15話
17時過ぎ。 神社の静かな居間では、壮一郎と巴が低い文机を挟み、来たる期末テストに向けた勉強に取り組んでいた。 窓の外はすでに夕暮れの色に染まり始めている。父の厳がいない母屋は、しんと静まり返っていた。
しかし、その実態は以前の中間テスト前と何ら変わりはなかった。
「ここは、連体形だから活用が…」 「この鎌倉時代の仏像の作者を覚える公式は…」 「ここの英単語の語呂合わせは…」
壮一郎の、参考書を指し示しながら真剣に説明する声だけが、静かな畳の間に響く。 その横で、相も変わらず巴は、 「ふんふん」 と、いかにも真剣に聞いているような相槌を打ちながら、その視線は参考書ではなく、壮一郎の横顔に釘付けになっていた。 壮一郎の真剣な横顔を、巴はじっと見つめている。その瞳には、勉強への熱意ではなく、別の熱がこもっていた。
「…巴、真剣にやれ…」
壮一郎はため息を一つつき、ペンを置いた。その集中力の欠片もない視線に、何度目かの注意をするが、 巴は悪びれる様子もなく、 「えー、やってるよー、これでもー」 とニヤリと笑うだけだった。
「お前なぁ…ほんとにそんなんじゃ期末テストで赤点とって、夏休みは補習ばっかになっちまうぞ」
壮一郎は、先日彼女が最も嫌がっていた罰を持ち出して窘めた。
巴は、その言葉にようやく焦りを見せた。 「二人きりの貴重な夏休み」が失われることだけは避けたいらしい。
「ぐぬぬ…」 と呻きながら、渋々といった様子で参考書に視線を落とす。 そして、仕方なく(あるいは、ごまかすように)壮一郎の肩に自分の頭を預けるようにして寄りかかり、その体温を感じながら、壮一郎が説明してくれる内容でわからない箇所があれば、ようやくポツリ、ポツリと質問をしていくのだった。
時刻が18時半を回ったころだった。
壮一郎は、そろそろ夕食の支度でも、と考えて参考書から顔を上げた、まさにその時だった。
巴がふいに、寄りかかっていた頭を起こし、 「なんか普通に勉強してるだけだとつまんないな…」 とボヤいた。
壮一郎は、その(また何か始まったな)という言葉に、やれやれと巴の頭にポンと手を置いた。
「まぁ、頑張れ」
と言うのだが、巴はその手つきに何かを閃いたように顔を輝かせた。
「そうだ、壮一郎…家庭教師ごっこしてよ」
と、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて言ってきたのだった。
壮一郎は、その突拍子もない提案に、やや呆れた顔で聞き返す。
「なんだ…また漫画ネタか?」
しかし、巴は首を横に振った。
「いやいや、今回は動画ネタだよ!」
嫌な予感が、壮一郎の背筋を走る。ろくな内容であるはずがない。 それでも、一応聞くことにした。
「ほぉ…どんな動画だ…」
巴は、待ってましたとばかりに楽しそうに語り始めた。
「あのね!美人の女家庭教師が高校生の男の子の勉強を見る話でね!」
と、実に不穏な事を言ってきた。 壮一郎はその話を聞くや否や、眉間に皺を寄せた。
「…おい巴…」
それでも巴の(暴走気味な)話は止まらない。
「次のテストでいい点を取れたら、先生が良い事してあげる♪って話でっ!」
巴は、そのシーンを思い出したのか、やや興奮気味に語る。
壮一郎は、また新たな頭痛の種が増えた、と言いたげに深く頭を抱えた。
「なんだ…まさかその『美人家庭教師』役を俺にやれ、とでも言いたいのか…」
それを聞くと、巴は満足そうににんまりと笑った。
「当たりっ!それやってくれるなら、あたし勉強も頑張れるっ!」
呆れかえる壮一郎だが、巴はキラキラと期待に満ちた瞳で壮一郎を見つめていた。 これは逃げられないな、と悟った壮一郎は、あえてその「良い事」の内容について聞いてみた。
「で…お前が良い点取れたら、俺はどんな良い事をしてあげればいいんだ…」
巴は、待ってましたとばかりに笑い、 「そりゃぁ、勿論…******ですよ。動画の鉄板ネタ!」 と、一切の恥じらいもなく、堂々と言い放った。
壮一郎はそれを聞き、ぐったりしながら反論する。
「あのな…それ、普通男側のセリフだ………はぁ…わかった、なら期末で全科目80点以上取れたらな…」
壮一郎は、達成不可能な条件を提示して諦めさせようとした。
だが、巴は当然のように食い下がった。
「えぇぇぇ!?!?無理無理!!赤点回避にまけてよ、壮一郎ぉぉぉぉぉおおお」
