咲が、感心したように巴を見た。


「だから、美咲も好きな人がいるなら、諦めないで頑張れば、きっと振り向いてくれるよ」


巴が、ニカッと太陽のように笑い、励ますように美咲の肩をパンパンと力強く叩いた。


「ありがと、巴。参考になったわ」


「おー、頑張れ頑張れ」


二人は、そんな友人同士の会話をしながら、夕焼けに染まる神社へと続く道を歩いていった。


やがて、神社の鳥居が見えてくると、巴の足取りがさらに速くなった。


「じゃぁ、私ここで。頑張ってね、美咲」


「うん、ありがと。また明日ね」


美咲と別れた巴は、一人、参道を駆け上がっていった。


その先には、広大な神社の境内で、いつものように竹箒を持って落ち葉を掃き清めている壮一郎の姿があった。サラサラという箒の音が、夕暮れの静寂に心地よく響いていた。


「壮一郎~~っ!」


巴の弾むような元気な声が、静かな境内に響き渡った。


壮一郎は、その声に振り返ると、一日の疲れが癒えたかのように小さく笑み、掃く手を止めて手を振った。


「おかえり、巴」


その優しい声と笑顔に、巴は今日一番の幸せを感じながら、最後の数メートルを壮一郎の元へと駆け寄っていくのだった。



夕食時。神代家の居間には、巴が腕を振るったカレーの香ばしいスパイスの香りが漂っていた。テーブルには大皿に盛られたカレーライスと、彩り鮮やかなサラダが並んでいる。


壮一郎と巴は、いつものように隣同士に座り、揃ってスプーンを進めていた。巴は、今日も一日の出来事を壮一郎に話そうと口を開きかけたが、その前に壮一郎が先に声をかけた。


「そういえば、巴。お前、テストの結果はどうだったんだ?」


壮一郎が、カレーを口に運びながら、何気なく聞いた。その声には、期待半分、不安半分といった響きがあった。


「フヒヒヒ…よくぞ聞いてくれました…」


巴は、その質問を待っていたとばかりに、怪しい笑みを浮かべながら、制服のポケットからくしゃくしゃになったテストの通知書を取り出した。そして、それを壮一郎の目の前に、まるで宝物でも見せるかのように、ゆっくりと広げて見せた。


壮一郎は、スプーンを持つ手を止め、その通知書に視線を落とした。数秒の沈黙。そして、小さくため息をつくように言った。


「うーん…見事に赤点ギリギリだな…」


その言葉と同時に、壮一郎は空いている方の手を伸ばし、巴の頭をいつものように、わしわしと優しく撫でた。その手つきは、呆れながらも労うような、複雑な感情が込められていた。


