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最終話 夜明けの婚礼

※ハッピーエンド確約。暴力描写ひかえめ。糖度は多め。


 夕刻。

 裁定院の石段。

 空は赤くて、紙はよく光る。

 私は殿下――カイル様と並び、第六段の板を抱えて待った。


 宰相ダラントが戻る。

 補佐官ヴァロも。

 分厚い封。重そうな顔。

 でも、印の密度は足りない。見なくても分かる。


「補正書を提出する」

 ダラントは封を差し出した。

 私は受け取り、朱の横に置く。

 側近が読む。セレン様が時刻を書く。


「王印なし。——代理印のみ」

「日付もずれています。正午起案のはずが、午後二刻」

「語彙、『皆のため』の多用。——口頭の追認が透けて見える」


 私は静かに頷く。

 紙は喋る。

 喋るなら、聞くだけだ。


「補正不備。再補正不可。——行政停止範囲を宰相任命権まで拡張します」

 裁定官が杖で軽く石を打つ。小さな音が、夕空を切った。


「王命告示。宰相ダラントの職務、一時停止。調整課および支払課は監査下へ。——臨時代行は王太子」


 ざわめき。

 風。

 ダラントの唇が動く。言葉は出ない。

 ヴァロの爪が白い。

 私は淡々と、最後の紙を重ねる。


「総勘定合意・第六段、完了」


 殿下が押す。

 私も押す。

 輪が重なり、夕焼けの色を吸った。



 宰相府の回廊は、急に静かになった。

 走る音が止まり、紙を数える音だけ残る。

 仕事は続く。罪は紙で切る。人は職を離れる。それだけだ。


 小書庫に戻ると、殿下は椅子に座り、額を押さえた。

 痛みの波。

 私は湯を置く。

 薬草。

 香りが落ち着く。


「終わった」

「はい。数字で終わらせました」


「皆は君を忘れる」

「はい」

「私は——」

「知っています。忘れない」


 言葉にすると、心臓がやっと仕事をやめる。

 殿下は息を整え、私の手を取った。指先が少し冷たい。


「……最後に、朝露の罰を終わらせよう」

「やり方は」


「共起契約の“分有”。——二人で印を重ね、“忘れない”を分け合う。代わりに、私の偏頭痛は薄く、君の『忘れられる』は止まる。負荷は半分ずつ」


 私は笑って、頷いた。

「半分、ください。半分、受け取ってください」


 殿下は立ち上がる。

 小書庫の中央に白紙を敷く。

 国璽。王印。私の署名。殿下の署名。

 二重押印。連続押印。束で共起。

 古い文が示す条件を、すべて満たす。


「読み上げる。——『本契約は“忘れない記憶”を二者に分有する。朝露を逃れる記録は“二人の合意”とし、二人が揃うところに連続性を与える。』」


「承諾します」


 朱が咲く。

 手が触れる。

 胸が熱くなる。

 紙が重い。

 世界が、静かにつながる。


 次の瞬間、殿下の眉間がほどけた。

 目の奥の火花が、ふっと遠ざかる。

 私の胸の奥で、何かがほどける音。

 朝露の糸が切れた、そんな感覚。


「どう?」

「……頭の奥の重しが半分になった。君は?」


「胸の中の空白が、埋まりました」


 嘘じゃない。

 明日の朝、試すまでもない。分かった。



 夜。

 最後の板を壁に掛ける。

 “総勘定合意・完”。

 宰相の任務は代行へ移り、帳簿は紙の秩序に戻る。

 国は、紙で回る。

 恋は、続きで回る。


「殿下」

「なんだ」

「婚約破棄は、合図でした。——次の合図をください」


 殿下は目を細め、少しだけ笑った。

 業務外の笑い。

 ずるい笑い。


「婚約をやり直す。——王命で」


「承知しました。標準で」


 二人で笑う。

 笑いは、記憶より長く残る。



 翌朝。

 世界は、私を忘れなかった。

 侍女が名前で呼んだ。書記官が昨日の話を続けた。

 セレン様はいつもどおり無愛想に、でもちゃんと「リラ殿」と言った。

 殿下は、私の席へ自然に座った。

 確認はもう要らない。

 でも、した。


「皆は君を覚えている」

「はい」

「私は」

「知っています。覚えている」


 朝の光はよく伸びる。紙の朱がきれいに光る。

 今日は、婚約のやり直しを紙にする日だ。



 王命の文は短くした。


『王命。先日の婚約破棄は政治的合図であり、既に任務を終えた。——婚約はここに回復。祝宴は夜。』


 印。印。印。

 音は小さい。重さは確か。

 “合図を終わらせる合図”。

 ややこしいけれど、幸福はだいたい少しややこしい。



 夜。

 広間。

 灯が高い。音楽が戻る。

 私は白を着た。殿下は礼装。

 人は賑やか。紙は落ち着いている。


 司会が言う。

「本日のご報告——王太子殿下とリラ・アルメの婚約回復、および婚礼日程の前倒しについて」


 ざわめき。

 笑い。

 涙ぐむ侍女。

 誤魔化す書記官。

 セレン様は相変わらず無愛想。けれど、目は優しい。


 殿下が私の手を取る。

 人前だから、指先だけ。

 それでも、手はよく覚える。


「約束する。君と続きだけを作る」


 私は頷く。

「約束します。紙でも、心でも」


 拍手。

 音楽。

 夜が高くなる。

 紙は、もう何も戦わない。

 これからは、残すために使う。



 婚礼は、夜明けにした。

 朝露の時間を、味方にするため。

 二人で印を押し、二人で言葉を交わし、二人で続きを誓う。


「リラ」

「はい、殿下」

「妻と呼んでいいか」

「標準で、どうぞ」


 二人で笑った。

 東の空が薄く明るむ。

 朝露が芝に降りる。

 何も消えない。


 紙は重い。

 記憶は軽い。

 だから、二人で持つ。


 忘れない記憶が、国を動かす。

 そして今日からは、家庭も動かす。


——完——

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