そう叫びながら、巴は壮一郎に飛びついたのだった。
体勢を崩され、巴に抱きつかれたまま、壮一郎は畳の上に組み倒される。 文机の上の参考書がバサリと落ち、畳のい草の匂いが鼻をついた。
壮一郎に覆いかぶさった巴は、その上で身体をわざとらしくクネクネさせながら、 「…ふっへっへ…いいだろぉ…減るもんじゃないんだからさぁ…壮一郎♡…なんなら今からでも…」 と、妖艶な雰囲気を醸し出そうと、怪しく迫った。
壮一郎は、その(色気よりも食欲が勝りそうな)誘惑に、深く嘆息しながらも、あえて乗ってやることにした。 この面倒な攻防を終わらせるためだ。
「…そうだな…お前がそこまで言うなら」
と、巴の身体を自分に強く押し付けさせるように、その腰に手を回した。
その瞬間。 壮一郎の腕の力が強まる。本気を感じ取った巴は、途端にいつものヘタレに戻った。
「ぬほっ!?ちょちょちょ、待って待って!!心の準備がっ!!」
と、予想外の壮一郎の反撃に、抱き寄せられた巴は、顔を真っ赤にしてジタバタと抵抗し始めた。
壮一郎は、その(いつも通りの)ヘタレっぷりに呆れて巴を離し、体を起こした。
「…ハァ…ほんとにこっちから仕掛けると、お前はホントに弱いというか、なんというか…」
そんな巴は、組み伏せられた体勢のまま、何かを決意するように顔を上げた。
「ハァ…ハァ…だ、だ、だ、大丈夫。期末テスト終わるころにはあたしも覚悟を決めるからっ!」
と、謎の決意表明に満ち溢れる巴。
壮一郎は、その言葉を軽く受け流し、 「ハイハイ…」 と言いながら立ち上がり、まだ畳に座り込んでいる巴の頭をワシワシと撫でて、そのまま部屋を出ていこうとした。
巴は、その壮一郎の背中に、 「え…?ちょっと壮一郎どこに行くの?」 と、変な事をして引かれたかと勘違いし、慌てて壮一郎を引き留めようとする。
振り返った壮一郎は、心底不思議そうに、 「どこって、そろそろ夕飯の支度しないと…」 と、当たり前のように言うのだった。
それを聞いた巴は、慌てて立ち上がり、 「ちょちょ!それは嫁であるあたしの仕事なんだからっ!」 と反論してみせる。
壮一郎は、その言葉に肩をすくめた。 「毎日、お前に作ってもらうのもアレだろ」
だが、巴は譲らない。 「んな、そしたら将来どーすんだっ!?仕事もせずに、家事もせずって訳にもいかんだろ!?」
壮一郎はその(未来の役割分担まで考えた)言葉を聞き、少し上を見上げるようにして考えた。 「ん-…子育てって仕事あるじゃないか…」 と、ごく自然に思い浮かんだ言葉を言った。
巴はその(あまりにも自然な)発言を聞き、一瞬固まった。
「!?…た、しかに、あるけどさ…いや、それならなんなら今からレッツゴー!?」
困惑のあまり、意味不明な単語を繰り出す巴。
壮一郎は、その慌てぶりに笑い出した。
「レッツゴーしねぇよ。ほら、作る気あるなら手伝え巴」
と、台所へと巴を手招きするのだった。
巴は、その壮一郎の笑顔に、すぐにいつもの調子を取り戻し、笑顔で壮一郎の後を駆けていく。 その楽しそうな顔を、壮一郎は振り返って、優しく眺めているのだった。
*
壮一郎と巴が、夕食を取り、再び勉強を始めてから 時刻が21時を回った頃だった。
集中力が途切れ、参考書を眺めるだけの時間が増えてきた頃合い。 巴は、壮一郎の腕に自分の身体をぴっとりとくっつけると、甘えた声を出す。
「うへへへ…旦那、そろそろお風呂の時間じゃないですかね…?お背中流しますぜ?」
いつものおふざけのような、照れ隠しの妙な言い回しで誘ってきた。 しかし、その瞳は本気だ。
壮一郎はそんな巴を見て、ペンを置くと、 「そうだな、じゃぁ一緒に入るか」 と、その誘いを待っていたかのように、何食わぬ顔で言った。
巴はその予想外の即答に、驚いたのか、 「そ、そそ、壮一郎が積極的に!?」 と戸惑う。 いつもは自分が強引に仕掛けて、壮一郎が呆れながら折れる、というのがお決まりのパターンだったからだ。
壮一郎は、そんな巴の動揺を楽しむように、 「んな…もう2回や3回一緒に入った仲じゃないんだから…」 とシレっと答えた。 実際、二人が一緒に入浴するのはこれが初めてではない。
巴は、その余裕綽々な態度に逆に気圧され、思わず後ずさりするが、
「ほら、行くぞ」
壮一郎は先に立ち上がり、当然のように巴に手を差し伸べる。 巴は、その手を取るしかなかった。