「フヘ…フヘヘ…もっと褒めて」


巴は、その手の温もりに目を細めながら、さらなる賞賛を求めるように、壮一郎の肩に頭を擦り寄せた。まるで飼い主に甘える犬のように。


「褒めてない褒めてない…」


壮一郎は、その図々しい要求に苦笑しながらも、撫でる手は止めなかった。


巴は、その壮一郎の優しい手つきを堪能した後、ふと何かを思い出したように、顔を上げた。そして、少し間を置いてから、甘えるような、しかしどこか挑発的な声で言った。


「それで、壮一郎ぉ~?約束のご褒美なんだけど」


その声色には、明らかに何かを期待している響きがあった。壮一郎は、その声に少し警戒するように、巴の顔を見た。


「………えっと、なんだっけ?」


壮一郎は、わざととぼけるように首を傾げた。本当は覚えていた。しかし、この面倒な展開を少しでも先延ばしにしようという、彼なりの防衛本能が働いたのだった。


「…ふへへ…エロい事しようって約束じゃないですかぁ、旦那ぁ…」


巴は、壮一郎の腰に手を回しながら、耳元で囁くように言った。その声には、恥じらいなど微塵もなく、むしろ堂々とした、あるいは開き直ったような響きがあった。


「…貞操観念が…」


壮一郎は、そのあまりにもストレートすぎる言葉に、思わず小さく呟いた。どこの男が、そんな風に女性から誘われるのだろうか。


「あぁん?男に二言は無いだろ!壮一郎!!!」


巴は、その壮一郎の逃げ腰な態度に、一気に詰め寄った。その眼差しには、「約束は守ってもらう」という強い意志が宿っていた。


壮一郎は、その迫力に押され、観念したように深くため息をついた。


「はぁ…わかったわかった…じゃぁ、寝る時な…」


その言葉を聞いた瞬間、巴の顔がぱあっと輝いた。まるで、長年の願いが叶ったかのような、満面の笑みだった。


「…ふへへ…今夜は寝かせないぜ?壮一郎」


巴は、勝ち誇ったように、どこかで聞いたような台詞を口にした。その声には、期待と興奮が入り混じっていた。


「ほんとにどこでそんなセリフ覚えてくんだよ…」


壮一郎は、その(またしても漫画かドラマか何かからの引用であろう)台詞に、心底呆れたように言った。だが、その口元には、小さな笑みが浮かんでいた。



夜。湯気が立ち込める、神代家の広い浴槽。


壮一郎と巴は、既に身体を洗い終えた後、肩が触れ合う距離で隣同士、湯に浸かっていた。カポン、カポンと湯が揺れる音だけが、静かな浴室に響いていた。


巴は、壮一郎の肩にぴったりと寄り添い、その腕に自分の腕を絡ませていた。しかし、その表情は、先ほどまでの威勢の良さとは打って変わって、どこか緊張した面持ちだった。


「・・・・・・・」


巴は、何も言わず、ただ壮一郎の肩に顔を埋めていた。その呼吸は、少し早かった。


壮一郎は、その沈黙を不思議に思い、隣の巴の顔を覗き込むように見た。


「…いや、さっきまでの威勢はどうした…?」


その言葉には、からかうような、しかし優しい響きがあった。


「う、煩い!!!流石のあたしも緊張ってもんがっ!!」


巴は、図星を突かれたように、顔を真っ赤にして反論した。その声は、湯気の中で少し震えていた。


「そうかいそうかい…」


壮一郎は、その反応を面白そうに見ながら、小さく笑った。


そして、不意に。


壮一郎は、巴の肩を掴み、そっと自分の方へと引き寄せた。巴の身体が、壮一郎の胸に密着した。その温もりと柔らかさが、湯の温度とは別の熱を帯びていた。


壮一郎は、巴の耳元に顔を近づけ、低い声で囁いた。


「…今夜は寝かせないからな?」


その言葉は、先ほど巴が言った台詞をそのまま返すような、しかし、壮一郎が言うとその意味が全く違って聞こえる、妖艶な響きを持っていた。


「~~~っ!?」


巴の顔が、一気に耳まで真っ赤に染まった。湯の熱さなのか、羞恥心なのか、もはや区別がつかないほどだった。


壮一郎の胸に身体を預けたまま、巴は必死に抗議の言葉を絞り出した。


「エッチ!!!変態!!!ケダモノ!!!!」


その声は、怒っているのか、喜んでいるのか、判別のつかない、甲高い悲鳴のようだった。


「お前が誘ったんだろ…」


壮一郎は、その反応を楽しむように、淡々と事実を告げた。


「…ひぇぇぇ…攻めるのは勘弁してぇぇぇ…」


巴は、もはや完全に守勢に回り、壮一郎の胸にしがみつきながら、か細い声で懇願した。その姿は、先ほどまでの威勢の良さとは正反対の、実にヘタレな姿だった。


「あぁー…はいはい、わかりました…」


壮一郎は、その反応に呆れつつも、優しく巴の頭を撫でた。その手つきは、いつものように穏やかで、愛おしさに満ちていた。


「…」


巴は、その手の温もりに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。赤かった顔も、徐々に通常の色に戻っていった。


「…はぁ」


壮一郎は、そんな巴の様子を見て、小さくため息をついた。結局、いつものパターンだった。


しかし、巴は諦めていなかった。少しの沈黙の後、再び顔を上げ、今度は決意を込めたような、どこか芝居がかった口調で言った。


「…ぐっへっへ…覚悟しろよ、勇者壮一郎、今日こそお前の最期の時だ…」


その台詞は、明らかにどこかの漫画からの引用だった。壮一郎は、もはや驚きもせず、ただ優しく笑いながら答えた。


「わかったわかった」


そう言いながら、壮一郎は巴の頭を撫し続けた。その手つきは、まるで子供をあやすような、実に穏やかなものだった。


湯気の中で、二人の時間はゆっくりと流れていった。結局、今夜も何も起こらないのだろう。壮一郎は、そう確信しながらも、腕の中の巴の温もりを、静かに感じ続けていた。



風呂から上がり、髪を乾かし終えた二人は、壮一郎の部屋へと向かった。畳の上には、川の字に並べられた二組の布団が敷かれている。障子越しに差し込む月明かりが、静かな部屋をほのかに照らしていた。


壮一郎は、先に自分の布団に入ると、横になりながら巴に声をかけた。


「んじゃぁ、おやすみ…」


その声は、いつもと変わらない、穏やかな響きだった。


「…お、おやすみ…」


巴も、自分の布団に入りながら、少し緊張した様子で答えた。その声は、心なしか震えているようにも聞こえた。


部屋に静寂が訪れた。聞こえるのは、遠くで鳴く虫の声と、二人の呼吸の音だけだった。


しかし、その静寂は長くは続かなかった。


五分後。


もぞもぞ、もぞもぞ。


隣の布団から、何やら怪しい音が聞こえてきた。壮一郎は、その音に薄々気づいてはいたが、しばらく無視を決め込んでいた。しかし、その音は一向に止まる気配がなかった。


壮一郎は、観念したように小さくため息をつくと、横を向いた。


「…どうした?巴?」


その問いかけに、しばらく沈黙が続いた。そして、巴の息遣いだけが、やけに大きく聞こえてきた。


「…はぁ…はぁ…約束は守ってもらうぞ…壮一郎」


その声は、緊張と期待が入り混じった、震えるような響きだった。


壮一郎は、その声に何かを察し、巴の方を向いた。月明かりの中、そこには──


寝間着を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿で、真っ赤な顔をしながら、しかし決意を込めた眼差しでこちらを見つめる巴の姿があった。