そのまま更衣室についた二人。 父がいなくなり、二人だけになった広い脱衣所は、妙な緊張感に包まれている。
壮一郎は、その空気など意にも介さず、何食わぬ顔で服を脱ぎ始めた。 作務衣を脱ぎ、Tシャツを脱ぐ。その無防備な背中を見ながら、巴は自分の私服のボタンに手をかけたまま、動けずにいた。
「ほら、巴もさっさと脱げ」
先に下着一枚になった壮一郎が、振り返ってそう言うのだが、 巴は 「お、お、お、おぅ…」 と言ってモジモジしていた。
普段は壮一郎が入ってからを確認して突撃している彼女だが、 いざ一緒の空間で、しらふの状態で一緒に脱ぎ始めるとなると、まだ気まずさが残っていた。
壮一郎はそんな巴に気付いたのか、小さく息を吐き、 「ほら、時間が勿体ないから」 と言って、巴の目の前に立つと、その服のボタンに手をかける。 そして、何食わぬ顔で脱がしていったのだった。
「そ、壮一郎っ!?」
慌てる巴を他所に、着ていた上着を脱がせ、ブラウスのボタンを一つずつ外していく壮一郎。 巴はされるがままになるしかない。
「流石に下着は自分で脱げよ?」
壮一郎は、巴の白い肌があらわになる寸前で手を止め、そう言いながら、自分はさっさと下着を脱いでいく。
巴は、そんな壮一郎の堂々とした(あるいはデリカシーのない)行動に困惑しながら、 「こ、これが旦那の余裕ってやつなのか!?」 と言いながら、観念したように、自身の下着を脱ぐのであった。
*
風呂場では特に何か行われることもなく、普段通り身体を洗い、湯舟に二人で浸かり、 風呂を出て髪を乾かし、寝巻に着替え、壮一郎の部屋に壮一郎と巴の布団をそれぞれ川の字に並べて敷いた。
壮一郎は 「んじゃぁ、おやすみ、巴」 と自分の布団に入り、横になった。
巴も 「おやすみ」 と言って、自身の布団の中に入り、寝転がったのだが…
数秒の沈黙の後、巴はガバッと布団から勢いよく起き上がった。
「…いや、なんかおかしくないか!?」 と急に叫んだ。
壮一郎は、布団に潜ったまま、肩越しに振り返り、 「何がよ?」 としらばっくれるように言った。 巴は 「だ、だ、だ、男女が同じ屋根の下、同じ部屋でいて、しかも恋人同士で…何も起きないってのがががが」 と反論した。
壮一郎は 「別に毎日何か起きても疲れるだけだろ…?」 とまたもやはぐらかすように言ったが、 巴は納得してない様子で、布団から完全に起き上がり、 四つん這いになり、隣の布団で寝る壮一郎に狙いを定めた。
「フヘ…フヘヘヘ…壮一郎…」 と怪しい眼つきになる巴。 まるで獲物を狙う肉食獣のように、ゆっくりと壮一郎の布団に近づく巴…
壮一郎は、その(いかにも芝居がかった)様子を見て、 「なんだ?一緒に寝たいのか?巴」 と、ため息交じりに言った。 そして、入るならささとしろ、とでも言いたげに、自分がかけていた薄手の夏用タオルケットを持ち上げて隙間を作った。
それを見た巴は 「・・・・・・・・」 と無言のまま、おずおずと、しかし嬉しそうに壮一郎の布団とタオルケットの間にすっぽり収まった。
壮一郎にぴっとりくっついた巴は、その胸元に顔をうずめ、 「…ふっふっふ…間抜けな勇者よ…襲われるとも知らずにのこのこと侵入を許すとはなっ…!」 と、またどこかの漫画ネタを言い出す巴。
呆れてる様子の壮一郎を他所にさらに巴は、 「今宵で貴様の命運もここまでよっ!さぁ覚悟して我にその身体をささげ」 と言いかけたとこで、
壮一郎が、その巴の(寝巻越しだが)尻を鷲掴みにした。
「ひぅっ!?」 奇妙な悲鳴をあげる巴。 その反応を楽しむかのように、壮一郎は尻を撫で続ける。
「ほら、魔王様、がんばれがんばれ」 と、からかうように尻を愛でる壮一郎。
「ひっ!?あっ!?おっ!?」 巴は、予想外の感触に、さらに奇妙な声をあげた。
壮一郎はそんな巴を面白そうに見ながら、 「どうした?魔王様、もしかして降参か?」 と、耳元で囁く。
そこまで責められてようやく巴は観念したようで、 「…ぐっっふ……はぃ…」 と弱弱しい声をあげるのだった…
壮一郎は吹き出し、 「ほんとによわよわ魔王様だなぁ、巴は」 と笑いながら、巴の頭を撫でるのだった。
巴は悔しそうに、 「くっそ…いつかあたしの前に屈服させてやる…」 と負け惜しみを言いながら、それでも壮一郎に身体をくっつけたまま、 その温もりと安心感に包まれ、睡魔に身体をゆだねるのだった。