壮一郎は、その光景に一瞬目を丸くしたが、すぐに呆れたように額に手を当てた。


「…いや、だから、そのセリフはなんなんだ…何と戦ってるんだ…」


その言葉には、困惑と、しかしどこか愛おしさが滲んでいた。


「…っ!」


巴は、その壮一郎の反応に、さらに顔を赤くしながら、恥ずかしそうに、しかし必死に壮一郎を見つめ続けた。その瞳には、勇気を振り絞った決意が宿っていた。


壮一郎は、その姿を見て、深く長いため息をついた。


「はぁー…わかったわかった…」


そう言いながら、壮一郎は自分の布団の掛け布団を持ち上げ、巴に入るように手招きした。その仕草は、もはや諦めたような、しかし優しさに満ちたものだった。


「………」


巴は、その招きに、一瞬躊躇したように動きを止めた。しかし、意を決したように、おずおずと、しかし確実に、壮一郎の布団へと這い寄っていった。


そして、壮一郎の身体にぴったりとくっついた。その柔らかな肌の感触が、壮一郎の身体に直接伝わってきた。


「…はぁ…はぁ…さぁ、覚悟してもらうぞ…」


巴は、真っ赤になりながら、震える声でそう言った。その声には、緊張と期待、そして少しの恐怖が入り混じっていた。


「…やれやれ…」


壮一郎は、そう呟きながら、巴の顎に手を添えた。そして、ゆっくりと顔を近づけ──


唇を重ねた。


「っ!」


巴の身体が、一瞬ビクリと震えた。しかし、すぐにその緊張が解け、壮一郎のキスに応えるように、目を閉じた。


壮一郎は、キスをしながら、空いている方の手を巴の太ももへとそっと滑らせた。その柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと撫でた。


「ひぅ!?」


巴が、予想外の感触に、小さく悲鳴のような声を上げた。その身体が、さらに壮一郎にしがみついてきた。


「…ったく、ホントにヘタレだなぁ…巴は…」


壮一郎は、その反応を見て、呆れたように、しかし愛おしそうに言いながら、巴を優しく抱き寄せた。


「そ、そこは男らしく、ガバっと!!」


巴は、壮一郎の胸に顔を埋めながら、必死に抗議の言葉を絞り出した。しかし、その声には、もはや説得力など微塵もなかった。


「…そうだなぁ…そうしたいのも山々だが、お前まだ学生だし、まだ7月中旬だし…今、避妊具もってないし」


壮一郎は、その巴の要求を、現実的な理由を並べて冷静に却下した。その声は、優しいが、しかし譲らない強さがあった。


「そ、そそそ、そこは責任を取ってくれればっ!!」


巴は、最後の抵抗として、そう叫んだ。


「いや、そりゃ取るが…お腹大きくなった姿で卒業写真撮るのかぁ?」


壮一郎の、その一言が、巴の思考を止めた。


「そん時はそん時だ…」


巴は、もじもじしながら、弱々しく答えた。しかし、その声には、もはや確信がなかった。


「…子供に卒業写真見せた時、お前がそれでもいいっていうなら、俺は続けるけど…」


壮一郎は、さらに追い打ちをかけるように、冷静に現実を突きつけた。


「っ!…………」


巴は、その言葉に完全に沈黙した。将来、自分の子供に卒業写真を見せる場面を想像したのだろう。お腹が大きくなった姿で写っている自分の姿を。


「まぁ、お前がそれでもいいって言うなら、襲ってこいよ。その時は俺も応じるよ」


壮一郎は、最終的な判断を、巴に委ねた。その声には、巴の決断を尊重する、真摯な響きがあった。


「ぐ、ぐぬぬ…子供と卒業どちらを取れば…」


巴は、究極の選択を迫られ、苦悶の声を上げた。


「いや、どっちも選べよ…」


壮一郎は、その意味不明な葛藤に、即座にツッコミを入れた。


結局、巴は、壮一郎に子供に卒業写真を見せた時の話をされて、答えが出ず、壮一郎に抱きついたまま、その温もりと安心感の中で、ゆっくりと眠りについていった。


壮一郎は、そんな巴の寝顔を静かに見つめながら、小さく笑った。


(ホント…面白い女だよ、お前は…)


そう心の中で呟きながら、壮一郎も巴を抱きしめたまま、静かに目を閉じた。


月明かりが、二人の寝顔を優しく照らしていた。今夜も、何も起こらなかった。しかし、それでいいのだ。壮一郎は、そう確信しながら、巴の温もりを感じ続けていた。

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